回想:奴隷の軛(くびき)
ゼガルド国には立派な城がある。
城の敷地の中には庭園が広がり、秩序だった平和そのものの景色が来訪者を出迎える。
モルフェはそんなものはマヤカシだともう知っていた。
平和はくだらない幻想だ。
現実に縛られているのは分かっているのに、その反吐みたいな現実に生かされている。
目を覚ましたモルフェは、その日も独房のような部屋から出た。
何百年前は元々地下牢だったというのだから、それもあながち間違っていない。
これでも、大部屋の劣悪な環境に比べればまだ大分ましな方だ。
今日は、ソフィだとかいう第二王子の婚約者が自分を呼んでいるらしい。暗殺稼業は気持ちの良いものではないが、少しの間だけでもこの空間から出られるのは有難かった。
地下闘技場で連勝して、石版に名を刻めるようになると個部屋が与えられる。
ゼガルドのスラムを一掃する王室の『清掃隊』に取っ捕まったのが全ての終わりだった。
なけなしの財産も住むところも全てを奪われ、有無を言わさず地下に押し込められたモルフェたちに強いられたのは、殺し合いだった。
両腕の入れ墨は、奴隷の証だ。
初めは勝った数と負けた数を刻んでいただけだったそれを、闘技場に立ち始めたモルフェはいつからか変えた。
モルフェの両腕には、これまで戦った相手のイニシャルが刻まれている。
負傷者は運が良ければ医務室に運ばれるが、そうでないときはどこかに捨て置かれる。
戦った相手の安否まで付き合う義理は無い。
耳をそがれたか、鼻をそがれたか知らないが、名前をもった人間が存在したことくらいは誰かが知っていたっていいと、モルフェは思う。
モルフェには特殊な能力があった。
毒のある薬物のように、モルフェに攻撃された相手は次の攻撃を受け入れるようになる。
一度攻撃が決まりさえすれば、勝利は確定したようなものだった。
それでも闘技場に立つ度に足が震えた。
恐怖ではなく、怒りのためにだ。
(こいつらは、クズだ)
モルフェは行き場の無い怒りを剣にぶつけた。
その度に観客はワッと湧いた。
いつしかモルフェは闘技場では敵なしと言われるほどの『奴隷』になっていた。
観客はどの奴隷が勝つかどうか、目をギラつかせながら賭ける。
一番人気のモルフェは、自分の預かり知らないところで巨額の金が動くのを冷めた頭で見ていた。
モルフェは石造りの地下の突き当りの部屋の前に立った。ごわごわした服の内ポケットから、小さな南京錠の鍵を取り出す。
この鍵は、闘技場で一度でも優勝すると与えられる。
初めにこの鍵を使ったときは、自由への切符のような気がして、期待すらしたものだ。
無くしたと思っていた希望を見つけたような気になった。
(馬鹿だったよなぁ)
モルフェは部屋に入った。
埃っぽい部屋の中に、梯子が一つだけある。
長い長い梯子だ。
少しきしむ梯子に足をかけて、一段ずつ上へと登っていく。
これは自由への道のりなんてものではない。
闘技場で勝ち上がった奴隷のみに与えられる、名誉ある仕事、と大臣は言った。
(名誉ねぇ。クソの役にも立たねェな)
まだ同胞を殺さないだけマシだというだけだ。
モルフェは梯子を登り切った。
先程と同じ、梯子だけある小さな部屋に出る。
しかし、先程よりは小綺麗だ。
モルフェは部屋から出て、鍵を閉める。
控えていた大臣と兵士に連れられて、モルフェは赤い絨毯の端を歩いた。
しかし、何度来ても狂っていると思う。
地下闘技場の真上は、ゼガルドの城内だった。
「レディと王子がお待ちだ」
と、大臣が小声で言った。
王子の部屋のカウチに座ってゆったりとくつろいでいた小柄な女が、モルフェを見て、目を輝かせて言った。
「あらあ。新しい護衛さん! 殿下、これが闘技場で一番の奴隷ね?」
(どこまでいったって、クズばっかだなあ)
と、モルフェは思う。
しかし、モルフェの選択肢は無い。
大人しく軛に繋がれて王室の命令をこなすか、逃亡奴隷となって捕まり鼻をそがれるか。
「で? 俺はどいつを殺せばいいんです?」
と、モルフェが愛想よく言うと、白く化粧をしたソフィーは陶器のような顔を歪めて満足そうに微笑んだ。




