別離の贈り物
レインハルトは掌の中の、緑の小瓶を見ながら思い出していた。
旅立つ直前。
ノエルの封印が解かれる日のことだった。
「お前が生まれた日、魔法石が光り輝いたのは何度も話したな」
コランドは娘、ノエルに愛情深く語りかけた。
レインハルトはこの親子たちが好きだった。
自分の失ってしまった幸せな時間を、お伽噺の書かれた美しい本のように、ゆっくりと眺めていられる気がしたからだ。
「あなたはシーラにお乳をもらうとすぐに眠ってしまったの。寝ている貴方の額に魔法石を当てたら、綺麗に鮮やかに輝いた」
ノエルの母のアイリーンが言った。
魔法石は、対象の魔力を感知して光る石だ。
魔力量の有無で、できることが限られる。
一般人ならそこまで問題にはならないが、貴族の子女となると話は別だ。
代々、魔力の量が豊富な貴族女性が王室に嫁ぐのが暗黙の了解なのだ。
ゼガルド王室の伝統に逆らったのは、オリテからやってきた今代の王妃だけだ。
オリテからやってきたレインハルトにも、それくらいの知識は身に付いていた。
「ここまではノエルに何度も話していたわね。でも実は、この話には続きがあるの」
アイリーンが言った。
ノエルが寝間着の上においた手をギュッと握ったのが分かった。
この令嬢は変に成熟して大人びたことを言うくせに、緊張しているのがすぐに分かる。
「眠ったノエルが目を覚ましたあと、エリーが来たんだ。養育係に決まっていたからな。そこで、エリーに見せようともう一度、私たちは目を開けた赤ん坊のノエルに魔法石を当てた。そうしたら」
ノエルがゴクッと唾を飲み込んで訊いた。
「そうしたら?」
「割れた」
「えっ」
「割れたんだ」
父、コランドは真顔で言った。
「魔法石が割れるなんて前代未聞だ。何か不吉なものかと思って、すぐに使いを出してアイリーンのところの公爵家の医者やら祈祷師やら、魔法学者に来てもらった。そうしたら、信じられないことだが、魔力が溢れすぎていて石が割れたというんだ。産まれたての赤ん坊がだぞ? 明らかに異常だった」
「全員、ドン引きしてたわねぇ」
アイリーンが懐かしそうに言った。
ノエルは何と言えばいいか分からず、レインハルトを縋るように見た。
が、レインハルトが、
「知りませんよ、俺は」
と、すげなく返したら、すごすごと視線を撤退させていった。
「で、その場にいる大人たちで話し合った。その結果、ノエルに魔力を抑制する術をかけようということになったのだ」
「そのままにしておくと、魔力が暴発してシーラの乳首が焼き切れるか千切れるかしそうだったのよ。珍しくシーラが焦ってたわねぇ」
アイリーンが有難くない補足をした。
ノエルは難しい顔をして細く長く息を吐いていた。
思ったよりも多くの人たちに、産まれた初日からご迷惑をおかけしていたのを悟ったらしい。
レインハルトは己の主の様子を注意深く見守った。
コランドがマイペースに発言した。
「で、なんやかんや色々頑張った私たちは、だ。ノエルの背中にアザを作ったかわりに、そこそこに魔力を抑えることに成功した」
「それでも王家に嫁ぐ話が出る程には、元々の魔力が大きかったのよ。まるで貴方の中に、もう一人、別の魔力持ちがいるくらいの量だったわあ」
ノエルはソワソワしながら、
「まさかぁそんなぁ」
と歯切れの悪いことを言っていた。
今思えば、母親の慧眼に驚いていたのだと理解できる。
「そのノエルにかけた封印を今日、解く」
と、コランドが言った。
「何で……何で、今? もっと早くても良かったんじゃ……」
ノエルが言うと、コランドは頷いた。
「ゼガルドの貴族として我々にも少し思うところがあってな。お前には悪いが、『平凡』でいてもらわなければならなかったんだよ」
「うちの天使ちゃんが愛らし過ぎて、そういう意味ではたくさん求婚が来て、ある意味目立ってしまったのだけどねぇ」
「あのボンクラ王子にノエルの本質がばれなくて良かったさ」
コランドが咳払いをした。
「さあ、ノエル。この瓶の中身を飲み干すんだ」
「えっ……あ、怪しい……」
茶色の小さな瓶をコランドはノエルに手渡した。
レインハルトは驚いた。
