ノエルの場合
リーヴィンザールにモルフェを託したノエルは、地下通路に来ていた。
もちろん許可はとってある。
公式には情報収集というていになっているのだ。
薄暗い通路を、紅髪の美少女は静かに歩いていた。
真剣な瞳にはらんらんとした炎のような希望が輝き、可憐な唇は固く引き結ばれていた。
あたかも国を憂う革命家のような、一種独特な情熱を感じられる風貌は気高くすらあった。
しかし、この女――いや、男――まあどちらでもいいけれど――が、考えているのは、国の行く末ではなく、今日の昼飯だった。
(串焼き、串焼き、串焼き……)
よく見れば可憐な唇からは一筋の涎が零れてきらめいていた。
見た目は美しくとも、人一倍食い意地の張った生き物なのである。
ノエルは、無意識に生唾を飲み込みながら、
『晩酌亭』
と書かれた橙色の看板を思い描いた。
リーヴィンザールの店は美味い。
そう、極めて美味い。
炭火でじっくりと焼かれた串焼きをノエルは想像した。
香ばしい匂いが鼻をくすぐり、脳にまでじゅんと肉汁が染み込むようだ。
竹串に刺さった肉は、表面にしっかりと焼き色が付き、ほんのりと脂が光って、目を楽しませる。外側はカリッと香ばしく、内側は柔らかくジューシー。ひと口かじると、炭火で焼かれたタレの独特な香りが口いっぱいに広がって、弾力のある肉の旨味が舌を支配する――。
ノエルは身をよじらせながら叫んだ。
「ああっ、支配されたい! もういっそ俺の舌を独裁してくれ……はあ、いかん、あの店の肉はなんかヤベーもんでも入ってるんじゃないのか……無理だ……定期的に摂取しねぇと干からびる……う、早く店に行きてぇ……」
地下通路を抜けると、古びた木の扉が目の前に現れる。
そこには、小さいが、よく目をこらすとやっと読めるような金色の文字で
「晩酌亭」
と書かれていた。
ここは裏口、リーヴィンザールが城から出入りするときの通路なのだ。
ノエルは扉を押し開けて、中に入った。
店内は、ささやかな光が照らす温かな空間だった。
木製のカウンターには控えめな照明が灯り、壁際には色とりどりの植物が配され、店全体に心地よいスパイシーな香りが漂っている。
迷い込んだ猫のようにそっと狭い廊下を歩き、裏口から厨房を覗く。
ひょっこりと顔を出したノエルに気付き、厨房で肉を切って下ごしらえをしていた男が苦笑した。
「おい、また来たのかテメーは。野良猫かよ」
ノエルはヘラヘラとして、どうも、と挨拶をした。
この男はカシウスという。
リーヴィンザールに店を任されているので、名目上はこの酒場の店主である。
カシウスは年齢不詳だが、外見には、元傭兵の痕跡がしっかりと残っている。
がっしりとした体格は、鍛え上げられた筋肉が服の下からもはっきりと見て取れるし、どっしりとした肩幅は酒樽のようだ。
白髪混じりの髪や鋭い目つき、それに右頬に残る浅い一本の傷跡が、どこか油断ならない感じを与えるが、話してみると気の良いオヤジだ。
リーヴィンザールの『連れ』として紹介されたノエルにも、『来賓』でなく『酒場の客』として接してくれる。
貴族令嬢なんてまっぴらごめんのノエルにとっては、心安まる神対応だ。
ノエルは少し照れたように肩をすくめてみせた。
「おー大将。昼飯に串焼き頼むよ」
「ふざけんな。こっちはまだ夕方の仕込み中だぞ」
「そこをなんとかさぁ」
「うちはランチはやってねぇの」
「頼むよぉ。俺と大将の仲じゃねぇか」
「どんな仲だよ全く。ほれ、あんまり良い肉は無ぇぞ」
ぼやきながらカシウスは、丸太ん棒のような腕で器用に串にボア肉の端切れを刺し、塩とスパイスを振って炙り始めた。
「はぁ~、ありがたいありがたい。あのさあ、よかったらアレも……なあ、頼むよ」
ノエルは、ほとんど懇願するように言いながらカウンターの前に腰を下ろした。
「ったくよ、お嬢様がそんなもん飲むなよ」
「大将ぉぉ……」
「ッチ、仕方ねぇな、ほれ」
カシウスはグラスに入った飲料をノエルの前に置いた。
少し濁った黄色をしていて、控えめな泡が立っている。
「おっ、おおおおお!」
ノエルは目を輝かせた。
頬は上気して、呼吸が速くなる。
目はとろりと蕩けたように、感動の涙で薄い膜が張っていた。
「いただきます!」
「おう。つうか食べる前に毎回毎回、その宣言は何なんだ? 祈りの言葉か? 外国人のことは良く知らねぇけどよ」
「クー! んまああああああっ!」
「そんだけ美味そうに飲み食いされたら文句は無いけどな」
やがて、炭火で程よく焼き色が付いた串焼きが、カシウスの手によってカウンターに並べられた。タレで味付けされたもの、塩で仕上げられたもの、どれもが完璧な焼き加減だ。
ノエルは早速、一串を手に取り、待ちきれなずにかぶりついた。
「んっ、んんんんん!」
外側のカリッとした食感に続いて、中から溢れるジューシーな肉汁が口いっぱいに広がる。炭火の香りとタレの風味が見事に調和している。
ノエルは目を閉じ、恍惚の表情を浮かべた。
「うまい……やっぱり、カシウスの串焼きは最高だ……」
「そりゃあどうも」
「セルガムもう一杯!」
「おい、昼間だぞ」
「だから何だ! 俺は来賓だぞ」
「嫌な客連れて来たな、リーヴよ……」
リーヴィンザールの旧知の間柄というカシウスは、小さい声でぼやきながらもグラスにおかわりを注いでくれた。
ノエルは幸福そのものだった。
(はあ、異世界に来て、なんだかんだあったけど……俺は! この! 今この瞬間のために! 生きてきた! クゥゥゥッ! 生きてるぜ、今、俺は生きているうううッ!)
次々と串を平らげていく美少女の食べっぷりにカシウスも呆然としている。
「お前、毎回毎回、ほんと……すげえなあ……」
カシウスはノエルに言われるがままに、追加の串を焼き続ける。
ノエルの頭の中は、もう他のことを考える余裕などない。
ロタゾもゼガルドも記憶の彼方に飛び去っていき、ノエルは目の前の串焼きとセルガム飲料に完全に支配されていた。
ふと、ノエルは串焼きを口に運びながら、カシウスに尋ねた。
「なあ、カシウス。この串焼きの秘密って何なんだ? お前の店だけ、こんなにうまいのは何か特別な理由があるのか?」
カシウスは、にやりと笑みを浮かべて答えた。
「それはな、美味さの秘密は、ひとつにはお前みたいに美味しさをしっかり味わってくれる客がいるからだ。そしてもうひとつは……お前が知らなくてもいいことだ」
「え、ボアの肉だよな?」
「……ああ」
「今ちょっと間が無かったか? え、ボア肉なんだよなっ?」
カシウスは片眉をあげながら、にやりと笑った。
「企業秘密だ」
そのとき、ノエルが思ってもみなかった異変が、静かに兆候を見せ始めていた。




