集結
水浴びを終えたばかりのレインハルトは、半乾きの髪を頬に貼り付かせていた。
つくづく美しい男だなあ……と、ノエルはぼんやり美青年の横顔を見る。
世の数多の人間たちを容易く籠絡することのできる顔面というのはある意味、武器や兵器に近い代物かもしれない。
ノエルにしてみても、レインハルトとは反対側の泉で水浴びをしたので、艶めかしい年頃の令嬢の美貌が露わになっているのだが、本人は全く意に介していない。
中身が『三十八歳おっさん』なので仕方が無い。
無自覚にぷるぷる、と犬のように頭を振って水気を飛ばして、ノエルは馬車に乗り込んだ。
ノエルたちは今、砂漠の国レヴィアスを目指して移動中だ。
モルフェはリーヴィンザールと一緒に別の馬車に乗っている。
あの戦いの後、ロタゾは大混乱だった。
アランは権威を示す指輪をノエルにわたすと、すぐさま雲隠れしてしまった。
圧倒的なリーダーを失ったロタゾはあわや内乱が起こるかと思えたが、ティリオンが言葉巧みに治めてしまった。
つまりは、
「聖女ノエルの導きによって、我らの国は自治を回復する! ロタゾではなく、それぞれの故郷を回復するのだ! 言葉も文化も、民族の衣装も、今後は自由に使って良い。我らの地域はレヴィアスの一部となるが、決定権はそれぞれの地域にある。税はこれまでの半分で良く、荒れ地にはセルガムという作物の種を撒けということだ。なんという聖女の恵みであろう……我ら、エルフの代表として、このティリオンは宣言しよう。この大陸が聖女の恵みと祈りによって、レヴィアスという巨大な生き物となる、と……!」
と、いうわけである。
ノエルにしてみてもそんなことは初耳だった。
恵んだこともないし、祈ったことさえない。
しかし、よりどころを失って混乱していた民には、ティリオンの声は天啓のように聞こえたのだろう。
盛り上がった元・ロタゾの国民たちは、喜んでレヴィアスの旗を掲げた。
今や大陸の半分がレヴィアスだという事実を、ほとんどの国民が熱烈な興奮をもって受け入れていた。
ガタンガタンと揺れはじめた馬車の中、シャララ……という効果音が鳴りそうな様子で、濡れた長い髪を軽く掻き上げたレインハルトは、小さな秘密を告げるように口を開いた。
「ノエル様」
「うん?」
「俺は最近思うのですよ。先祖というのはいるものなのだと」
「はあ」
「見守ってくれているのです。思えば昔から、俺は時折誰かに見られているような気配を感じるときがありました。ブリザーグ伯爵家に来てからも、誰もいないはずの自室に視線を感じるような……スパイかと思って調べましたがそうではありませんでした。そして、最近、精霊が俺に告げてくれたのです。俺を見守ってくれている存在がいると」
「へぇ……」
「それがどうやら、この父上から引き継いだ形見の剣なのです」
精霊はふわんふわんとレインハルトの周りを飛び回った。
レインハルトはこの光の球を最初こそ警戒していたが、すっかり気を許したらしい。
精霊はレインハルトの肩に止まり、居心地良さそうに光を鎮めた。
「先祖から脈々受け継がれた、大いなる存在が俺を見ていてくれている……そう思えば、この命も生かされているのだと思えてきたのです」
「うーん……そうかあ。いや、これは俺の元・刑事の勘だけども、レインの父ちゃんや母ちゃんはともかく……視線てのは……まあ、ふうん、そうか、剣ねえ……」
「ノエル様?」
「いや! うん、ご先祖様は大事だ」
会話を打ち切ったノエルは、レインハルトの父親の形見という剣をまじまじと眺めた。かつて、オークの群れからノエルを守ってくれた頼もしいレインハルトの相棒だ。
「まあ、疑っても仕方ないしな……」
何か怪しい仕掛けがあるのだとしても、精霊が攻撃的でないのであれば実害は無いのかもしれない。
ノエルはとりあえずは様子を見守ろうと決めこんだ。
