ただただチキンがうまい
「さて……」
火喰い鳥のフライドチキンと正対したノエルは、心を落ち着けた。
そっと手を胸の前で合わせる。
「いただきます」
ちょうど銀の大皿にたっぷりと火喰い鳥を盛り付けて、部屋に入ってきたレインハルトが言った。
「ノエル様がいつも食前に呟くその言葉はいったい何の意味があるのですか」
異世界には、いただきます、ごちそうさま、の文化がない。
あっても、よし食べましょう、とか、恵みに感謝をだとか、そんなようなものだ。共通の言葉というのはあまりない。
ノエルにしてみれば、言わないと気持ちが悪いのでやっている。
しかし、周りの仲間たちにしてみれば、謎が多いらしい。
「……たとえばさ、レインは剣を抜くときってどうする?」
「は? ええと、柄に手をかけて、鞘から引き抜きますが」
「俺にとってみれば、それがこの挨拶なんだよ」
ルーナが言う。
「なんだか厳かな響きですよね」
モルフェが言う。
「どういう意味か知らねぇが、なんだかノエルが言うと、意味がある気がするな」
「たまにはみんなで言ってみるか?」
とノエルが言った言葉に、その場の者たちは同意した。
「じゃあ……いただきます」
「いただきまーす!」
ノエルは皿に積み上がった鳥肉の一片を手に取り、まずは香りを楽しんだ。
香ばしい衣に、ほのかにスパイスの香りが混じり合っている。
(お、これはシトリン? ううん……ちょっと甘みのある香草が入ってる)
ノエルはそっと唇を開いた。
可憐な花を思わせる紅い唇の奥から、しっとりと濡れた舌が待ち受ける。
白く粒の揃った歯に、固く熱された茶色い衣が触れた。
カリッという音とともに、チキンのジューシーな肉汁が口の中に広がった。
(うおおお、これは……)
まろやかなラソの塩が、旨味をもって迫ってくる。
絶妙なバランスの塩味とスパイスが、味覚を刺激する。
(駄目だ、もう一口が、止まらねぇ!)
カリカリとした衣と、肉のジューシーさが見事に調和している。
ノエルは、もう一口、そしてまたもう一口と、次々にチキンを口に運んだ。
一本一本、手羽先やもも肉の部位によって微妙に味わいが異なる。
歯触りや肉自体の旨味を楽しみながら、ノエルはその味わいに感動していた。
(ん、このスパイスが絶妙なんだよなあ……ラソの塩が最高だ。俺の判断は間違っていなかった。これまでの苦労が全て、今! この時に報われている!)
辛すぎず、しかし確かに存在感のあるスパイスが、後味として舌の上に残り、次の一口を誘う。
はふ、と、熱さを吐き出すようにノエルの口から息が漏れる。
肉汁が顎までしたたっても、令嬢であることを完全に忘れて、ノエルは喉に火喰い鳥を迎え入れ続けることを辞めなかった。
ささみの部位のあっさりとした食感。
手羽先の細やかな肉とカリカリの衣の組み合わせ。
反対に、もも肉の厚みのある肉質と、噛むたびに溢れ出す天然のジュースは、また別の楽しみを提供する。
(いや、もう、何度思ったかしらんが、ラソの塩が! 最高過ぎる! うまい塩ってのはこんなに食材に合うんだな……ボアの肉とはまだ違った味わいだ)
無言で食べ続ける面々は、おそらく同じことを思っていた。
マルクが指についた肉汁を舐めて、ぼそりと呟いて沈黙を破った。
「ものすごく、美味しいですね……」
モルフェが激しく頷いている。
ルーナに至っては、幸せ―と言いながら、両手に肉を持っている。
さすが女王だ。
フッと笑ったレインハルトが席を立った。
「これで終わりだと?」
ノエルは驚愕に思わず目を見開いた。
薔薇を思わせる深い赤色の瞳に、長い睫毛が影を落とす。
「まさか、おま、レインッ、お前……!」
舞台俳優のようにやけに美しくレインハルトはくるりと体の向きを変えて、厨房へ向かった。そして、今度はまた別の大皿を持って、戻ってきた。
(こ、この香り! まさか!)
ノエルの心臓がどくりと脈打つ。
この興奮と感動をどのように表現すればいいだろうか。
細胞の一つ一つが期待に震えている。
鼻腔に飛び込んできた香りが脳随を痺れさせる。
主人の言葉を待つ犬のような表情で、食卓に座るノエルは皿を持つレインハルトをじっと見上げた。
形の良い唇が弧を描く。
(あっ、ああ、これは、もしかして!)
期待感に震えるノエルを見下げたレインハルトは、皿を優雅に片手で持ちながら良い声で言った。
「こちらは、オーヒル入りの物です」
ノエルは椅子を立った。
「マジかああああ! レイン! お前! ほんとにすごい! 分かってる! 絶対うまいじゃん! 絶対絶対うまいじゃんこんなん!」
「焦らないで下さい。ノエル様、気持ちは分かりますが令嬢らしく」
「これが食えるんなら俺は今から令嬢を辞めて犬になる」
マルクが骨付きの肉を手に持ちながら言った。
「姉上! やめてください! あ、違うか、姉上の体に入っている男の方、そんなことは言わないで下さい! 姉上の尊厳をおとしめるなっ」
レインハルトは落ち着いている。
「マルク様、ご安心下さい。ノエル様の尊厳はこれ以上下がりません」
ルーナはにこりと微笑みながら、
「マルクちゃん、もうちょっと表現を変えましょうか。というか誰に何を吹き込まれたのかお姉さんに教えて?」
と、どこか凄みのある表情で言う。
ノエルは必死に涎を垂らしながら、目を大皿に向けていた。
令嬢の高貴さも何もあったものではない。
「レイン、早く、早くそれを、それをここに、頼む、早く」
モルフェが蔑むような目で見ている。
「お前……人としてやめろよ、そういう……落ち着け」
ノエルはキッとモルフェを睨んだ。
「馬鹿野郎! オーヒルっつたらあのニンニクみたいなやつだぞ! ニンニク入りの唐揚げを一度でも食ってみろ、飛ぶぞ!」
モルフェが呆れる。
「なんだ? ニンニクとか知らねーよ、聞いたことねぇし、どんな草だ、それ……っつか人間は飛ばねぇよ……クソ王子じゃあるめぇし」
レインハルトが片手に持った瓶を掲げ、モルフェを見下げた。
一人、立っているせいでやたらと威圧感がある。
「ふ、バカめ。これを見ても、俺にそんななめた口がきけるのか?」
今度はモルフェが目を見開く番だった。
「なっ……これは!」




