別れの挨拶
「……父上」
霊安室は薄暗かった。
花を乾燥させるときの、甘ったるい魔法の香りが漂っていた。
首に幾重にもかけられた宝石や絹の布は全て王族らしく重厚だ。
横たわる王の亡骸の、豪奢な刺繍の紅いストールにヴェテルはそっと手を伸ばした。
「長く見ぬうちに、お痩せになっていたのですね」
はらり、とほどけたストールの下には筋張った首と、骨ばった肩が隠されていた。
仰向けで全ては見えないが、布の合間からうっすらと冷たくなった身体が見えた。
もうこの身体が動かないのは、全く不思議だった。
長年、父親に会わない間に、知らない傷も皺も染みも増えていた。いったい最後に顔を直接見たのはいつだったかとヴェテルは記憶を手繰り寄せようとしたが、うまくいかなかった。父の首にもうっすらと傷があったが、腕の良い王室の化粧師の手によって白く塗られていた。
ヴェテルは眠ったような実父の顔を見たが、何の感情も込み上げてこなかった。
「涙の一つも出ないなんて、俺はとうとう化け物に成り下がったのかとしれないなあ」
光魔法のランタンに浮かび上がったヴェテルの背後の影が分裂する。一つはヴェテル自身の影、もう一つはヴェテルの家来リゲルだ。
「面白くない冗談はやめてください。俺は化物を主人にした覚えはありません」
リゲルが黒いマントをヴェテルの肩にかける。
「冷えます」
「ああ、ありがとう」
ヴェテルはおとなしく暖を取って、マントにくるまった。
「老衰にしては若いな」
と、世間話でもするように言う。
「ヴェテル様」
リゲルがたしなめる。
地下一階は魔法の網が張り巡らされて、会話は城の王族たちには筒抜けのはずだ。
リゲルの声は圧し殺すような小さな声だが、息が届くほど近くにいるヴェテルの耳には入る。
「分かっているよ」
と、ヴェテルはあくまでも柔らかく微笑む。
怒りのような腹立ちのような憤懣がリゲルの腹部に渦巻いていた。
この第一王子は決して多くを語らない。
だが、いつも真実を見抜いている。
誰よりも速く、誰よりも正確に――。
ゼガルド王宮の家臣たちから、『できそこない』だと揶揄されているヴェテルは、実のところこのゼガルド中で、いやこの大陸全ての中でも最も賢い人間だ。
幼なじみとして、そして直属の家臣として、ずっとヴェテルの傍にいたリゲルは確信していた。
このヴェテル王子こそが、最も王家の資質を持っているのにーー。
「あなたの欠点は闘争心というものが全く無いことですよ」
リゲルはやるかたなく言った。
ヴェテルは宝石のような赤い瞳を可笑しそうにきらっと光らせたが、何も言わなかった。
この霊廟はゼガルド王国の地下にある。
湿った空気に、鎮魂の香がたきしめられており、魔法で凍らせた青い百合の花が並べられている。
石造りの壁は物言わぬ死者の仲間のように、その灰色の肌を淡い光に照らし出していた。
ゼガルド王国第一王子ヴェテルは、虫の羽のように透明感のある睫毛をふる、と上下させた。
それさえも絵になるが、この姿を見ることができるのはリゲルのように一部の限られた者だけだ。
生まれつきのこの赤目の『病』が発覚してからは、ヴェテルは黒い布を身にまとい、光を遮断して生きるようになった。
強烈な直射日光はヴェテルの白い肌を焼き、赤く腫れ上がらせてしまうのだ。
それだけではなく、強い光がヴェテルの視力さえも奪ってしまう。
リゲル・グラファムは文字通り『陰』として、ヴェテルに付き従ってきた。
『陰』はオンと名乗り、身を隠し、時には変装をしながら周囲の世話をする。
身分を隠して学院を卒業してからは、ずっとこのゼガルド王城の地下に引きこもり、娯楽小説を書いて過ごしている。
本人は気ままな執筆生活を楽しんでいるようだが、リゲルとしては物足りなかった。
(俺は今だって、ヴェテル様が正統な次の『王』だと信じている)
しかし、第二王子エリックを擁立する動きはほぼ確実だ。
リゲルの一族はオリテの王族と共に生きてきた。
ターリャ王妃の『陰』として地上の動向に目を光らせている。
「母様は気落ちしてはいないか」
だしぬけにヴェテルが言った。
リゲルは瞬時迷ったが、すぐに口を開いた。
知った情報は全て、この主君に捧げると端から心得ている。
「御母上……ターリャ様はショックを受けたご様子でした」
「まあ、そうだろうな」
ヴェテルは予想通りといったようだった。
「毅然とされているようで、実際のところ徹底しきれないんだよ。優しい女性なんだ」
どこか諦めたように言う。
ヴェテルの実の母は、正妃ターリャ。
彼女はオリテから嫁いだ美しい姫だった。
年の離れた政略結婚だったが、美しいターリャを溺愛したゼガルドの王は無事に世継ぎに恵まれた。
その結果が、ヴェテルだった。
ゼガルド王の父と、オリテの姫の母を持つ、第一王子は赤目で金髪の『病』を持った子だった。
「僕が産まれてからも、今の今までずっと心配をしているような人だからなあ。ね、リゲルたち、母様を気に掛けてやってくれ」
「勿論です。使用人もついておりますが、近くに我々も常に控えております」
