春は引っ越しの季節
「何かが狂っていると思っても次第に人は流されていく」
サラサラとペンが動き、インクが羊皮紙に染み込んでいく。
魔法ではなく、ペンを動かしているのは男だった。
ヴェテルの周りにはゆったりした空気が流れていた。
薄暗がりの中、第一王子ヴェテルは透き通るような白い手指で一心不乱にペンを動かしていた。
騎士道物語のアナザーストーリーも最終章にかかる頃だ。
「常人と狂人との間には薄い間仕切りしかない。
名も訳も失ってしまって人はいつかは在った真実まで忘れてしまう。
美しさを知る人は哀しさの中でただ書き留める。
確かに在ったことを この上なく美しかったことを。
それに意味があっても 意味がなくても」
地下からドンッという音と振動が伝わってきた。
しかし、ヴェテルは全く動じない。
白い睫毛に縁どられた赤い瞳がじっとインクの先を追う。
「忘れるということも死ぬということも全て消え去ってしまう
不安定で混沌とした確かな日常の中で、
丁寧に謙虚にひとつの言葉を信じながら
ひとつの美しさを心臓に溶かしこむように生きられるならいい。
命が私の口を通って皮膚に骨に肉に
溶け込んでしまうように――」
「ヴェテル様、ヴェテル様……ヴェテル様ってば! もう原稿は終わりにしてください。ほら、地下が騒がしくなってきました。頃合いですよ」
不機嫌そうなリゲルの顔が、ヴェテルの隣ににょっきりと現れた。
「あとちょっとなんだけど仕方ないか。思ってたより早かったね」
「ごたごたは夜のうちに済ませてしまおうという魂胆なのでしょう」
「ふうん」
「ふーんって……他人事のように言わないでください」
「言ってないよ。心配しているだけさ」
「……とにかく、我々も動きますよ。エリックからはこちらに何も命令が飛んでいない。今がチャンスです」
「だけどさリゲル、本当にいいの? 僕が命じた瞬間、君はこのゼガルドの王城の反逆者になる。うまくいかなくて僕が死罪にでもなったら、リゲルだって無事じゃいられないよ」
「舐めないでください。俺たち――俺は、国じゃなくてヴェテル様、あんたの影なんだ。覚悟はできています」
「生きづらそうだよね、リゲルって」
「ヴェテル様と遊んでいる暇はありません。早くご決断を」
「せっかちな男って嫌われるらしいよ。えーと、分かったって、怒らなくてもいいだろう。はいはい……」
第一王子ヴェテルは懐から鍵束を取り出した。
地下牢に通じる道、王宮に通じる道、秘密の抜け穴に通じる道……。
金色の鍵の一つ一つに、オリテの王族の刻印が彫刻されている。
リゲルがヴェテルの前に膝まづく。
騎士道物語の主人公の騎士のモデルは、他ならぬこのリゲルだ。
オリテの王族に仕える影の一族として生きているリゲルが、ゼガルドだけでなく幾多の国々で知られる騎士のモデルとなっているのは不思議なものだ。
ヴェテルは真面目に、命じた。
これで公式に自分たちも反逆者となる。
地下にこもっていた『化け物』が表に出るのだ。
「忠心なる陰に命ずる。地下を制圧し、秘密裏に奴隷たちと私の逃亡を助けよ」
「ハッ!」
水を得た魚のようなリゲルは立ち上がり、嬉々として黒いローヴを羽織った。
クジラをさばいて平たくしたような真っ黒くて大きなローヴは、わりと大柄なリゲルでもすっぽり包み込んでしまう。
このまま移送されてしまいそうで、ヴェテルはあわてて机上の原稿をひっつかんだ。ゼガルドのみならず大陸の国中にいるファンの期待を裏切るわけにはいかない。亡命しようとしまいと、締め切りはやってくるし、最終回は来る。
変化してしまえばしばらく文字が書けないかもしれないが、頭の中にプロットを作り貯めておくことはできるだろう。
ヴェテルは命令に一つ付け加えた。
「また、この原稿を僕と共に、確実にオリテへ届けてくれ。オリテの王族の血縁として『陰』へ命ずる。頼んだよリゲル」
リゲルはあからさまにいやそうな顔をした。
「……言ってる場合ですか?」
「いやいやいや! 重大だよ? 一度なくなった原稿はもう二度と同じ物は生まれないんだよ」
「わかりましたから早く飲んでください」
オリテの青いモラビア硝子の瓶に、液体が入っている。
薄暗がりの地下の部屋では何色かは判別しにくかったが、ヴェテルはリゲルから受け取った瓶の中身を確認しようともしなかった。
躊躇いもなく口に含んで、ごくん、と嚥下していく。
すると、みるみるうちにヴェテルの姿は小さくなった。
そして最後に残ったのは――赤い瞳と白い鼠だった。
「やたら、毛並みがいいですね」
リゲルが太い指ですくいあげると、白い鼠はチュッと鳴いてコロンと腹を見せた。生殺与奪を完全に人任せにしている。リゲルは大切そうに鼠を懐に入れると、鍵束を手にして部屋を出ていこうとした。
すると、ガブリッと鼠がリゲルを噛んだ。
「いっ……痛ェェェェ! ヴェテル様!?」
「チュッ」
「あ、原稿……」
リゲルは机上の羊皮紙を胸元へしまい込む。
これを忘れるなと言いたかったのだろう。
だけれど、歯をたてて胸に思いっきり噛みつかなくてもいい。
「胸の一部がとれてしまった気がしましたよ」
リゲルは反論したが、白鼠は我関せずだ。
この主人をオリテまでおくりとどけなければならない。
リゲルは決意をこめて地下の部屋を出た。
もうここには二度と帰らないだろう。




