出戻り聖女
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そのころ、馬車の中。
令嬢の優雅な曲線に沿って布地は流れ、裾は馬車の動きに合わせて小さく左右に揺れていた。
白い首元には、大粒の宝石が輝き、耳にもイヤリングが揺れていた。
紅色の薔薇のようなつやのある髪は、精巧な金細工の飾りでまとめられている。
以前ゼガルドにいたときよりもさらに美しく、着飾ったノエル・ブリザーグは厳かでさえあり、豪奢であるという一点を除けばまったく聖女そのものだった。
そんな魅惑の令嬢ノエル・ブリザーグは、唇を動かさないように、テレパスを使っていた。
馬上の家臣、モルフェにどうしても伝えなければならないことがあった。
由々しき事態である。
「モルフェ。やっぱりだめだ」
「ノエルか。どうした。今更おじけづくなんてお前らしくない」
「……あと100秒以内に完全にもれそうだ」
もしゼガルドの民が聴けば、見ている視界との余りのギャップに己の聴覚の誤作動を疑っただろう。
「ばッッか、お前……! なんで済ませとかねぇんだッ! ここがどこか分かってんのかッ」
御者に変装したモルフェが馬上から焦りと凄みを滲ませながら小声で叫んだ。もちろんこちらも魔力を使っての、テレパスでの発言だ。
姿が見えなくとも、鎧の下でピキッと青筋をたてているだろうということは簡単に分かった。
「わかってるよ。わかってるから言ってんだ」
「その無駄に真面目なトーンをやめろ! 腹がたつ!」
そんなことを言われても、まさに真面目な場面のである。
ノエルは細く長く息を吐きだしながら、念を送り続けた。
「少しでも気を抜いたら絶妙なバランスが崩れそうだ……出発前にセルガム飲みすぎたかも……」
「お前な! 幼児じゃねぇんだぞ! いい加減に節度を持てよ! なんで決戦当日にもらしそうなんだよ! ヤギの放牧じゃねぇんだぞ、出発したらもう止まれねーよ!」
「遠足のバスの先生みたいなこと言うなよ。正論はいい!」
「意味分かんねぇし、逆切れしてんじゃねーよ」
「生理現象だぞ。優しくしてくれ」
「生理現象をお前の手で引き起こしてんだよ!」
「頼むよモルフェ~、飛ばしてくれ~、俺の膀胱がもたない……あとどれぐらいで城だ?」
「ゆっくりとお前が100を数えているうちに着く」
「本当か? ゆっくりってどれくらいだ? 正直、かなり切羽詰まってる! 一秒に二秒分数えてもいいか!?」
「ああぁぁぁっ! うるせえバーカ! 知らねーよ! 最悪、そのへんでしろよ」
「そのへんってどのへんだよ!? お前、敵地で立ちションする令嬢なんていねぇだろ!? それはだめだ、もう人としての戦いに負ける気がする。俺の日本人としての、いや、レディの尊厳にかかわる」
腹が立ったのか、モルフェは無視を決め込むことにしたようだ。
「おい? おいおいモルフェ? 頼む、何か念を送ってくれよ、気を逸らしてないと嫁入りどころじゃねぇって、おいモルフェー」
そういうわけで、ゼガルドの王城に着いたとき、ノエルは緊張などしている余裕もなかった。
出迎えだの、挨拶など正直どうでもいいが、そうもいってられない。
大勢の立ち並ぶ中、ノエル・ブリザーグは毅然とした表情で降り立った。
令嬢は、ゆっくりと歩き出し、待ち構えていたゼガルドの人々に微笑みかけた。
その微笑みは令嬢らしく堂々としていたが、明確な意思を感じさせるものだった。
「美しい……」
人々は、ノエル・ブリザーグの美しさと堂々とした姿に見惚れていた。
彼女は、まるで一輪の美しい花のように、荒廃したこの国に華麗に舞い戻ってきたのだ。
「聖女だ」
と誰かが言った。
もしかすると、ゼガルドはもっと良くなるかもしれないと、人々が夢を見るくらいには、ノエル・ブリザーグは美しく輝いていた。
誰にも媚びず、一点だけを見据えて歩いていく高潔な少女。
「聖女様……」
「聖女ノエル!」
「万歳! 聖女様、万歳!」
次第に歓声は広がっていった。
この時ばかりは王城に集まった貴族連中や王族の親戚縁者、または使用人の全てが、ノエル・ブリザーグの美貌と高潔な瞳に心酔していた。
「ゼガルド王国に栄光あれ! 魔法の力に祝福あれ!」
「ワァァァッ」
歓声の中を静かにノエル・ブリザーグは歩いて行った。
ドレスの重さを感じさせることもなく、しっかりとした足取りで。
(もれるもれるもれるもれる)
ノエル・ブリザーグの心中は嵐が吹き荒れていた。
小さい方であることがせめてもの救いだった。




