ニコラとイーリス
ニコラはいたずらっぽく片眉をあげた。
内緒話をする少年のように、少しだけ声を潜める。
「イルは女性の時の名です。男性名は……イーリス」
「イーリス!?」
まさか、とノエルはたおやかな女性の顔をのぞき込んだ。
ばつが悪そうに、長身の女性は長い睫毛を伏せて目を逸らす。
イーリスといえば、あの筋骨隆々とした修道士の男だ。
「あの、表情筋が絶滅してた陰険マッチョの、あのイーリスってことか!?」
目の前の美女が苦笑いを浮かべる。
「そんなふうに思われていたのですか、私は」
自分の一億倍くらい淑女らしいと思う。
ノエルは何故か自ずから恥じらうような気持ちになって、イーリスに謝罪した。
「あっ、スマン、そんなつもりじゃなかったんだけど……いや、でも、はぁ、そっかあ……」
「これでもゼガルドではそれなりに活躍してきたのですよ」
「それだよ、その、ゼガルドって……いったいどういうことなんだ?」
ノエルはミステリアスな美女、あらため無慈悲で合理的な修道院の清掃リーダー、イーリスその人をまじまじと見た。どこからどう見ても、モルフェやレインが部屋でうわごとのように『鬼』『悪魔』と愚痴を吐いていた対象者には見えない。
イーリスは額にふわっとかかる長い髪をかきあげ、ノエルの隣に座った。
その横にちょこちょことニコラがやってきて座る。
砂漠の猫のような耳は今はフードに隠れておらず、オアシスの風を受けて気持ちよさそうに揺れた。
「イーリスはゼガルドの城である女の監視をしていたんです。ノエルさんも知っている方ですよ」
「え? 俺が知っている王族なんて……あの第二王子エリックぐらいだぞ」
イーリスはふっと笑みを浮かべた。
目は笑っていない。遠くのものを見る目で、記憶を見ている。
「あなたも良く知っている女ですよ。聞き覚えがあるでしょう。ソフィー・ゴーネッシュという名に」
「ソフィー? ……ソフィー、ああ、あいつか! エリックにすり寄っていった男爵家の嬢ちゃんだ!」
「ええ。私はソフィー・ゴーネッシュの傍仕えとしてゼガルドに潜入していたのです」
「兵士にも給仕長にも口説かれて大変だったんだよねぇ」
「その話は良い」
イル、もとい、イーリスはぴしゃりとニコラの相づちを遮った。
「私は潜入中、ゼガルドの情勢についての情報を集めて、プルミエ様にお伝えする任務を負っていました」
ノエルは驚いた。
「えぇ……お前たちって修道士なんだろ? そんなスパイみたいなこと」
「あはは、ですよねぇ。だけど、毎日お祈りをしている僕たちって、ある意味一番『死』に近いんですよお」
ニコラが不穏なことを言う。
「だから何か? お前らは戦士の素質があるってことか?」
「僕らは祈りを捧げるのが仕事です。人の死を悼み、生を祝い、ただ祈る――だけど人間って不思議なもので、それで救われるというときもあるんです。特にこんな戦ばかりの世の中だとですねえ」
「うーん……そうかもなあ」
ノエルの脳裏にパッと、ショックを受けていたルーナの潤んだ金色の瞳が浮かんだ。
一般的には、何かを殺すというのはものすごく心に衝撃がかかる行為だ。
それが、心を亡くした奴隷とはいえ、元・人間だというのならば、ルーナの受けたショックは計り知れない。
今、ルーナのために隣で祈ってくれる存在がいれば、どれだけ救われるだろう。
あぐらを組んだイーリスをはさんで座っていたニコラが立ち上がり、ブーツを脱いだ。
ふんわりと足の甲を覆っている毛の下から、凶器のような鋭い爪が見えたがすぐにひっこんだ。
ニコラは音も立てずにノエルの隣までやってきて、泉に足をひたす。
「ああ、気持ち良いですねぇ。ほら、慣れないブーツなんてはいたから、酷く靴ずれしちゃった……やっぱり裸足が一番良いですねぇ。冷えてて、すっとする」
オアシスの水は、ノエルの真っ白い柔らかい足も、ニコラの毛むくじゃらの足にも、柔らかく同じ冷たさを伝えていた。
「ノエルさん。僕は戦災孤児なんですよ。オリテとレヴィアスとの戦で、親も兄弟もいっぺんに亡くして……焼け跡で死にそうになってたところを、たまたまプルミエ様に拾われた。それで小さな頃から修道院に入れてもらって、修道士になったんです。経緯は違うけれど、イーリスだって、他のみんなだって似たようなものです。何だろうなあ、ありきたりな偶像崇拝じゃなくて……聖ルキナスの修道士はみんな、それぞれ、『死』を見てきてるんですよ」
「……そうだったのか」
ノエルは意外だったニコラの過去に内心驚いていた。
それなら、少年のような体躯にも頷ける。
