宿屋の部屋
ニコラの回復の力はすさまじかった。
ぐったりしていたレインハルトは、切り傷だけでなく精神も癒やされたようで、すぐに寝入ってしまった。
あのバルナバスの手の者である男が持ち去った持ち物も戻って来た。ただ、無残に切り裂かれたシャツだけは元には戻らなかった。
男はあれからイーリスによって、地下室で催眠をかけられたらしい。
「まあ、コツさえ掴めば造作もありませんよ。人間の精神は脆いものですから……」
と、涼しい顔で言う美女の整った横顔をノエルは目を細くして眺めた。あの男女がどうなったのかを尋ねても、大丈夫ですよ、とにっこりと微笑まれるだけだった。
イーリスの能力はえげつないものだったらしく、立ち会ったモルフェは幾分か、いやかなり引いていた。
晩ご飯の後、こっそりとモルフェはノエルに囁いて教えた。
「あの陰険メガネ、かなりヤバいぞ……敵の男と女を縛りあげて、聞きたいことを聞いた後だ。目を見てブツブツ言ったかと思ったら、あいつ信じられねーことにーー記憶を消しやがった」
「えっ」
「おかげであの男たちは、バルナバスの部下だったこともすっかり忘れて、しかもお互いが恋人だったと思い込んだまま、船で別の大陸を目指して旅立ったよ」
「それって……」と、ノエル。
レインハルトの苦し紛れの出任せ、駆け落ちプランと非常に似ている。
ノエルはポリポリと鼻の頭を擦りながら、考えた。
レインハルトの恋心が誤解であるのは分かったが、やはり疑問は残る。
バルナバスは鉱山に指輪を使うつもりだ、と搬送されながらレインハルトは話した。
「バルナバスが、まさか鉱山の魔石の全てを使おうとするなんて……」
強大な武力を持ち、それを理由に脅して国力を広げる。
そんなことをすれば、このオリテの惨状めいた光景が大陸中に広がるだけだ。
バルナバスの顔を見たことさえないが、ノエルにも理解できた。
(バルナバス……そいつだけには渡しちゃならない。指輪も、鉱山も)
鉱山というのはノエルの父母が開発しているものだとレインハルトは言った。
確かに半分はゼガルド領だが、半分はオリテにまたがっている。
モルフェと相部屋にしたレインハルトの宿の部屋は整然としていた。
ゾッホという一人がけの丸い椅子のような暖をとるストーブのような小さな熱道具と、レインハルトの腹だけが動いている。
暖房器具の上には湯沸かし用のポットが乗っている。
ノエルが憂鬱な顔をしてぬくめたレモン水をすすっていると、モルフェが帰ってきた。
薬草の少しつんと鼻を刺す匂いがほのかに香った。
「おかえり、モルフェ」
「……おう。ニコラとイーリスはまだ闇市だ」
一命を取り留めたレインハルトの手足には縄の痣があり、痛々しい。
ニコラの回復魔法は強力だったが、その分体にも無理をさせるようで、レインハルトは眠っている。
そして、ノエルとモルフェはその傍らにいるのだった。
ゾッホが普通のストーブと違うのは、火の代わりに青い魔石が発火していることだ。
青は質の悪いクズの魔石だが、モルフェが魔法を重ねて使って威力を増して、何とか使い物になった。
紫がかった小さな稲妻が光り、パチパチと金属の釜の中で音を立てている。
元々白いレインハルトの白い肌に、青みがかった光が当たって、余計に人間離れさせていた。
ノエルは目の前で上下する彫刻のような喉をじっと見た。
呼吸しているのが分かって安心する。
本当に眠っているのは分からなくなるような、心臓に悪い寝顔だった。
「まったく、こんなんでも1000シルもしやがった! どうなってんだ、この国は」
追加で買ってきた魔石をつまみあげてモルフェが毒づく。
200シルのグレッドがだいたい400円くらいの体感なので、前世の感覚でいうと燃料ひとつに2000円かかっているようなものだ。
ゼガルド国内では魔石はほとんど流通していなかった。皆魔法が使えるので必要が無いからだ。
売られたとしても1000シルのような暴力的な価格ではなく、せいぜいキャンディーの小袋くらいの値段だろう。
たしかにここは物価が高すぎる。
埋蔵金でも無い限り、簡単に現状は変わらないだろう。
「この国は『魔石』が無いとどうにもなんねぇんだろ? 魔力も無ぇのに民衆はどうやって生きてんだ」
モルフェが疑問を口にした。
「死にものぐるいで生きてるんじゃないか。街で見ただろ。子どもが犯罪をやってた。ああでもしないと生きていけないんだろ」