ヴェテルは安心したように頷いた。
王妃ターリャは、ヴェテルが産まれた瞬間から、先に待ち受ける王子の未来を案じていた。
『陰』の中でも最も優秀な一族と呼ばれる戦闘狂の家系、グラファム一族。
白羽の矢が立ったのがリゲルの家族たちだった。
父も母も兄も自分も、今はもはや全てターリャ様のために存在している。
ターリャ王妃がオリテを離れるとき、当然のように『陰』も一緒に着いてきた。
そして今まで、当然のようにゼガルドで暮らしている。
王子が産まれた当時、幼かったリゲルは、この華奢で弱々しい赤い宝玉のような命を守ることに一生を捧げると決めたのだ。
「さようなら。ありがとうございました……父上」
しん、と静寂が、王子とリゲルを包みこんだ。
「さ、戻ろうか、リゲル」
くるり、ときびすを返してヴェテルはしれっと言った。
「もうよろしいのですか?」
まだここに来て、魔道具の砂時計の砂も落ちきらないうちだ。
肉親との最後の別れにはあまりにも早いのではないか。
「うん。もう十分だよ」
「……そうですか。では」
リゲルはすっと戻り、ヴェテル王子の背後に立つ。
そっと霊廟を出て、門番に会釈をし、地下の階段を更に歩く。
城の地下暮らしの長いリゲルは、ヴェテル以上にこの城の内情や全体図を良く知っている。
ヴェテルはそれほど歩き回らないので、抜け道やら旧道やらを全て把握しているわけではない。
リゲルは念のため、どんなことがあっても逃げられるように、全ての道を調べている。
今いる地下1階は霊廟や食料庫、武器庫だ。使用人たちの雑多な支給品もここに置いてある。
城の重要な人物が亡くなると、ここにある霊廟へ安置される。
地下らしくひんやりとしていて、さらには上が教会になっているので、儀式がしやすいのだろう。
公式に与えられたヴェテルの部屋もここだ。
しかし、盗聴や監視を嫌って、ヴェテルは夜しかここで過ごさない。
実際は地下の三階、旧い地下牢をリゲルに改築させて使っている。
地下二階には、罪人が収監される地下牢がある。
実際のところここには、闘技奴隷たちがごろごろといる。
鍵が厳重にかけられていて、金属の扉が三つもある。無断で入り込むのはほぼ不可能だ。
王家にゆかりのある招待客や、貴族でなければ、内部に侵入することはできない。
ヴェテルの安住の地は三階の元・地下牢だ。
ここは魔鼠の巣になっていたが、ヴェテルに大改築を言い渡されたときに、大々的に駆除した。
一度血の海になったこの場を綺麗に清掃し、魔道具で空調を調整し、家具をしつらえ、紆余曲折あって現在は至極美しい王宮にも負けずとも劣らない住まいになっている。
満足気にソファーに腰掛けて、ヴェテルはふう、と息を吐き出しながら黒革のブーツを脱いだ。
陰の者たちのよって秘密裏に造られたここは、唯一ヴェテルが気を抜くことの出来る完全な空間だった。
「父上は殺されたね」
と、ヴェテルが何気なく言ったので、リゲルは危うくヴェテルの室内専用のふわふわした白いルームシューズを取り落としてしまうところだった。
「ど、どうして、そう思われるのです」
「はは、今のリゲルの動揺ぶりを見て確信したよ」
図星を突かれてリゲルは押し黙った。
全くこの第一王子の聡さは周囲を困惑させる……。
「どうして、お父上が……えー、その」
「殺された」
「それです。まあ、そういう状態になったのだと、なぜ、いつ、そのように思われたのですか」
「先ほど見に行ったときだよ」
ヴェテルは白いルームシューズに履き替えて満足そうにソファに倒れかかった。
「ゼガルドの王は傷を負わない。王が斬られる前に家来が斬られるからだ。王の腹心の護衛には契約の魔法がかけられるからね。お前が僕に、誰にも指一本触れさせようとしないように」
リゲルは無言で主人にルームシューズを履かせた。
そうではないと、否定する要素は何一つ無い。
「じゃあ、どうして父上の首に傷があったのか? 化粧師が染みや皺ではなく、あの首の傷を隠し、布や宝飾品まで巻いて、ごてごてと隠そうとしたのは何か? 簡単なことじゃないか。苦しみの末に喉を掻き毟ったからさ」
膝まづいたまま、リゲルは主人を見上げた。
ウサギの毛のようなふわふわした丸い靴を履いたヴェテルは、燃える炎のような色の瞳をしてリゲルを見下ろす。
「父上を手にかけられる、つまり、厳重な警備の中で毒を盛ったり呪いをかけたり、直接的な害を与えられる人間。そして父上が死ぬことで得をする者。となると、導き出される答えは一つだ。次の王位を継ぐもの、もしくは関係者……」
歌うようにヴェテルは話す。
炎に飲み込まれそうだ。
リゲルはクラクラしそうな頭を奮い立たせた。
ヴェテル第一王子の覇気は、従者の自分でさえも圧倒しそうな時がある。
「エリック様だ、と」
答えるかわりにヴェテルはゆっくりとまばたきをした。
炎がパチリと弾けたように、リゲルは痛みさえ伴う熱を受けた気がして、思わず胸を押さえた。
「さあ、どうしようね……」