体質だと思っていたけれど、実際に少年なのかもしれない。
何より、陽気でいつも微笑んでいるような顔つきのニコラから『死』なんていう単語が出るとは思わなかった。
「だからね、ノエルさん。僕が言いたいのは」
ニコラの瞳に太陽が映り、表面に瑞々しく張った薄い膜がきらりっと光る。
「僕らはそれなりに、戦をくぐってきてるってことなんです」
ニコラが泉の水から足を引き抜いた。
獣の長い爪と爪の間の毛の無い部分の皮膚が、赤く腫れて擦過傷のようになっている。
ニコラは両手の指だけを組み合わせ、眠るように目を閉じた。
「あっ!?」
ノエルの目の前で、ニコラの傷がみるみるうちに修復されていく。
無詠唱での魔法――。
(モルフェと同じだ)
「言ったでしょう、僕は『あまり魔法は使えない』んです。僕ができるのは回復の魔法だけ。ただし、戦場では少しはお役に立てます。そうじゃなきゃ、七日間も焼け跡に放置された赤ん坊が、こうして生きてるはずはないんですから」
ノエルは瞠目した。
人間の常識であれば、せいぜい三日が限界だ。赤ん坊ならなおさらだろう。
だけど、ニコラは生き残った。
それはきっと、彼のたぐいまれな回復の能力が功を奏したのだろう。
(っくそ、レインといい、ニコラといい……この世界の若ぇもんはどうなってやがるんだ! 過去がヘビー級なやつが多すぎるんだよ! 子どもは可愛がられてなんぼだろうがよ……)
いっそ全員まとめて飲みに連れて行ってやりたい。
中身がおっさんである令嬢ノエルは、彼らの未来に幸あれと願いながら、そっと目頭に滲んできた涙をぬぐった。
この時も冷静に、横座りをしていたイルが、僅かに首を傾げた。
「それにしてもノエルさんは、しばらく会わない間に、ずいぶんと好戦的な雰囲気になられたのですね」
「えっ!? え、そうかな!?」
「まるで兵士のような振る舞いや物言いをされるように」
「あーっ、えっと、それはな、あの、ショハンのジョージ、じゃなくて、ジジョウってやつがあるんだ。うん。やむをえない、よんどころない事情だ」
「そうですか……」
「とにかくだ。お前らはレインが心配で来たってわけか。こんなところまではるばる、ご苦労だったな。まあ時間が許す限り、ゆっくりしていってくれよ」
ノエルはイルとニコラににっこり笑いかけたが、二人とも微妙な顔をした。
「えーと、ノエルさん。そうなると、長くて……二年くらいになるかと」
「ん? 何」
「だから、長くて二年くらいですかね、って」
「留学の話か? え? いや、そりゃいつまでいてくれたっていいけど……どういうことだ?」
「僕たちプルミエ様から特命を受けているんです。つまり」
ニコラの後を、イーリスが引き継いだ。
「オリテの獅子の愛し子……レナード王子を、何としてでもお守りせよ、と」
美女は独特の威圧感で、じっとノエルを眼光で押さえつける。
あっ、イーリスだ……。
と、ノエルはこの時初めて、美女の中に陰険マッチョの面影を見た。
しかし、もう遅かった。
「そこで、ノエルさん。問題です。我々の警護対象、レナード王子がオリテに狙われなくなるためには、どうすれば良いでしょうか」
「えーっと、もしかして……」
「どうすれば良いとお考えになりますか?」
「は、話し合い?」
「話し合えるような相手ではありません」
ノエルはピシャリッと鼻先でドアを閉められたような気持ちになった。
「じゃあ、オリテが平和になれば……」
「そうですね。では、平和なオリテを作るためにはどうすればいいとお考えですか?」
「う、指導者が、……王様が平和に? なればいい……」
「ええ! その通りです。というわけでノエル様、ついに時が訪れました。聖ルキナスは全面協力します。我々と共に、平和なオリテを作りましょう」
「それはオリテをぶっつぶせ! っていうことか!?」
「解釈は自由です」
イーリスはすげなく言った。
ニコラはオオカワウソと仲間になったらしく、笑顔で遊び始めている。
ノエルは頭を抱えたくなった。
戦は嫌いだが、仲間を守るためには逃げられないことも薄々分かってきた。
(まずはレインハルトと話をしなきゃいけない)
イーリスがしれっと言った。
「ところで、私たちはしばらくこのマールの村に留まりたいと思っています。身分を隠して、ただの獣人と人間として生活していきます。どうぞよろしく」
「おー、よろしく……」
こうして、修道士2名がマールの村に追加されることになった。そして、当人たちの思惑とは裏腹に、オリテとの決戦の時は一歩ずつ確実に近付いてくるのだった。




