看護室
*
不幸中の幸いで、ルーナの回復は早かった。
「視力は失ってしまいましたが、嗅覚が5倍くらい跳ね上がったんですよぉ。だから、生活はできそうです」
支障はあまりない、と言いながらも、これまでの感覚と違うことに変わりはないのだろう。
ルーナは眼球に傷も無く、見た目には正常そのものだった。
しかし、視力だけが回復しない。
「昼間でも、暗闇の中にいるのと変わらない感じです。あのとき、オークの群れに攻撃されてからずっと」
「こうなると……やはり、呪いだろうね」
医務室で最終的に診断を下したのは、あの羊の老婆――キーナだった。
ガラス玉のような水色の中に、焦げ茶色の長い瞳孔が横たわっている。
「あたしは戦争の前に一度見たことがあるさ。これは攻撃魔法じゃない。傷を癒やしてどうこうって話じゃないっさね。呪縛。呪縛だ」
キーナ婆さんは断定して頭を振った。
もふもふした白い毛がふりふりと揺れる。
「だが、人間はこんなことできやしない。こんな呪いをかけられるのは闇の眷属になった魔物だけだよ」
ノエルは首をひねった。
「あのー、キーナ婆さん。一つ尋ねていいかな? 闇の眷属っていうのはなんなんだ?」
「ふん。人間はそんなことも知らないのかい」
ノエルはこの場にモルフェがいなくて良かったと心から思った。
またもめるに決まっている。
羊の獣人のキーナ婆さんは、人間嫌いだという話だったけれど、あからさまに態度に出してくる。
しかし、ノエルにとっては特段気にはならなかった。
キーナ婆さんはフンッと鼻息を荒げた。
「闇の眷属ってのは、まあ、魔物の暴走状態みたいなもんだ。人間だっておかしくなってしまうやつがいるだろう。
自分で自分のことをどうにも止められなくなるような……獣や魔物だってそうさ。あたしたちみたいな獣人は、
人間の血が多いから、コントロールできる……だけどね、知能の低い魔物になり下がっちまうと、見境なく人間を攻撃するようになるんだ」
ノエルは口を挟んだ。
「闇の眷属っていうのは、人間を呪うのか?」
「ああ。闇の眷属になった魔物は自我を失う。酒浸りになった人間のようなものさ。どうにも」
「獣の本能って奴かもしれないねぇ。だけども、おかしなもんで、闇の眷属……暴走した魔物は獣人を襲わないんっさ。
そもそも獣人を虐げるようになった人間の理由なんて、あってないようなもんっさ。
でも、魔物に襲われないってのは、人間たちから見たら危険だったんだろう。
あたしも、あたしの先祖たちも、魔物だっていって何度も差別されたよ」
キーナ婆さんの手を、遠くを眺めたような表情のルーナが、ぎゅっと取って握った。
「キーナさんは魔物じゃないよ」
「そうさ。魔物であってたまるもんかね。そりゃあ人間に噛みついてやりたいのは山々だけんど、あたしにだってプライドがあるのさ」
キーナ婆さんとルーナが手を握り合っているのを見ながら、ノエルはかつてルーナが人間に嫌がらせをされていたのを思い出していた。
崩れかけていた宿屋で一人きりで過ごしながら、ルーナにしてみても人間に対して様々な思いを抱いていたのだろう。
「だけんど、ルーナちゃんを襲うなんて! オークの群れなんて野生にいるわけはないっさ。何か変な、おかしなことが起こってるのに違いないさ!」
キーナ婆さんのガラス玉のような瞳に、ノエルの深紅の髪の毛が映った。
「敵の敵は味方だ。あんた、ノエルって言ったね。ルーナちゃんの敵を取ってくれっさ!」
「もちろんだ」
「ああ、なして、こんな目にあったんだ……ルーナちゃんがいったい何をしたっていうんさ。てっきりあたしは、獣人のルーナちゃんを攻撃したなら、
仲間の報復を企んだ人間の仕業だと思った。ほら、よくあるっさ、獣人のくせに生意気だとかいう逆恨みっさ……だけど、相手は人間じゃなかった。
オークの群れなんだろう? オークにルーナちゃんが何をしたっていうんさ。こんなもの、人違いみたいなもんじゃねぇのかい……」
そのとき、ノエルの全身に戦慄が走った。
雷に貫かれたような、確信に満ちた予感――。
「キーナ婆さん! 今何て言った?」
「え? オークなんかにルーナちゃんが何をしたっていうんさ?」
「その後だよ!」
「だから、人違いみたいなもんだろって」
「それだよ。それだ。ルーナは間違われたんだ。馬車には女一人……オークたちはそれだけしか情報が無かった」
ルーナが慌てて、両手をパタパタと振った。
「ちょ、ちょっと待ってください、ノエルさん! だったらそれって、あたしじゃなくて、本当に狙われてたのは……」
重苦しい沈黙が部屋に満ちた。