少し古くアンティークのようではあるが――この精巧で緻密な細工、独特の色合いには見覚えがあった。
アイリーンがレインハルトに微笑みかけた気がした。
(あれは、オリテのモラビア硝子だ)
オリテ国の特産のモラビア硝子は、職人が気の遠くなる作業をして彫り上げる工芸品だ。
酒類の製造が盛んなオリテでは、瓶や硝子細工も有名だった。
ノエルはぽかんとしてコランドに尋ねた。
「これ、何なんですか、お父様」
コランドが言った。
「とっておきの……秘薬だ。全て飲むと、かけられていた術が解ける。元々はオリテの解毒薬だったようだが」
ノエルは暫く瞬きをして、瓶をじいっと見つめていたが、キッと思い切ったように顔をあげた。
「分かった。これを飲めばいいんだ……いいのね」
「ああ。一気に飲むんだぞ」
ノエルはきゅぽ、と栓を外し、ためらいもなく瓶の中身を口に含んで、一口飲んだ。
その直後。
「うっ……を、お゛えええええ!」
上品な貴族の館に相応しくない音がした。
薔薇のつぼみにたとえられるピンクの唇から、濁音混じりのむせ返る声なき声が漏れる。
品性の欠片もない音が生じているのを、レインハルトは眉をひそめて見た。
「まずい! まずすぎるッ!」
ノエルが叫んでいる。
コランドも叫んだ。
「だめだノエル、一気に飲まないと魔力が暴発して尻が裂けるぞ!」
コランドの言葉に、ノエルは踏み潰された蛙のような声を出した。
「なんで尻!?」
「封印術はかけるのは大変だが、解くのはすぐなんだ! そのぶん苦い!」
「なんでぇぇぇ……おえっ……無理、もう、出る」
「ノエル! 我慢だ! できる!」
レインハルトは善き従者として、この事態を静観すべきだと判断した。
アイリーンが微笑みながら続ける。
「ちなみに、秘薬はあと二つあるの。ここに黒い瓶と、緑の瓶があるわね。一つは飲んだ者が安らかに楽しい夢を見ながら死ねる薬。もう一つは、飲んだ者が死ぬよりも苦しい思いをするという薬よ」
レインハルトは震えあがった。
「どちらも余りにも恐ろしいのですが……」
アイリーンは言った。
「これら二つの秘薬を、レインハルト。貴方に渡すわ」
レインハルトは驚いた。
「なぜ、ノエル様ではなく、私なのですか? お言葉ですが、伯爵家の秘宝を、私のようなオリテの余所者が持つのは、外聞が悪い」
「あらぁ。よく考えれば分かることじゃなくて?」
アイリーンは貴族の夫人らしい、底の見えない目をして言った。
「レインハルトの方が、使い時をよく分かっているからよ」
レインハルトは、アイリーンは全て、レインハルトが歩んできた道のりを分かっているのではないかと思った。
いや。そんなはずはない。
オリテの過去は、親の亡骸と一緒に置いてきた。
レインハルトは冷静さを奮い起こして、アイリーンに尋ねた。
「奥様。こちらの秘薬はともかく、死ぬより苦しいというのは……拷問に使えということですか?」
アイリーンは優雅に微笑んで言った。
「それも一つの選択肢ではあるわね。だけどね、この秘薬の真価はそれだけではないわ」
そのとき、ノエルがせっかく飲んだ薬を吐き戻しそうになり大騒ぎになった。
アイリーンはレインハルトにだけ、密やかに耳打ちをした。
「覚えておいて。これを飲み干した者はーー……」
(こういう意味だったのか)
今、レインハルトは悟った。
ノエルと共に旅をする自分の役目を。
目の前には脾臓を損傷して、ぐったりとした青年が縛り付けられている。
殺せ、というように、男は口を開いた。
レインハルトは緑の小瓶を軽く振って、栓を開ける。
開いた口に、慎重に注いで顎をあげてやる。
(伯爵令嬢には血生臭いことは不要ってわけか)
男が諦めたように口内の薬を飲んだのを見て、レインハルトは瓶に栓を戻す。
ノエルは全て理解した上で、レインハルトの動向を見守っていた。
男はゆっくりと目を閉じて、少し微笑んだ。
レインハルトは少しも動じないノエルの凜とした横顔を見た。
(もし、オリテで俺の本当の身分がばれそうになって、ノエルに咎が及びそうになれば)
その時は潔く、これを飲めということだろう。
レインハルトは懐に残した黒い小瓶を、指先でそっと撫でた。




