奴隷の絶望
「もう……」
だめかもしれない。
口にすれば本当に全てがだめになってしまう気がして、レペは口をつぐんだ。
年かさの奴隷はみんないなくなっていく。
彼らがどこかに連れ去られて働かされているわけではないことは明白だった。
なぜなら、彼らはいつも弱っていて、そしてそういう人間たちを、ゼガルドの兵士の連中はぼろ布の塊を持つかのように担ぎ、運んでいくからだった。
レペたちが住んでいる地下の世界とは別のどこかへ――。
レペの先輩で、お兄さんのようだったテソがいなくなったのは、もうかなり前のことだ。闘技場で負けたテソは突然ばったりと倒れ、兵士がどこかに運んでいった。
テソがいないのに、なぜか自分が眠り、そして起きているのが不思議だった。
この世界から自分にとって重要なものが消え去って、いくら悲しみにくれても、日常がいつものように始まるのが驚きだった。
レペに召集がかかったのは昨日のことだった。
識別のために、腕の内側に塗られた赤い絵の具をレペはじっと見た。
試合は今日だ。これから兵士がレペを呼びに来る。
勝てるだろうか。
それとも本当に、死ぬのだろうか?
レペはそっと自分を抱きしめた。
戸惑いと怒り、悲しさ、そして薄い膜の張ったような諦念が混ざり合ったような気持ちが心の中に渦を巻いていく。
だとしたら自分の人生はいったい何だったのだろう。
戦闘奴隷たちは地下で一様に集めて生活させられる。
最低限の服や食料は与えられるが、娯楽は少なく、時折思い出したかのように砂糖や煙草の配給がある。それも全員分はないので、奴隷たちは闘技場にいなくても互いに争い、すきあらば他人から奪って数少ない愉悦を享受するのだった。
レペたちは闘犬に過ぎない。
貴族の楽しみのために、命をかけて戦い合わせられるのだ。
レペはじっと自分の手を見た。
じり、と焦げ付くような電流が体に走る。
ゼガルドの兵士は皆、強い。
王族ではないものの、代々魔力が強い者が少数の貴族になる。
平民の中で魔力が強く、士官学校へ行って良い成績を収めたものが兵士になる。
スラム出身の貧困層は、まずスタートにも立てない。
いや、一部戦闘奴隷の中から腕を買われて引き抜かれることもあるらしい。
以前この闘技場で名を馳せた、スラム出身の狂暴な三人衆は、オリテの王族に買われて国外へ行ったらしい。赤髪の狂戦士ラン、破裂する凶悪な肉弾コシュ、もう一人は血を浴びて快感を覚える異常者メィル。
彼らは今どこで、何をして生きているのだろう。
仮に自由になったとしても、闘技奴隷はこの道から足を洗うことはできない。
暴力が絶対の世界で生き残った者は、暴力を使ってしか生きていけなくなる。
ランもコシュもメィルも、道徳心の欠片も無い最低な奴らだった。
ただ、そんなのはこの地下では珍しいものではない。
強い者が残り、そうでないものは消え去るのみだ。
万が一、ランたちがまっとうな世界で生きようとするならば、よっぽど精神に作用する強力な魔法にかかるか、生まれ変わるくらいしないといけないだろう。そんな夢物語みたいなこと、起こるわけがない。
そもそもスラムには学校に行ったことなんて無い者ばかりなのだ。
レペにできるのは、コントロールできない弱い雷撃を何度か発射させられるくらいのものだ。
ゼガルドの兵士たちには、まったく効かないだろう。
なぶり殺しにされるのが落ちだ。
でも――。
本当にここで終わるんだろうか。
レペはぎゅっと拳を握った。
理由もはっきりしない涙が出て来た。
怖くないわけではないが、それだけではない。
薄汚くじめじめした地下の牢獄で、何も悪いことをしていないのに捕らえられて、じわじわと柔らかい布で首を絞められるように飼い殺されて、本当に良いのだろうか。
レペの脳裏に、スラムから逃げるときに別れ別れになってしまった母と妹の顔が浮かんだ。
母さんは悲しむだろうか。
もちろん息子が闘技奴隷として殺されたと知ったら、優しい母さんは嘆き悲しむだろう。
レペの心に希望とも呼べないようなちっぽけな火が灯った。
どうせ死ぬなら、自分の好きなように生きたい。