「ゼガルドは俺にとっちゃ地獄だったが、隣の国まで腐ってたってわけか。つーか、バルバドスってやつはよ、
指輪で鉱山を使うって言ってたんだろ。どうやって『使う』つもりだ?」
ノエルはゾッホの中ではぜている魔石を眺めた。
緑や黄色の魔石は、魔力に反応して一定の力を発現する。
ゼガルドのように自由に魔法を使えないオリテの人間たちには不可欠な資源だ。
紅い魔石。
王家の指輪……。
「なあ、モルフェ。紅い魔石は人間の『命』で動くんだよな」
「んなこと言ってたな。アレンだったか? アランだったか? ロタゾのいかれ野郎が言ってたってお前が話してたじゃねぇか」
「それが本当だったら」
ノエルは嫌な予感がした。
それは刑事の勘に似ていた。犯人に目星をつけるとき、いや、その前からピンとくる時というのがあった。
当たっていることもあれば、少しばかりずれていることもあった。
が、おそらく今回は、当たっている。
――そうとしか考えられない。
「王家にしか使えない指輪。オリテの王族以外が触れたら焼けただれる指輪。それがもし『紅色』の石だとしたらどうだよ」
「んあ? どういうことだ。だから何だってんだ」
「だから……レインハルトが受け継ぐはずだった王家の指輪。今はプルミエのところにあるけど……あれがもし、バルナバスの
計画しているように、鉱山にある魔石を発動させる道具だったら? 魔力のないオリテの人間でも使えるような、武器だったとしたら?」
「おいおい、もっと分かるように話してくれ。つーか俺は、指輪のありかなんて初めて知ったぞ。お前、そんな大事なこと
どこで知ったんだ?」
「修道院だよ。薬をもらいにいったとき、俺はプルミエと話したんだ。モルフェたちが寝込んでたとき」
「だとしたらおかしな話だ。プルミエの婆さんは指輪をどうやって手に入れたんだ?」
「逃亡するレインハルトの変化薬の対価だって言ってた」
「違う。俺が言いたいのは――じゃあ、どうしてプルミエは、王家の指輪を持ってても無事なんだ? ってことだよ。『オリテの王家以外の
者が持ったら焼けただれる』んだろう? あの婆さんはなんで無事なんだ?」
「そ、それは……なんか、すんごい手袋を使ってるとかじゃないか?」
「嘘くせえな」
モルフェはハッと息を吐き出した。
ノエルはむきになって言った。
「それは良く分かんねーけど! でも、絶対そうなんだよ」
「なんで言い切れる。誰かが嘘をついている可能性だってある。男が喋ったことが本当だとは言い切れないだろう」
「えーと、……勘だ」
「ハァ?」
「刑事の……いや、令嬢の勘だ」
「何だよ令嬢の棺って。どうせお前のことだから、くだらねぇことグダグダ考えてんじゃねぇのか」
「うーん、確かにそうかもしれねぇが……でも、モルフェ、信じてくれよ。俺がお前に嘘ついたことあるか?」
モルフェはじっとノエルの紅い瞳と視線を合わせた。
そしてふいっとゾッホに目を逸らした。
「お前のことはハナから疑ってねえ」
「うまく言えない……プルミエのこともまだ説明できない……けど。でも、俺はバルナバスの探してる指輪が『紅の魔石』に
違いないと思う。だって、考えてみたらレインは、殺されなかったんだ。あれだけ酷いことをされながら……」
「確かに命を奪うのが目的だったら、服だけ裂かずに臓器ごと切り裂いてただろうな」
「つまり、バルナバスの手下は『レインを殺すな』と命令されてたってことだ。なぜ?」
「確かにな。アイツが邪魔なんだったら殺せばいいだけだ」
「その理由についてずっと考えてたんだ。指輪のありかを知りたいからだと思った。だけど、何かひっかかる……」
考えこんだノエルは頭をかきむしりたくなった。
我ながら、脳味噌が筋肉でできているような前世だった。
理知的な、頭を使う推理のようなものは、木下とかハルさんとか、周囲に助けてもらっていたのだ。
だけど今回は、脳筋のおっさん令嬢の隣にいるのは、同じくかそれ以上に脳筋のモルフェだ。
ノエルはうっかり、タルザールの探索を思い出した。
計算高い者と、そうでない者……。
明らかに今回の組み分けは、そうでない者が二人だ。
計算高い側のレインハルトはすやすやと眠っている。
モルフェが何も分かって無さそうな顔をして、闇市で買ってきた魔石をポンポンとボールのように手元で放り投げる。
これはだめだ、とノエルはため息をついた。
★ゾッホはモンゴルの石炭ストーブ「ゾーホ」からもじっています。お料理もできる優れもの。




