黒い真実
「静かに。怪我人ですよ」
羊の老婆はジロリとノエルをにらんだ。
「あ、ノエルさん……? お久しぶりです」
案外に元気そうなルーナの声にノエルはほっとした。
良かった、命に別状は無さそうだ……。
客間のベッドから起き上がったルーナの顔を見た瞬間、ノエルの脳裏に氷柱が刺さったようにひんやりとした何かが入り込んだ。
その感情は悲しみといったらいいのか、驚きといったらいいのか、怒りなのか、ノエルにも何だかよく分からなかった。
「ルーナ、お前……」
「すみません、あの……避けられなかったんです」
ルーナの目元と片頬には、ぐるぐると包帯が巻かれていた。
「魔法のようで……もう痛みはありませんが、どうしても……」
先を聞かなくても分かった。
視力を奪われたのだ。
西から東へと移動する途中に襲撃を受けたのだとルーナは話した。
たまたま獣人騎士団たちが一緒に乗り合わせていたので、これでも軽傷だったのだと、ルーナはこの場には不釣り合いな明るい声で話した。
「あの、全員魔法が使えるオークで……すごく苦戦しました。下手したら全滅してたと思います……だけど、騎士団の皆さんが守ってくれたんです」
「でも、ルーナ」
ノエルの声にかぶせるようにルーナは言った。
「私は目と、頬に傷を受けただけです。でも、騎士団の皆さんは……おそらくかなり、血が出ていました。見えなくても匂いがして……あの惨状なら、瀕死の方もいたかもしれません。ノエル様、どうか、騎士団の皆さんをお願いします」
「当たり前だろ!」
ノエルは泣きそうになりながら叫んだ。
モルフェはむっつりと黙り込んで、部屋の隅に立っていた。
これでも酷く心配しているらしい。
レインハルトが口端をゆがめながら言った。
「ルーナ。辛いときにすまない。だが、大切なことなんだ。一つ確認させてくれ。ルーナたちを襲ったオーク……魔法を使ったんだな?」
「ええ、そうです」
ルーナは空元気なのか、いやにあっけらかんとしていた。
「オークにしては変な匂いがしました……すごい音がして、何かと思ったら馬車が倒されて……突然のことでした。飛び出そうとしたら馬車の中に向かって、オークが魔法を放ってきたんです。中にいたのはあたしだけだったから、直撃したのはあたしだけでした。でも、ピクシーみたいな魔獣だったらともかく、オークが魔法を放つなんて、思わないじゃないですか?」
レインハルトが奇妙な質問をした。
「ルーナ、その魔法を使ったオークは……普通のオークと他にどこか違うところがあったか?」
「うーん、一瞬のことだったし、……大きかったですけれど、見た目はオークそのまんまでした」
「そうか。分かった……ゆっくり休んでくれ。騎士団の者たちも皆、手当てをしている。骨が複雑に折れていて時間のかかる重傷者はいるが、命を落としたやつはいないよ」
「ああ、よかった」
よかった、というルーナを、ノエルは苦々しい気持ちで見ていた。
(全然良くねぇよ、ルーナ)
それはモルフェも同じなのだろう。
窓を見ながら組んでいる腕に、深々と爪が刺さっている。
「あ、そうだ。思い出しました、そういえば」
ルーナがだしぬけに言った。
「たいしたことじゃないんですが……オークに模様がありました」
モルフェが口を開いた。
「模様?」
「はい。えーと、両腕と、首に。痣のような……黒っぽい模様がありました」
レインハルトとノエルは顔を見合わせた。
おそらく二人とも同じことを考えていた。
(特別なオーク?)
腕と首に刺青のような模様のあるオークの群れ。
十年前の襲撃と酷く似ている――。
「おい、ふざけんじゃねえよ」
モルフェが小声で言った。
いつも薄着のモルフェの生身の腕は、変化薬の一件以降、きれいさっぱり入墨が無くなってしまった。
その生身の腕に、突き立てた爪の先から微かに血が滲んでいる。
「えっ? モルフェさん、何ですか? よく聞こえなくて」
「……おいおい。腕に墨があるなんてよ、あんまり聞いてて気持ち良い話じゃねぇぞ」
ルーナだけは包帯を巻いたまま、微笑んで呑気に返した。
「あはは。すみません、前のモルフェさんみたいですよね」
「ああ。本当にな。首はともかく、前の俺もそんなんだった」
モルフェの漆黒の瞳はルーナではなく、ノエルを見据えていた。
或る答えに行きついた者の、揺るぎない視線だった。
(おい、待てよ。ちょっと待ってくれよ)
ノエルの頭に一つの仮説が浮かんだ。
ハッとしてレインハルトを見ると、レインハルトもモルフェと同じ種類の目でこちらを見ていた。
予感と仮説が積み重なって、仄かな確信めいた思い付きに変わっていく。
(『前』のモルフェ……そんな、まるで)
ごくり、と唾を飲み込んだ音が聞こえただろうか。
(『ゼガルドの闘技奴隷』みたい?)