みすみす他人に殺されるのを受け入れて生きるなんて、最初から死んでいるのと同じようなものだ。
「おい、時間だぞ」
兵士がやってきて、レペのいる牢屋の鍵を開けた。
腰には剣があり、恰幅も良い。
やせっぽちで学のないレペと違って、腕力だって魔力だってあるだろう。
兵士は腰に鍵束をぶらさげていた。
レペは一瞬で決意した。
鍵束を引っ張り右手でひっつかむと、兵士の傍をサッと駆け抜ける。
「あっ!」
このまま駆け抜ければ闘技場に続く道と、兵士がいつもやってくる道が出てくる。兵士たちが来る方に行けば、外に出られるはずだ。
「サフォケート!」
全力で走り出したレペは、全身に走った衝撃で崩れ落ちた。
息ができない。
親指と人差し指で喉をつまんで、レペはまだ動く目で兵士を振り返った。
兵士はぼりぼりと頭をかきながら、やるせなさそうに言った。
「あー、クソ、めんどくせえな。このドブネズミが……いちいち俺の手をわずらわせるんじゃねえよ。いいか、お前みたいなドブネズミの中でも最弱の個体ができることはなんだ? 王族や貴族の皆様を楽しませてきもちよーく死ぬことだけだろうがよ? なんでそんなこともわからねぇんだ? 栄誉ある死だよ。くだらねぇ、価値のねぇお前らにもそんくらいできるんだ、感謝してほしいくらいだぜ」
兵士はレペが足元に落とした鍵束を拾い上げて、あざけるようにくるくる回した。
「いいか、人生なんか最初から決まってんだ。王は王に、兵士は兵士に、奴隷は奴隷に生まれてんだよ。お前は最初から捨てゴマなの。外に出ていっても、またかっぱらいで捕まってここに戻ってくるのが落ちだぞ。逃げられねぇよ」
決めつけるな、と言い返したいが声が出ない。
こんなバカげた兵士の指先ひとつで、自分は死んでしまうんだろうか。
レペは初めて、悔しいと思った。
だけど手足をばたつかせる以外にできることもなかった。
兵士はあわれむような眼でレペを見て、
「デリート」
と詠唱して魔法を解いた。
「ゲホッ! ゴホッ!」
「悪いことは言わねえからあきらめろ。お前のためでもある。な、煙草持ってるか? お前どうせ今日で終わりなんだから俺にくれよ。そうすりゃ対戦相手にはあまり長く苦しませるなって交渉してやる」
レペは絶望に飲み込まれそうになった。
目の前の下卑た笑いをする男を殺してやりたい。
もしその力があれば、なんだってするのに。
だけど、無力だった。
どうしようもできない。
自分の尊厳を守るために――今、自分で死ねたらどれだけいいだろう。
そんな考えがふっとよぎった。
無力で虫けらのようでちっぽけな価値のない人間の最期の抵抗が、自分で自分を殺すことなのかもしれない。
レペは立ち上がって兵士を見上げた。
「お前みたいなクソ男にやる煙草なんて一本もねえよ。どうせおまえらだって、煙草ひと箱買う金もないくらい困ってんだろ? 俺らと変わんねぇじゃねえか」
兵士は図星をつかれて押し黙った。
そして、憎悪に満ちた目でレペを睨みつけた。
「テメェ、いい気になってんじゃねぇぞ」
「殺せるもんなら殺してみろよ」
兵士は笑った。
「はは、お前さては俺にお前を殺させる気だな?」
絶望でレペの目の前が真っ暗になっていく。
どうしたってこの闇からは逃れられない。
早く楽になりたいのに。
涙が頬を伝った。もう立ち上がる気力がない。
兵士は醜い顔で笑っている。
「バーカ、簡単にやってやるかよ。お前みたいなバカな奴隷を何匹も見て来たからなあ!? お前はぁ、これからお偉いさん方の前で晒されて、なぶられて、客の目を楽しませながら役にたって――」
ドゴオオンン!!
目の前で高笑いしていた兵士が吹き飛んでいった。
突然現れたその人は、猫のようにしなやかに動き、詠唱もせずに魔法を使った。
詠唱せずに魔法を使うなんて、聞いたことがない。
もしそんなことができるとすれば、それはもはや伝説になっている逃亡奴隷だけだ。最強で最凶で最狂の男。そいつに会った者は皆死んだという死神。
「やけになるんじゃねぇよ」
黄色と緑の目が細められ、レペを見る。
怖いのになぜか酷く、優しいと思った。




