アランの場合
宵闇の中、ロタゾの軍は大きくて静かな虫のように、ぞわりぞわりとタルザールの背後に迫っていた。
ぞろりと揃った大勢の兵は、暗闇の中でも整然と規則正しく動く。
紫を基調にした黒い上下の服は闇に溶け込んでうごめき、まるで一つの巨大な生物が息をしているかのようだった。
ロタゾの将軍アランは、馬上からその壮大な光景を見渡しながら、何か大きなものが押し寄せてくる感覚に背筋を伸ばした。
「何? 風かしら」
ぞくりとしたのは、これから始まる戦いへの武者震いだろう。
データ上ではタルザールの兵力はゼロに等しい。
勝ち戦、というよりも、こんなのは一方的な蹂躙だ。
「さーあ、タルザールのかわいこちゃんたち。アンタたちの城壁も、あたしたちの前にはひとたまりもないわよお」
アランはそう呟きながら、不敵な笑みを浮かべた。
その笑みは自信と余裕、そして僅かな狂気が混ざり合っていた。
ロタゾの軍勢は八万。
ここに連れて来ているのはその中でも一万程だ。
それでも敵軍――タルザールとレヴィアスの連合軍――は、たったの半分足らずの兵力でロタゾを迎え撃たなければならない。
戦力差は明白であり、この戦いの勝敗は既に決まっているようなものだ。
タルザールはすぐに降伏してくる確率が高い。
しかし、アランは決して油断していなかった。
戦いは数だけで決まるものではない。
幾つもの戦いの死線をくぐり抜けたアランはそのことをよく知っていた。
「将軍、目標地点まであと少しです。兵士たちに休息を取らせますか?」
ロタゾの副官が近づき、アランに尋ねた。
「もちろんよ。あんたたちがしっかり体力を保たないと、あたしたちの計画もおじゃんになっちゃうじゃない。しっかり休ませて、心も体もピチピチにしておいてちょうだい」
アランが言うと、副官は軽く頭を下げてその場を離れた。
兵士には一人一つ、細工をした魔石を持たせている。
魔力がないものもこれで魔法が使えるようになる。
紅い魔石は人間の生命力を得て、強大なパワーを得る。
その結果、兵士が倒れたとしても、問題はない。
兵士たちの記憶や情報は、すぐに『イザイラ』に転送されるようになっている。
アランの隣には、イライザがそっと寄り添うようにして馬に乗っていた。
桃色の髪の少女は、軍略に長け、得体の知れない恐ろしさがある。
アランが全てを捧げて作り上げた『イライザ』は、かつてのアランの幼なじみ、ベラの記憶を受け継いでいた。
「アラン、見て!これが今日の収穫よ!」
記憶の中のベラは誇らしげに蜂蜜の瓶を掲げ、アランに向かって走ってくる。
頬は薔薇色に染まり、弾むような声には生命の喜びが詰まっていた。
ロタゾの田舎町で生まれ育ったアランは孤児の産まれで、跡継ぎのない武具の工房に引き取られていた。
そんなアランに、近くに住んでいたベラはいつも優しくしてくれた。
苦しいけれど、ベラのいる日々がずっと続くと思っていた。
ベラが微笑んでくれれば何もいらないと、本気でそう思っていた――。
だが、幸福な日々は長くは続かなかった。
ベラは突然の病に倒れて、その状態はみるみるうちに悪化していった。
アランは何もできず、ただベラの傍にいることしかできなかった。
心の中には恐怖と悲しみが渦巻いていた。
亡くなる前夜、ベラはアランに向かって微笑んだ。
「アラン、あたし、もうすぐいなくなっちゃうけど、あたしのこと忘れないでね」
アランは必死になって言った。
「そんなこと言わないで。ベラはいなくならない! ずっと僕の傍にいるんだ」
アランは涙をこらえながら、ベラの手を握りしめた。
ベラは奇妙なほどに安らかに微笑んだ。
「いいの。みんな命はいつか消えてしまう……みんなそうだよ。星も、木も、全てはいつか消えてしまう。あたしはそれが少し早かったってだけ……だけど、どうか覚えていて欲しいの。あたしがいたこと。あなたに会ってたくさん笑ったこと。あなたのことを大好きだったことを、あなたにだけは……アラン……」
ベラは静かにこの世を去った。
そしてアランは決意した。
自分が、完璧なベラを作りあげるのだ。
アランはベラの髪を切り、長い時間をかけて絡繰りを作った。
特大の緑色の魔石を使って動力装置にした。
緻密に機械仕掛けの魔石の道具を組み上げて、情報を覚えさせた。
もう一度、一瞬でもいいからベラに会いたかった。
最初はただ、それだけだった。
絡繰りができあがり、魔石で力を与える。
それを繰り返していくたびに、イライザはどんどん人間らしくなった。
見た目だけは、美しく成長したベラと差異がほとんどない。
アランは思った。
自分がイライザを育て上げるのだ。
この世の全ての知を、情報を、刺激を、『ベラ』が体験できなかったことを、あらゆる知識を『イライザ』に入れ込んでいく。
(そうすればもう一度、一緒にいられる)
『イライザ』はロタゾ中のどの人間よりも賢い存在になった。
もはやイライザは『ベラ』ではない。
あの頃のベラならば、戦なんてやめようと言うだろう。
しかし、アラン自身も変わっていた。
ベラを追い求めるあまり、自分自身が女性の振るまいを求めるようになった。
ズボンを燃やし、ドレスを身に付けた。
明るくてはつらつとした、自由なベラのような女性にもう一度会いたかった。
そして今、アランは長い髪を結んで、新しい細身のズボンを身に付けて、馬に乗っている。
(何の因果かしらねえ)
アランは自嘲する。
もう後には戻れない。
賽は投げられたのだ。
少なくともタルザールを攻め滅ぼすまでは、ドレスどころか、戦闘服以外は身に付けることは許されないだろう。
イライザは感情の無い瞳で馬上に揺られている。
月明かりに照らされた横顔は、もしもベラが存命していたらこうなっていたのかと思うくらいには、凜として美しかった。




