急転直下
※今回超絶鬱展開ですが、主人公チームは皆ちゃんと元気になります。
ゼガルドの王が崩御したことを魔道具で察知したアイリーンの行動は、若い魔ツバメの滑空よりも速かった。
すでにほとんど念入りな準備をしていた彼らは、持ち物も使用人も最低限に、きれいさっぱりと国を出てきたらしい。
エリーは乳飲み子を抱えているので、泣く泣くゼガルドのコーニッシュ家に残ったという。
夫のルドルフは馬の取引で忙しく不在がちだが、祖母となったシーラが孫娘を溺愛しているようなので、何とかなってはいるのだろう。男くさいばかりの生活が、嫁と孫娘が一気に来て華やいだと喜んでいるらしい。
とにかくアイリーンたちは全ての資産を売り払って、レヴィアスへ亡命してきたのだった。
ノエルは正直なところ良く理解していないが、先代が鉱山の出資で一山当てたというブリザーグ家の財産は、その全てが無くなればゼガルドの国庫を揺るがすような金額になっているらしかった。
アイリーンが内情を囁いた直後、レインハルトの顔色がみるみるうちに青冷めていくのを、ノエルは蜂蜜水を飲みながら見ているしかなかった。
さすがに令嬢としては、セルガム酒を実の親たちの前でかっくらうわけにはいかない。
それにしてもアイリーンは自分の母親ながら、貴族の女としては抜け目がなさすぎて恐ろしい。
アイリーンたちは、ノレモルーナ城のたくさんある部屋のうちの何個かを使わせて欲しいと申し出てきた。
確かにここならば貴族の警備体制も盤石だ。
ノエルに対して、ブリザーグ家の膨大な財産のうちの三分の一を譲渡するとコランドは言い、事実そのようになるらしい。
レインハルトの顔色が今度は青色から緑色に変わったが、興味のないノエルは後の話は任せることにした。
(前世から金勘定は苦手なんだよなあ)
正直なところ、数字などは苦手なのである。
特に物欲も無ければ、浪費癖もなかったので、なんとなく貯金もしながら生きていた気がする。
税金やら、扶養やら、控除やら、申告関係のことは事務のオバチャンに泣きつきながらこなしてきた。
(まあ、レインならなんか……うまいことやってくれるだろう)
前世の事務のオバチャンよりは、語気もアタリも強くはないだろう。
離れの塔にあるノエルの自室は、不在の期間が長かったのにきちんと手入れがされていた。
この城で働いている使用人たちは、ノエルたちのことを『住人』ではなく『主人』だと認識しているようだ。
(まいったなあ……)
誰かにかしづかれ、仕えられるのは慣れない。
尻から背中にかけて、ムズムズしてしまう。
前世は体をはって誰かを守るような立場だったし、そうでなくても底辺から這い上がって息をして生きて来たのだ。
数年貴族の令嬢としてお世話をされたとしても、人間の性根というのはなかなか変わらないので、
ノエルはこの広い部屋に、敷物以外ほとんど物を置かずにごろりと転がっていた。
別に豪奢な壺だの、宝飾品だの、そんなものは邪魔なだけだった。
広すぎるけれども、風通しの良いこの塔の部屋は気に入っていた。
ここにいると寝やすいし、ぼんやりとした思考が何となく固まっていく。
異世界に落とされた自分の魂は、どうしてこんな令嬢の中に入っていったんだろうか。
そよそよと風が部屋を通り抜けて、ノエルの柔い頬をくすぐった。
心地よい眠気がノエルの意識をぼんやりと白濁させていく。
(ゼガルドの王様は死んじまったのか……じゃあ次の王は……誰になるんだ……)
ノエルの脳裏にきらきらしい衣装を身に着けた若い王子の後ろ姿が浮かんで、頭部がみるみるうちにコツメカワウソに変化した。
(いやそれは違うだろう……あー、そうだ……カワウソたちの顔も見にいってやらねぇとな……またデカくなってんのかな……ヤックが世話してくれてるはずだけど……)
コツメカワウソの頭部が厳つくなり、古生代の筋肉質な巨大な怪魚になって、その後、人のよさそうな山羊のそれに変わる。
(ここの住民の生活も……もっと向上できればいいんだけどな……あっ、そうだ……串焼き……うん……串焼きの店を出そう……)
王子の恰好をした想像上の男性が、くるりと振り向く。
顔面は太い串にささってこんがりと焼けたボアの肉だ。
薔薇の妖精のような世にも美しい令嬢が、串焼きを想像しながら涎を垂らして寝転がっているとは、誰も想像できないに違いない。
「エヘ……エヘ、エヘヘ……」
ノエルはだらしなく顔をにやつかせながら、塔の中で快適なお昼寝を楽しんでいた。
甘ったるい香りがふと漂った気がした。
これは……何だっけ……どこかでかいだことのある……そうだ、レヴィアスのエラさんの家で……。
獣人の好むスイートシトリンの甘い香りは、池から風に乗って漂ってくるのだろうか。
いや、そんなのは気のせいだ。ここからオアシスまではずいぶん離れているのだから……。
(そういえば、トゥレグさんやエラさんは元気かな)
親身になってくれた村長たちは、今も健在だろうか。
もう久しく会っていない、懐かしい顔たち……。
(エリーはお母さん、シーラはおばあちゃんか……うわあ……なんかすごいな……ゼガルドも王家がごたごたしてるらしいけど、エリーたち、わけのわからんトラブルとかに巻き込まれてないといいけどな……)
花の匂いが強くなる。
甘く、濃厚な、蜜のような……何かを忘れているような、それを思い出しそうな……そうだ、いつか、こんな感覚だったときがあった……そう、知っている……何を?
