星々の揺らめき
ゼガルド王国の第一王子、ヴェテルは薄暗い自室でふうと息を吐き出した。
地下にあるこの部屋は、ヴェテル専用のものだった。
窓には重厚な黒のカーテンがかかり、わずかな光さえ遮られている。
壁は深い紺色で覆われ、銀の刺繍が夜空の星々や幻想的な森を描き出していた。
黒檀の床には、ゼガルドの王室御用達の店であつらえた毛足の短い灰色の絨毯が敷かれている。
四柱式のベッドは黒いカーテンで覆われ、ベッド脇のナイトテーブルには、銀製の燭台がある。
蝋燭は淡く柔らかな光を放っていた。
ヴェテル専属の家来であるリゲルが持ち込む植物や切り花が、この部屋に微かな生命感を与えていた。
部屋の一角には書棚があり、歴史書の横に、ヴェテルの執筆している騎士道物語の原稿が並んでいる。この部屋は、ヴェテルが外界から離れ、自らの思索に没頭するための静かな避難所である。
まるで地下の奴隷のようだと、ゼガルドの王族から揶揄されているのは知っているが、ヴェテルは何も思わない。
執筆している騎士道物語の続編は、あと羊皮紙数枚で終わりそうだ。
ヴェテルは眠り込んでしまいそうな気持ちで口を開いた。
「柔らかな光の中で……姫君の優しげなまろい頬が光り輝くようだった」
「まろい? 丸いではなく、ですか?」
腹心の家臣であるリゲルが、いぶかしげに眉をひそめた。
「うん。そこはそれでいいんだ」
と、ヴェテルは言う。
素直にリゲルは羊皮紙に、ヴェテルの言ったことをつらつらと書き綴っていく。
ヴェテルはそこまで視力がいい訳でもないので、こうしてリゲルが口述筆記に付き合ってくれるのは助かる。リゲルは頭も悪くないし、体力もある。良い家臣だ。
ヴェテルには順当に考えれば王位継承権がある。
が、誰一人としてヴェテルが本当に王位を継ぐとは思っていなかった。
突然、遠くから軽快な足音が聞こえてきた。音の主が近づくにつれ、足音のテンポが次第に遅くなり、やがて完全に止まった。
ノックの音に、ヴェテルは頷く。
リゲルが
「入れ」
と、声をかけると、扉が開いた。
「どうも、ご無沙汰しています」
それは、タルザールの馴染みの商人だった。
隻眼の彼は、確かジンという名前だった。
「ヴェテル様、久方ぶりでございます。お元気そうで何よりです」
と、ジンは一礼し、にこやかな笑みを浮かべた。
「どうだ、商売の方は」
「ええ。順調です」
あたりさわりのない会話をしながら、ジンは周囲を伺っていた。
盗み聞かれていないとも限らない。
「実は、王室御用達として、特別な品を持って参りました。ヴェテル様の肌を守るための日焼けを防ぐ特殊な衣服です。東方から仕入れました新しい織物です。このような品を提供できるのは、我が店以外にはございません。どうぞ、ご覧ください」
とジンは大きな革袋を開き、白地に金の装飾が施された見事な織物を取り出した。
ヴェテルはその布地を軽く指で触れ、質の良さを感じ取った。
「確かに良い品だな。だが、君がこのような時間に持ってくるものには、何か特別な理由があるのか?」
ジンは少し表情を引き締めた。
「お察しの通りです、ヴェテル様。実はタルザールの商人の我々は、他国と取引をすることにいたしました」
「ほう」
ここで言っているのは単なる織物の話ではない。
国の情勢の話だ。
リゲルはヴェテルの背後から一歩前に出た。
「どこと組むというのだ?」
ジンは慎重に周囲を見渡し、声を低くして続けた。
「レヴィアスとラソです。ラソはロタゾに攻め入られ、滅びたも同然ですが、タルザールはそこと取引をしようとしているのです」
タルザールが他国と同盟を組んでいる。
ロタゾを攻めようとしているのだ。
ヴェテルは全てを察して、鋭い眼差しでジンを見据えて確かめた。
「リーヴィンザールが望んでいるのだな」
ジンは頷いた。
「どうか、ヴェテル様に取引相手になって頂きたく」
ヴェテルはしばらく考え込んだ後、静かに答えた。
「僕もこのような立場だ。表だって行動はできないが……織物を幾つか買うくらいはできるだろう」
つまり、第二王子エリックに悟られるような真似はできないが、金銭的な支援はできるという意味だ。
勘の良いジンは、短く礼を述べた。
ヴェテルはゆっくりと口角をあげる。
透き通ってしまいそうな白い顎がクッとあがった。
「もう一つ。当てて見せようか? リーヴがここに君を寄越すってことは、織物を買わせるだけじゃなくて……僕に図案を描いて欲しいからじゃないか?」
ヴェテルは紅い瞳をきらりと揺らめかせて言った。
ジンは降参したポーズで、深く頷く。
「いや、恐れ入ります。その通りです」
つまりは、暗に作戦を立てるのを手伝って欲しいという意味だ。
ヴェテルは懐かしくなってふっと笑みを零した。
若い頃、ゼガルドへ留学してきたあの男は、いつも自分を頼ってくる。
昔はそれを心地よく思っていた。そして今は、より嬉しく思う。
一国の主となった親友に頼られるのは悪い気分ではない。
ゼガルドへ留学した頃のリーヴィンザールと、真っ黒なローブに身を包んで素性を隠していたヴェテルは同級生だった。
素性も顔も隠していたために気持ち悪がられていたヴェテルに、リーヴィンザールは『成績が自分よりも良いから』という理由だけでしつこく話しかけてきた。根負けする形で付き合いだした友人関係だったが、それは案外に心地よいものだった。ヴェテルの人生観が変わるくらいには、リーヴィンザールというのは面白い男だった。
誰しもが第二王子エリックが次の後継者だと思っている。
白い髪と紅い瞳のヴェテルは、王位継承権こそあれども、王政からは手を引いていた。
「ヴェテル様、危険なことはお控え下さい」
忠実なリゲルが心配そうに諫める。
しかし、それを大人しく聞くようなヴェテルではない。
「まあ、危険をおかして他国に関わる気などないが、唯一の親友が困っているならば話は別だ」
リゲルは無言でじっとヴェテルを凝視した。
ヴェテルは苦笑する。
忠実過ぎるのも問題だ。
「僕はゼガルドの人間であり、軽率な行動はできないが――そうだな、織物の絵を描くくらいなら許されるだろう。だが、失敗しても文句を言わないでくれよ」
ジンは深々と頭を下げた。
「もちろんです、ヴェテル様。こちらはあくまで協力をお願いする立場です。あなたの決断をお待ちしております」
「分かった。考えさせてくれ」
とヴェテルは言った。
「ではまず、タルザール・レヴィアス・ラソの織物の数と、その内訳から教えてくれ。リゲル、羊皮紙をジンに渡してやってくれ。ちょうど数枚余っていたからちょうどいい。僕の騎士は物語が進むたびに、姫君を口説くのが上手になってしまってね……」