ゼガルドのスラムを一掃する『清掃隊』に捕まったモルフェは、闘技奴隷として暮らしていた過去がある。
呪文でも刻み込むかのような緻密な入れ墨……。
(オークの群れが儀式の後に、王室のパーティーを襲撃するなんてことがあるんだろうか。いや、あったんだ、実際……だけど、一匹ならともかく、何十匹も……そこまで知能のある生き物なのか? オークって魔物なんだろう?)
まるで人間のような――。
羊のお婆さんが静かに、だが有無を言わせない口調で言った。
「さあ、怪我人には睡眠と休養が必要です。殿方はそろそろご退室くださいね」
モルフェは何か言いたそうに羊の老婆を見たが、チッと舌打ちをして歩き出した。
レインハルトがその後頭部をパシンと平手で叩き、会釈をして出ていく。
ノエルも慌てて後を追った。
令嬢の姿ではあるものの、中身はれっきとした『殿方』だ。
客間を出るなり、モルフェがノエルとレインハルトの方をくるりと振り返った。
「どう思う」
ノエルが何かを言う前に、レインハルトが口を開いた。
「腹立たしいが、お前と同じ考えだ」
「おいおいおい、ちょっと待てよ」
ノエルは慌てた。
「頼むから待ってくれ。お前たち二人で勝手に盛り上がるなよ。なあ。そんなのさ、オークが奴隷みたいだって……いや、まさか。ゼガルドだってさすがにオークを奴隷にはしないだろ」
レインハルトが哀れむような眼をした。
「ノエル様、当たり前です。そういうことではありません」
「いや、だからさ。お前らの考えって何なんだよ」
今度はモルフェが速かった。
レインハルトが口を開く前に、モルフェが言い切った。
「人間だよ」
「んぇ?」
呆けたノエルを真っ直ぐに見据えて、モルフェは言った。
「逆だ。ゼガルドの戦闘奴隷は両腕に墨を入れられる。それが奴隷の証だった。負傷者は運が良けりゃあ医務室に運ばれるが、もう使えないと判断された奴隷はどこかに捨て置かれる――あの城の地下に、スラムのゴミくずが溜まっていく。連中は考えただろうな。『溜まったゴミをどうしたらいいだろう?』って」
レインハルトが吐き捨てた。
「最低だ」
「初めてじゃないか、お前と意見が合うのは」
モルフェは頷いた。
「そうだ。ゼガルドの連中だとしたら辻褄が合う。ゼガルドとオリテの友好のパーティーを襲撃させたのも、ロタゾを落として国内の有力貴族ブリザーグ伯爵を亡命させたレヴィアスに打撃を食らわせるのも、どちらもゼガルドの一部の王族に得がある」
「おい。それじゃあ、まさか」
ノエルの声は震えて上ずった。
そんな、まさか――。
「墨入りのオークは使えなくなった戦闘奴隷だ。ゼガルドの連中、許せねぇ」
モルフェは爪がはがれそうなくらい、拳を握りしめていた。
ノエルは思い出した。
モルフェが仲間になった日。
モルフェは確かに言っていた。
「お前のせいで逃亡奴隷だ。ゼガルドから追っ手が来る。完全に逃げられた奴隷はいねぇんだ。みんな見つかったらしい。見つかったやつがどうなるか」
「一度目は顔に刻印を入れられる。頬から首にかけてな」
「あいつらはそれさえショーにして楽しみやがる。ゼガルドの貴族は、王族はクソだ。あの国は終わってる」
月の下で、ノエルは尋ねたのだ。
「モルフェ、一度目はっていったが、二度目はどうなるんだ?」
「昔、集団で逃亡を図ったやつらがいたらしい。二度目に捕まったそいつらは――鼻を削がれた」
「鼻の無い奴隷たちがどうなったかは誰も知らねぇ。でも、俺が地下に連れてこられたときはどこにもいなかった。だが、周りのやつらは逃亡におびえてた。それならここにいるほうがマシだと思うくらいにはな」
鼻のない奴隷たちがどうなったか?
全身の毛穴がぞわりと逆立つ。
もし、それが本当だとしたら。
ゼガルドという国を、人を人だと扱わない国を、とても許すことができそうになかった。




