ソフィーの企み
第二王子の婚約破棄とその後の王室の決断は、ゼガルド国民にすぐに知られるところとなった。
貴族たちの口にも。
「もうお聞きになった? ノエル様は国外に追放されたそうよ」
「王子といっても第二でしょう。国政を任される弟としての自覚がおありなのかしら……」
平民の口にも。
「男爵のお嬢様だって話だけど、アレなら前の伯爵のお嬢様の方がよかったねぇ」
「確かに可愛らしいお顔だちだけどもなあ……あれだろう、浮気っぽいんだろ」
「じゃあ、やや子が産まれても分かんないんじゃねぇのか」
「シッ。あんまり大きな声で話すんじゃないよ。不敬罪だなんだって騒がれたらかなわないさ」
ソフィーは、自分が王室の中心に立つ日々を夢見ていた。
自らの魅力と知性で、正妻として王宮内外の尊敬と称賛を集める自分。貴族としてふさわしい自分。
美しいティーカップに顔が映る。
ソフィーはにこりと微笑んだ。
可愛い。
くりくりとした邪心のない小動物のような黒目がちの二重は天使のようだ。
ソフィは紅茶を飲み干し、そっとカップを持ち上げた。
手を離すとそれは床に落ちて、パリンと割れる。
「ソフィー様!?」
近侍のメイドが素っ頓狂な声をあげた。
「どうなさったのです」
「ねえ、この紅い薔薇のカップ。どうしてこんなもの使うの?」
「えっ……ええっ?」
おろおろとする年かさのメイドの前で、ソフィーは割れたティーカップの破片を握りしめた。
掌が切れ、ぷつ、と赤い血が滴る。
「キャアッ! ソフィー様、おやめください!」
「あたしの前で、あの女の家紋の花を出すなんて、何の嫌がらせ?」
「ご、誤解です」
紅い血。
薔薇よりもずっと紅い血――。
でも、もっと強くしなくちゃ。
男爵じゃまだ弱い。
伯爵よりも、もっと、もっと、強い血を。
(王家の『血』を手に入れたのはあたし! 王子と婚約したのは、あたし!)
それなのに。
ソフィは愛らしい顔に、憤怒の表情を浮かべた。
(『ノエル』が美しく、品格があって、賢い? どうしてそんなくだらない話ばかり、耳に入ってくるの!?)
王宮の廊下や食事の席で、ノエルという名前が囁かれるたびに、ソフィの心は嫉妬と怒りで燃えた。
(いつまで『ノエル』の影に隠れていればいいの? あたしだってこんなに可愛い。あたしのほうが、愛されるべきよ。こんなんじゃない、あたしはもっと、大切にされるべきなのよ。こんなの間違ってる)
手から血をだらだらと流すソフィーは、笑顔で血塗れの破片を床にたたきつけた。
「片付けて頂戴。薔薇なんて、見たくもないわ」
「は、はいっ」
後から駆けつけてきた年配のメイドがやってきて、ヒィッと息をのんだ。
「ソフィー様!? 何をされているんですかッ」
ソフィーは淡々と、よく響く声で指示を出した。
それは指示というにふさわしい、やけに冷静な声だった。
「ねえ。王子を呼んでちょうだい。エリック様を」
「ソフィー様っ」
「早くして!」
ヒステリックな怒号が響く。
華奢な令嬢の口から出たにしては、あまりにも荒々しく獰猛な声だった。
「ソフィー様が死んでしまいそうだから早く来てって! 走って! エリック様に伝えなさい!」
メイドに呼ばれたエリックは、血相を変えて飛んできた。
「ソフィー!? いったい何があったんだ」
「エリック様ぁ……」
割れたティーカップの隣に、へたりと座り込んだソフィーはぽろぽろと涙をこぼした。
血の出た手を痛そうに押さえて、口元へ近づけて小さく体を丸めている。
「怪我をしているのか!? どうしたんだ」
エリックは駆け寄ってソフィーの怪我の具合を見た。
破片で切った傷は小さいが、ソフィーは痛そうに手を押さえている。
床の生々しい血痕にエリックは驚いて体をひいた。
「私、お茶を飲もうとしただけなのです……ですが、う、うう……上手にできなくて」
「おい! 婚約中とはいえ、未来の王族だぞ? できそこないのメイドは誰だ? 今すぐにやめさせてやる」
「やだぁ、そんなの、かわいそうだわ。でも嬉しい、エリック様がソフィーのこと、そんなに愛してくれていて」
ソフィーはうっとりとした目でエリックに笑いかけた。エリックは頬を緩める。
「当然だ。ソフィーは可愛いなあ」
「うふふ。エリック様にお会いできて、痛いのもどこかにとんでいっちゃいました」
「おい! 誰か早く来い! ソフィーに手当てをしろ! もたもたするなッ」
「あーん、男らしくって、ソフィーめろめろになっちゃいますぅ。ねぇ、エリック様。ソフィーもう一つお願いがあるんです」
「ああ、いいぞ。何でも言ってみろ」
「やったあ、嬉しいッ。あのね、実はぁ……ソフィ、エリック様と二人でお出かけがしたいんですぅ」
「出かける……のは、今は無理じゃないか。僕は謹慎中なんだ。お父様に知れたらまずい」
「だってぇ……私たち、なんにも悪いことしてないのに、お部屋にいるなんてッ。ソフィ、全然納得できない」
「分かってくれ。今は不自由だとしても、今後の二人のためなんだ。お父様やお母様も、時間がたてば分かってくれる」
「うん……そう、そうだよね。わかった、ソフィー、がまんする」
「良い子だな、ソフィーは。婚約が決まったら、二人でたくさん出かけよう。そうだ、これ……僕だと思って持っていてくれないか。王家の男児に与えられるロザリオだ。紅い石が綺麗だろう? ほら、僕の心臓はソフィに握られてるんだ」
「まあ! エリック様ったら」
救急箱を持ったメイドが、機械的にソフィーの手当をした。
それを目の端に入れようともしないソフィーは、エリックだけを見て言い放つ。
「じゃあ、ソフィー、二人でお出かけできるようになるときのために、下見をしてきます。だからエリック様、ソフィーにつよーい護衛をつけてください」
「護衛ならば、城にたくさんいるぞ」
「そうじゃなくてぇ、ソフィー専属の護衛ですよぉ。未来の王族には必要でしょっ?」
ソフィーは愛らしい顔で微笑んだ。
しかしその背後には怒りと計算が狡猾に隠されていた。
「騎士団なんかじゃなくて、この国で一番強い人をつけて欲しいんですぅ」
「強い……というのは」
「ソフィーが町に出て、もしもコワーイ人に連れ去られそうになっても、ちゃあんと助けてくれるような強ぉい護衛ですっ。ほら、たとえば」
――地下の闘技場の優勝者とか。
ソフィーの言葉に、エリックの顔色が変わった。
「え……」
「エリック様、前にこっそり教えてくれたよね? 王都の地下には闘技場があるって。そうなんでしょ?」
それは社会の底辺で暗躍する者たちが集まり、力と暴力が支配する場所のことだった。
この場所で名を馳せる者たちは、一般の法律や道徳からはかけ離れている。
金さえあれば何でも行う『奴隷』と呼ばれる者たちがいるのだ。
「ソフィー、つよーい奴隷が一体欲しいなあ。ねぇ、いいでしょ? エリック様」
幼女が新しい人形を強請るときの純粋な愛らしい瞳で、ソフィーはエリックに笑いかけた。




