ロタゾとの決戦
ロタゾの軍は渓谷に陣幕を張っていた。
普段ならば岩の切り立つ白い谷間のはずなのに、紫がかった装束の兵たちがひしめいているせいで黒っぽく見えている。
薄くけぶるような靄がかかった朝の清浄な空気はいつもの朝ならば澄み渡っているのだが、今日はむっと立ち上る人間たちの熱でこころなしか蒸しているようだった。
「さあ、奇襲部隊が出発したわねえ」
アランはゆっくりと、硝子製のカップを傾けた。
朝の光を反射して獣の瞳のようにこっくりと緑色に輝いているのは、オリテの最高級品のモラビア硝子だ。
イライザを含む奇襲部隊は既に出発して、この渓谷に残っているのはアラン本部隊だ。
「酒を入れるのも飽きたわねえ……」
いつかオリテも征服して、腕の良い硝子職人に自分専用の物を作らせてもいいかもしれない。
かといって、本気でそれを望んでいるわけでもない。
全ては気まぐれで、何となくで、どちらでも良い。
「血でも飲み干したら面白いのかしら」
アランはぽつんと呟いた。
乾いた空気の中に呆気なく、聞く相手のない呟きが落ち、霧散していく。
まるで宛先のない手紙を、千切ってばらまいているようだ。
果たして、国が欲しいのかと言われれば、分からないのがアランの本心だった。
イライザに命令しているつもりが、いつからかイライザに支配されているような、最近、そんな感覚に陥ることがある。
ベラの顔をしている存在が、心の隙間を埋めてくれるような気がして、魔石の研究に没頭した。
イライザの力は次第に巨大になり、イライザ自身も学習を繰り返して、膨大な情報の集積体となった。
強大な力が膨れあがり、いつしか大将と祭り上げられるようになり、怖れられ、敬われる中で、アランは日増しに自分の感情が固まっていくのを感じていた。
何を見ても、何を手に入れても、心が動かない。
脳随が震えるような、臓物が脈打つような、涙腺がじんと痺れて動けなくなるような、そんな感動は、ベラと共に永久にどこかへ行ってしまった。
(むなしい)
素直な気持ちが心中で言葉になったが、今度は口には出さなかった。代わりにアランはひとつあくびをして、
「早く終わらないかしらね」
と、戦には不釣り合いなのんびりとした声で呟いた。
砂漠に朝陽が当たり、景色が輪郭をもち始めた。
*
ロタゾの奇襲部隊は、イライザを先頭にしてタルザールの西部に回り込んでいた。
広大な砂漠と崖、大岩に覆われた不毛な大地を回り込み、タルザールの国内へ侵入する。
それが、イライザの導き出した計画だった。
「天気良好、視界良好。兵力、特段問題なし」
イライザは桃色の髪の毛先を砂漠の風に揺らめかせ、無表情で顔をあげた。
布を被ったイライザは目だけを出して、黒い布を被っていた。黒布の隙間から覗く頬は人間と遜色なくつるりとしていて、美しく傷一つ無い。
しかし、魔石の色と同じ紅い瞳は、砂の舞う風の勢いにも全く怯むことがない。痛みを感じることのない身体は便利で、効率的だ。
「侵攻、開始」
イライザは短く言うと、タルザールに入るための国境の関所へ歩みを進めた。
「タルザールへようこそ」
関所にいた衛兵がにこやかに言った。
少年に近い年若く線の細い兵士だ。
首の後ろに布のついた、兵士の帽子もぶかぶかで目深に被っている。
イライザの頭脳は、
(突破は簡単です)
と判断した。
「出力……程度:中」
イライザの機械仕掛けの身体が発光し始める。
魔石でできた瞳が不思議な色を持つ。
血の色のような紅い魔石は、人間の生命を吸って育つのだ。
幾多のロタゾの兵士の犠牲、そして敵の血を吸って、イライザの力はより強大になった。
イライザは迷わない。
魔石によって動く、最高の頭脳に間違いなど無い。
これまでも、これからも。
目の前の兵士を炎魔法で焼き滅ぼすのが最短距離だ。
いや、瀕死の状態にした上で、魔石の瞳を近づける
そうすれば『イライザ』はより強くなる――。
イライザは素速く判断を下した。
兵士一人、瀕死にさせるのに最適なエネルギーを出力させる。ここを突破して、背後に控えている奇襲部隊をタルザールに入れて制圧する。
紅い魔石に集まっている魔力は、これまでにイライザが吸ってきた血の数だ。
無駄にするわけにはいかない。
(彼が魔力持ちと仮定、雇われたタルザールの用心棒だったとしても、ラソのティリオンの三分の一程。必要エネルギーを多く見積もり、仮想敵をティリオンと想定。確実に意識を失わせるために必要な魔力を出力)
イライザは一瞬の間に、視認した情報から全てを判断した。
「雷火、発射」
炎と雷が絡み合った熱波が、細身の兵士に向かって飛んでいく。
「うわっ!」
兵士が驚いたように声をあげる。
小さな爆発が起こり、土煙が視界を覆う。
イライザは瞬きもせずにその光景を見ていた。
「敵が死亡した場合も、作戦を予定通り遂行」
イライザは歩みを進めた。
関所の扉は外側から簡単に開くだろう。
止める人間さえいなければ問題はない。
イライザは頑丈な鍵を破壊しようと扉に近付いた。
その時だった。
凜とした声が響いた。
「残念だったな。身分証明がまだだぞ、嬢ちゃん」
美しい鈴の鳴るような、凜とした声だった。
しかし、その口調は若い兵士の物ではない。
まるで、壮年に差し掛かる男のような――。
イライザは、バッと身を引いた。
ぐる、ぐる、と情報が渦巻く。
仮定1、失策、仮定2、不可、仮定3、エラー……。
「……あなたは何ですか」
イライザの口から出たのは、単純な質問だった。
イライザの一撃を受けて無傷な者などそうそういない。
僻地の関所を担当する若い兵士一人など……。
「はは、誰、じゃなくて、何、ときたか。さっすが最高級でも絡繰りは絡繰りだな。質問はまだ改善の余地があるな」
「あなたは誰ですか」
「瞬時に学習するなんて、やっぱりロタゾの傑作ってだけはあるな。本当に人間みたいだ」
「あなたは誰だ」
感情など無いはずの絡繰りなのに、イライザはまるで怒りを露わにしているようだった。
兵士はニヤリと笑って、帽子を取った。
紅く長い髪が、質の良い生糸のようにこぼれ落ちる。
イライザが絡繰りでさえなければ、その美貌に息をのんだだろう。
たった一人、関所に残っていた兵士――。
兵士の格好をしたノエル・ブリザーグは、意思の強そうな真っ直ぐな紅い瞳でイライザを見据えた。
「俺はノエル。タルザールの独裁者……の、友達だ!」