まどろみの中で揺られているような……。
心臓が熱くなる。
呼吸が荒くなる。
汗がじわりと滲む。
鼓動が耳に聞こえる。
誰の?
(なんだ……アイリーンの……母親の声……?)
あなたは弱いわ。
きっと、誰よりも、何よりも弱いわね。
(何だ!?)
諦めるように、慈しむように、鼓膜を震わせる声。
それには確かに憶えがあった。
(俺が弱い? どういうことだ?)
甘い花の……花の?
いや、どこかで……匂い……頭が痛い……。
ぬるま湯の中で頭蓋骨が締め付けられるように……。
ドン! ドン! ドンドンッ!
心臓が跳ねているのか、と思ったら、部屋の扉の音だった。
誰かが乱暴にノックしている。
鍵なんて閉めていない扉はガチャリとすぐに開いて、息を荒げた金髪が飛び込んで来た。
青ざめたレインハルトだった。
「ノエル様!」
「あ、レイン……どうしたよ」
「……とにかく来てください」
こんなレインハルトを見たのは初めてだった。
嫌な予感がした。
「おい、どうしたんだよ」
笑う余裕も無いほど、顔が強張りかけているのを、ノエルは無理やりに筋肉をはがして口角をあげた。
それなのに、レインハルトは腹立たしいほど無表情で、ノエルの腕を掴んだだけだった。
「おい。何とか言えって」
石造りの階段は、昔、ここに来た頃ルーナが丁寧に修理をしてくれたものだ。
その一段一段を駆け下りながら、ノエルはレインハルトに叫んだ。
「わかったって。急ぐから! どうしたんだよ、何があったのか言ってくれ、そうじゃないと」
そうじゃないと――。
得体のしれない不安でどうにかなってしまいそうになる。
レインハルトは振り向かなかった。
それでも、走りながら短く呟いた言葉を、ノエルが聞き逃すわけはなかった。
「ルーナがやられました」
二人分の足音が塔の狭い階段に響く。
ノエルは自分の血液がすうっと下に降りていくのが分かった。
「嘘だろ」
「本当です。マールの村に向かっていた馬車を襲撃されました」
「怪我は!?」
「命に別状はありませんが……あまり良くありません」
ノエルはレインハルトの腕を振り払った。
駆け下りながら、前を走るレインに向かって叫ぶ。
八つ当たりだと分かっていたけれど、そうでもしないとやっていられなかった。
「もうロタゾは降伏したんだろ!?」
「ええ。ロタゾじゃありません」
「じゃあ何で! どこのどいつだよ! なんでルーナがっ」
「わかりません」
「なんだよ!」
「魔物です……今は、そうとしか」
レインハルトは珍しく歯切れが悪かった。
「はっきり、しろ、よ!」
ノエルは階段を踏みしめながら言った。
「オークを覚えていますか? 俺たちが、初めて出会ったときの」
一瞬、ノエルは息を止めた。
(オーク……!?)
レインハルトが振り返った。
精悍な横顔に陰が落ちる。
気が付けば、塔の出口に来ていた。
レインハルトが金色の瞳を揺らめかせた。
「今回も、です」
「どういうことだ……」
「オークの群れです。ルーナたちはそいつらに襲われました」
ノエルはぎり、と唇を噛んだ。
(ああ、この扉だってルーナが直してくれたんだった。あいつ、ニッコニコしながら、役に立てるのが嬉しいって言って……)
鼻の奥にツンと込み上げてきた何かを、ノエルは気合いで我慢した。
(泣いてる場合じゃねぇ)
「ルーナはどこだ?」
レインハルトは素早くノエルを、城の一階の客間に連れて行った。
中にはモルフェと、獣人騎士団のカルラ。
そして、モルフェとひと悶着あったあの羊のおばあさんがいた。
カルラに連れて来られたようだが、医学の心得があるのだろうか。
おばあさんは涼しい顔でスイートシトリンを煎じている。
部屋には独特の甘ったるい香りが漂っていた。
ノエルは思わず大きな声を出した。
「ルーナ!」




