ゼガルド王国の亀裂とロタゾの併合
「あら、割れたわ」
アイリーンは手元の鏡を見ながら首を傾げ、何でも無いことのように呟いた。
「思っていたよりずいぶん早かったわね……」
ぎらりと光る手鏡の銀の光沢が、アイリーンの白い鼻を鈍く照らし出す。
ちりとりを持ったメイドのエリーが慌てて飛んできた。
「奥様、お怪我はありませんか!?」
「だいじょうぶよ、エリー。これはね、魔道具なのよ」
「はあ」
エリーは訝しげに、亀裂の入った鏡をのぞき込んだ。
特に何の変哲も無い。
しかし、子どもを産んでもなお、どこか謎めいた美しい女主人には何か、エリーには見ていないものが見えているのかもしれなかった。
「片付けてよろしいですか?」
「ええ。きれいさっぱり捨て去ってしまって」
周囲の銀は本物かもしれない。いや、きっとそうだろう。
ブリザーグ伯爵家に『偽物』の調度品など相応しくない。
高級そうな意匠にエリーはしばし躊躇ったが、忠誠心が勝った。
ちりとりに割れた手鏡を入れて、エリーが部屋を出ようとすると、
「エリー。ちょっとお願いがあるの」
と、アイリーンに呼び止められた。
「ああ、別の鏡を準備しましょうか」
「いいえ、鏡は結構よ。それよりも、お願いがあるの」
「はい? 明後日のティーパーティーのドレスのお直しでしょうか? それとも、ド・メーニュ夫人とのサロンでの会食についてでしょうか。確かにあそこのご夫人はヒステリーが酷いので有名ですが、旦那様は今後の鉱山のビジネスのため、どうしても外せないと……」
「ええ。パーティードレスは藍色のシックな長い裾のに変えて頂戴。黄色いのだとリーヌ子爵夫人と被ってしまいそうなのよ。ド・メーニュ夫人との会食は予定通りでいいわ。だけど手土産にビザンティの花の絵を持って行かなければね。あのご夫人は絵画に目がないもの。うちの宝物庫から出しておいて頂戴。それはそうと、あなたに頼みたいのは別のことなのよ」
アイリーンは、壊れた靴でも処理しておいて、とでもいう調子でエリーに言いつけた。
「なるべく早く売って欲しいの」
「はい、お望みとあらば。何でしょうか? 宝石ですか、ドレスですか、それとも骨董品の類でしょうか」
「いいえ。これよ」
アイリーンは掌を上に向けてにっこり笑い、次の台詞でエリーを心底驚愕させた。
「この館を売って欲しいのよ」
*
「やられた!」
第二王子エリックは苛立ち任せに近くの兵士を蹴りつけた。
「う……」
見張り番を任されていた兵士は、近くのもう一人の兵士に支えられて、よろめいた体を起こした。
エリックは明らかに怒っていた。
牢屋に入っていたソフィが逃げたのだ。
「どけ、ウスノロども。牢屋の見張りもできなきゃ、お前らにいったい何ができるんだ?」
「お許しください! 俺たちにも何が何だか分からなくて……確かにここに入っていたはずなんです」
苛立ちにまかせてエリックは爪を噛み、そのたびに爪の生え際から血が滲んだ。
「そんなことはこの僕だって知っている」
エリックは冷たい声音で兵士に言った。
そして、良い考えを思いついた。
エリックは不機嫌を潜めて、ニタリと笑んだ。
「おい、おまえらのうち一人が奴隷になれ」
「は……」
「どういうことですか!?」
「お前らは本当ならば不心得で斬首だ。だが、恩情深い僕は助けてやろう。お前らのうち一人はこのまま牢屋で見張り番をしろ。ただしもう一人は、地下行きだ。奴隷に身を落として闘技場で戦ってもらう」
「そんな!」
「お、俺は頼まれた時間きちんと見張りをした!」
「俺だって!」
「お前が行けよ」
「何言ってるんだ!? 嫌に決まってる」
もめだした兵士を見ながら、エリックは少しばかり溜飲を下ろした。
殴り合いで勝負を決め始めた兵士たちを見て心を落ち着けよう。人間同士が争い合う様は滑稽だ。
エリックはフウウとため息を吐いた。
さすがにまだ遠くへは行っていないに違いない。