キーナ婆さんがノエルの顔を穴が開くほど睨み付けた。
正確には、三日月が浮かんでいるようなガラス玉の瞳が、ぐるりとノエルに照準を合わせただけだったが――。
「お前と間違われたって言うんさ?」
ノエルは頷いた。
そうとしか考えられない。
キーナ婆さんの前で、これ以上言葉を発したくなかった。
何よりルーナに話したくなかった。
ノエルはのろのろと台詞を紡いだ。
「暴走した魔物は人間を襲うが、獣人を襲わないんだろう? それなら本来はルーナは攻撃されないはずだ。
獣人騎士団たちもだ。だけど、攻撃された。考えられるのは、『闇の眷属』つまり『暴走した魔物』は、
何かしらの方法で命令、もしくは洗脳を受けてたんだ。話してなかったけど、あのオークはおそらくゼガルドの奴隷だ」
「えっ……」
焦点の合っていなかったルーナの瞳が見開かれた。
「でも、あれは……確かにオークでしたよ!?」
「なあ、ルーナ。俺たちと初めて会ったときのこと覚えてるか? あのとき俺はこんな……女の姿じゃなかった。
これと似ても似つかないおっさんで、モルフェもレインハルトも動物だったよな」
「ええ。最初はびっくりしましたけど」
「俺たち、オリテの変化薬で姿を変えてたんだ。聖ルキナス修道院ってとこがあってさ、そこに魔女がいるんだ。
俺はそこで薬を貰って、姿を変えてた。なあ、それならさ、死にかけの人間を魔物に変える薬があったって、
おかしくないと思わないか?」
黙っていたキーナ婆さんの蹄がぷるぷるっと震えた。
そして、
「外道が!」
キーナ婆さんは椅子を蹴散らすようにして立ち上がった。
「人間は……獣人を蔑むだけでは飽き足らないってのかい!?」
「残念ながら、そうとしか思えない」
ノエルは淡々と言った。
前世の刑事の経験が、こんなところで役にたつとは思わなかった。
が、確信をもった仮説というのは、いつも誰かを多かれ少なかれ動揺させるものだ。
「俺は十年前にレインハルトに助けられたんだ。あれはゼガルドの王宮のパーティーで、
そのときは群れのオークが乱入してきた。ルーナ、襲われたときに首に入れ墨のあるオークを
見たって言ってただろう? 俺もそうなんだ。なあ、キーナ婆さん。魔物ってのは、自分で
入れ墨を入れるのか? その、闇の眷属ってやつは……」
「まさか」
椅子にしぶしぶ座り直したキーナ婆さんは、呼吸を落ち着かせるようにハアハアと息を吐いた。
「魔物って言ったって獣、動物っさ。傷や怪我の跡なら分かるけんど、動物が入れ墨なんてするわけなか!」
「だけど、奴らにはみんな同じように墨が入っていた。いや、入れられていた。
つまり」
ノエルは一度言葉を切った。
これが本当のことだとしたら、身が切り裂かれそうだ。
だけれど、言わなければならない。
罪を自白する犯人たちは、こんな心境だったんだろうか。
「モルフェと同じ、ゼガルドの地下奴隷が、何らかの方法で、魔物にされていた。
それがあの墨の入ったオークだったってことだ」
「まさか……人間なんて」
ルーナが呆然と呟いた。
「でも、そうとしか考えられない。そう考えたら、おかしなことに辻褄がつくんだよ。
ルーナが狙われたのか、それとも俺が狙われてたのか……今はまだ分からない。
だけど、確かなのは一つ。ゼガルドがレヴィアスの頭を狙って、あのオークの群れを仕向けた……ってことだ」
「じゃあ、ちょっと待ってください、ノエルさん。もし、もしあの、オークの群れが人間だったとしたら……
あたし、あたしたちは」
震えだしたルーナの肩を、キーナ婆さんが抱きしめた。
「違うっさ、違うよルーナちゃん。それは違う」
「でも、だって、あたし」
「あれは『オーク』さ。人間なんかじゃない」
「キーナ婆さん、それは違います。あれはゼガルドの」
「そんなこと分かってるっさ!」
キーナ婆さんは激高した。
三日月を宿した瞳の周りがキッとつり上がっている。
「それがお前の正義か、小娘! ルーナちゃんは聖女でも何でも無ぇ、お前の仲間なんだろうが! この娘はな、ただ、お前の助けになりたくて……」
キーナ婆さんはその後の言葉が言えなかった。
そのまま黙って俯き、ルーナのベッドの隣の椅子にへたりと座り込んだ。
ノエルはそのまま、とぼとぼと扉へ向かった。
今の自分に何を言う資格も無いことはわかりきっていた。
「ごめんなさい、ノエルさん。キーナさんも。ちょっとだけ、一人にしてほしいの」
ベッドの向こう側を向いたルーナは呟くように言った。
ノエルはそっと扉を閉めた。足が砂袋をつけられたように重かった。




