襲撃
昼間だというのに、カーテンを閉めた部屋は薄暗かった。
青い尾羽亭の宿の一室には、小さな蝋燭の灯りがゆらめくのみ。レインハルトは、その仄かな光の中で、一人で剣を手入れしていた。
「また留守番か」
剣ももう磨かれる場所もなく、ぴかぴかの刀身をレインハルトの掌中に横たえているばかりだ。
敵の目を欺くための女装もしなくていい。
化粧やらコルセットやらから解放されたのは良かったけれど、こうして誰とも喋らずにひっそりと過ごしているだけというのも、ある意味息が詰まりそうになる。
その時、宿屋の部屋の扉の外から焦ったような女の声が聞こえてきた。
「助けて!誰か、助けてください!」
ドンッと、レインハルトのいる部屋の扉が激しく叩かれる。
錠前がガチャンッと金属音を立てた。
「やめて! 誰か、誰か助けてください」
「誰もいねえよ。おいおい、酒場から目を付けてたんだぞ。そんなにつれなくするなって」
「嫌っ」
「あっ! ひっかきやがったなこのアマ。言うことを聞け。さもないと……」
静かになった。
嫌な予感がする。
女の顔は見えないが、その声には切迫感が漂っていた。
「痛い目を見たくなかったら大人しくしな」
男の下卑た笑い声が聞こえ、レインハルトは眉をひそめた。
レインハルトは静かに鍵を開け、ドアを開いた。
怯えた表情の女が、男に腕を掴まれ、宿屋の階段を降りていくところだった。男の手には、ぎらついた冷たい光を放つ短剣が握られていた。
(――脅されている)
レインハルトは反射的に、男を追いかけた。
男は、短剣を女の腰に突きつけ、怯えた女を引きずりながら宿屋の出口へ向かった。薄暗い路地には、人影はない。男がさらに細い路地に入ろうとするのを見て、レインハルトは一瞬立ち止まり、考えを巡らせた。直接飛び込めば女性が危険かもしれない。
だが、躊躇すれば逃げられてしまう。
「おい!」
レインハルトの鋭い声が、静寂を破った。男は足を止め、一瞬振り返った。その目には、焦りと、獲物を奪われることへの怒りが交錯していた。
「んだぁ~? テメェはあ」
「その女性は抵抗しているんじゃないのか? ナイフを放せ」
レインハルトはゆっくりと一歩ずつ近づいた。右手は自然と腰の剣に伸びていたが、まだ抜かなかった。
男は舌打ちし、今度は女の首元に短剣を突きつけた。
「近づくな。こいつを殺すぞ」
女の顔は恐怖で青白く、レインハルトに助けを求めるような目で訴えていた。
レインハルトは冷静さを保ち、周囲を見渡した。男の注意を引きつけつつ、女を救出しなければならない――。
「そんな脅しで怯むと思うのか?」
レインハルトは挑発的に言った。同時に、左手を剣の鞘に伸ばし、握りしめようとした。
男は怒り狂い、女をさらに強く掴んで叫んだ。
「本気だ! 言っただろう! それ以上近づくな! 剣を抜けばこの女の命はないぞ」
「気に入った女なら正攻法で口説けばいいだろう」
「これが俺の正しい女の奪い方ってやつだよ」
「女性は奪うものではなく、愛でるものだ」
「っく~! お前みたいな顔のやつに言われると腹がたつんだよ! イケメンなんか滅びろ!」
「俺の顔とお前の顔には何の関係もないだろう」
「うるせえ! うるせえうるせえっ! 黙れッ」
その瞬間、レインハルトは懐に入れていた空き瓶を投げつけた。オリテの秘薬の瓶だ。中身は入っていない。一応、あの伯爵家のものだということで、値打ちがあるものかもしれないと、ノエルから預かって持っていたが、人助けのためならやむをえない。
それにしてもオリテでこんなふうに薬瓶を使うだなんて、何か因縁めいたものがあるような気がしてならなかった。
一瞬のことだが、男はバランスを崩し、わずかによろめいた。
「今だ!」
レインハルトは素早く剣を抜くと、男との距離を一気に詰めた。男が体制を立て直す前に、レインハルトの剣が短剣を弾き飛ばす。
「くっ…!」
短剣は地面に転がり、男は慌てて逃げ出そうとした。
レインハルトは女の手を引き背後に隠しながら、男に向けて鋭い蹴りを放った。男は悲鳴を上げて倒れ込んだ。
女は震える手でレインハルトの腕にしがみついた。
「大丈夫ですか」
レインハルトは優しく語りかけた。女はうなずき、涙を流しながら小さな声で答えた。
「助けてくれて、本当にありがとうございます……それなのに、あたし……」
「え? すみません、何とおっしゃいましたか」
「ごめんなさい」
あっという間の出来事だった。
女はワンピースのポケットから、緑色の小瓶を取り出した。そして、栓を抜くと、中身をレインハルトに浴びせかけた。
「っぐ!」
レインハルトは避けようとしたが、男に掴まれていた。
液体が皮膚に触れた部分が熱くなり、意識が遠のいていく。
「オリテの民には過ぎた『魔力』だよなあ? レナード王子」
男の声が遠くで聞こえた。
(しまった……)
瓶の中身には見当がつく。
オリテには魔力を持つものがほとんどいない。
だからこそ剣技で身をたてるのだ。
(魔法の薬、か……)
薬の力を借りて生き延び、逃げおおせて、オリテに帰ってきてから、薬でやられるとは、全く皮肉なものだった。
(ノエル様……)
レインハルトは悔しさに苛まれながら、抗いがたい眠気に逆らえずに意識を失った。