実害があれば、そのとき手を打てばいいだろう。
「ノエル様とこうして二人で馬車に乗るのは、思えば久しぶりですね」
と、レインハルトが言った。
「ああ……ゼガルドのちゃらんぽらん王子に婚約破棄されて以来か?」
「あのエリックという王子の噂もちらほら聞こえてきましたね。どうやら本格的に、王位を継承するつもりのようですよ」
「んぁ? あいつ、第二王子じゃないのか」
「第一王子のヴェテル様は……地下にお隠れになられているとか。ご病気だそうで、光を浴びられぬ体なのですよ。王位継承権は本来ならヴェテル様ですが、暗黙の了解でエリック様に……と、そういうことです。勿論正式にヴェテル様が継承を放棄されたらの話ですがね」
「そうなんだな……個人的には先生に率いていって欲しいもんだが、体質だったらこればっかりはな……」
アレルギーのような物ならば、光の下で生きることは物理的に辛いだろう。
ノエルはふむ、とゼガルドを思い浮かべた。
あのチャランポランなエリックが頭の国は不安しかない。
「まあ追放されたし、俺はもうゼガルド民じゃないから……元婚約者とはいっても? もうゼガルドの政治とかは関係ないな」
「関係なくありませんよ。ノエル様、あなたはもう『聖女』なのですから」
「おいおいおい! それ、やめてくれ……淑女だとか令嬢だとか、そんなんでさえもう腹いっぱいなのにさあ」
ノエルは泣き出しそうな顔をした。
「これ以上祭り上げられたって、何にもできねぇよ」
「いいえ、そんなことはありません」
レインハルトは意志の強い瞳をして言った。
「ノエル様は既にこの大陸の半分以上を手にしています」
「いや、だからそれがおかしいんだって!」
ノエルは机の代わりに自分の膝をバンバンと叩いた。
「婚約破棄されたから国外追放になって、おとなしくひっそりオリテで自由に生活するっていうことになってたじゃんか! それがなんでレヴィアスの統治者みたいになってんだよ」
「その通りなので、特に訂正のしようがありません」
「だから俺はそんなガラじゃないって……ルーナでいいじゃん。もう、あいつレヴィアスの女帝みたいになってんだろ」
「ええ。ルーナはしっかりやっているようですね」
精霊から情報を得ているのか、はたまた別の情報源がいるのか、レインハルトは余裕がある。
「だろ? だったらもう今更、ノエル・ブリザーグがどうこうしなくたっていいじゃないか」
「実質的な統治者とは別に、人々には信仰が必要なんですよ。新しい信仰が。いいじゃないですか、聖女」
「串焼き聖女に何ができるってんだよ……」
ノエルはぼやいた。
面倒事はもうこりごりだ。
あとはレヴィアスの城に腰を落ち着けて、畳のような敷物の上でゴロゴロしながら、気ままに串焼きやセルガム酒をあおって余生を生きていきたい。
「はあ、まあいろいろあったけど、やっと俺らの城に着くな」
「ええ。到着したらすぐに今後のことを話し合いましょう」
ノエルは思わず叫び声をあげた。
「お前正気か!? まずは休憩! 休憩が必要だろ! 飯もろくに食わずにいい話し合いなんかできっこないぞ」
「ふむ……まあ、一理ありますね」
「だろ? まずは酒盛りだよ。ほら、ルーナも着いてるんだろ? みんなで健闘をたたえ合ってさ」
その晩の食事を想像して、自然と顔がにやけるノエルだった。
しかし、馬車が到着してすぐに、彼女の希望は粉々に打ち砕かれた。
「ノエル! おかえりなさい! 会いたかったわ」
「姉上! ご無事ですか」
「ノエル……心配したぞ、久しぶりだな」
懐かしい声が馬車を降りたばかりのノエルを待ち構えていた。
「はっ……母上!? 父上!? それにマルク!? な、なんで、こんなとこに……」
うろたえる長女に向かって、母アイリーンはにっこりと微笑み、言葉の斬撃を浴びせかけた。
「お引っ越ししてきたのよ、あたくしたち」