「ソフィは見せしめに殺さなければいけない」
エリックは背筋の凍るような声で言った。
「黒竜を操ろうとした魔女……反逆者が必要だ…」
奴隷どもにも、もう一働きしてもらうか。
エリックは気味の悪い笑みを浮かべて呟いた。
「草の根を分けても探し出して処刑する」
*
そして、その頃。
ノエルたちは新たな国を得て、てんやわんやしていた。
レヴィアスが、あのロタゾを併合したのである。
これは画期的で、衝撃的なニュースだった。
これで大陸のほぼ半分以上を、レヴィアスが得たことになる。
軍事作戦を重ねて国を大きくしてきたロタゾは倒され、絶対的だった指導者アランは居なくなった。
兵器イライザは滅ぼされ、ロタゾ軍は壊滅した。
もともと敗戦国の兵を寄せ集めたロタゾの兵士たちは、自分たちを攻め滅ぼした指導者アランがやっつけられたのを、おおむね好意的に受け取っていた。
こうしてレヴィアスは突然、圧倒的に多国籍な国家になったのである。
ここで活躍したのは意外な人物だった。
「皆の者、今こそ心を一つにするのだ」
ロタゾの兵士たちに向けて、ティリオンは語りかけた。
アランが使っていた声を増幅する魔道具によって、ティリオンの美声は遠くまで届いた。
エルフの軍神の二つ名をとっていたティリオンの演説はさすがに堂に入っていた。
「我らは生まれも育ちも違う。種族さえ違う。しかし今、この大陸で一つになる時が来た……! 私はエルフだ。これまでも、これからもそれは変わらない。しかし、ロタゾに一度は滅ぼされた我が国は、蘇った。国家元首のファロスリエンは健在で、またエルフの国の自治を任された。それはなぜか。レヴィアスの祖は我らに権利を与えたもうたのだ」
ノエルは高みの見物というていで、タルザールの例の居酒屋で、ラソの塩で焼いた串焼きを頬張っていた。
リーヴィンザールの魔道具は大変優秀だった。
映像はないまでも、声ならば隣にいるように鮮明に聞こえてくる。緑色の魔石は、経年劣化で使い物にならなくなる消耗品ではあるが、人間の命を与えなくてもきちんと動くのだから、えらいものだ。
「まあ、よかったよなあ。ファロスリエンも無事だったし」
と、ノエルがむぐむぐと咀嚼する合間に言った。
ぎょっとしたように、酒場のマスターが目を見開く。
「おいおい、ラソの国のエルフのテッペンを友達みたいに……相手はエルフだぞ。伝説の生き物」
「エルフだろうが人間だろうが関係ないさ。仲間であるのに間違いはないんだから」
「はあ……まさかねえ。お前がねぇ」
といったところで、魔道具から聞こえるティリオンの演説が熱を帯びてきた。
「団結しよう、朋友たちよ! 我々は新しい国家の礎となろう! 人間とエルフとの垣根を越えて、我々が新たな時代を創るのだ」
「ティリオンはすげぇなあ。もうアイツに任せたら安心だな。よっ、大統領」
ヤジをとばしたノエルは、十本目の串から歯で肉を引き抜いた。
「こうやってさ、肉、肉、セルガム、肉、肉、セルガムのペースで食べてくのが一番美味いんだよなあ」
と言って、カハァ~と息を吐く令嬢をマスターは残念なものを見る目で見た。
ティリオンは良く響く声で、人民に語りかけた。
「今こそ明言する! 聖女ノエルの膝元で、我らは無敵となろう!」
ノエルはブッとセルガム酒を噴き出した。
マスターがおしぼりを出してくれる。
「……大変だな、聖女」
「誰が聖女!?」
「お前って言ってた気がするぞ」
「ティリオンあいつ……!」
ティリオンの演説の近くからは、ワアアアという潮鳴りのような聴衆の歓声が聞こえてくる。
ノエルは頭が痛くなった。
こんな串焼き聖女など、求心力が無いにもほどがある。
「さあ、今こそ聖女ノエルの元で、我らは一つになるのだ! 聖女の足下で我らは存分に平和を謳歌しよう。自由が来たのだ」
ティリオンはノエルの名を連呼していた。
こうして表舞台に立つ気などさらさらなかった少女が、歴史に名を刻み始めたのだった。




