つかの間の日常
ノレモルーナ城に日常が戻ってきた。
「あー、やっぱり家が一番いいなあ……」
ノエルは城の塔の一番上の小部屋に、織物を敷いて横になっていた。
実質、ここがノエルの自室と言っていい。
高級な調度品も、美しい美術品も無い部屋だ。
しかし、風通しが良く、眺望は最高だ。
モルフェと苦心惨憺した冷却魔法のおかげで、床と壁がひんやりする仕様になっている。
さらには住民から差し入れられた床に敷く織物が、最高に気持ちが良い。
驚くべきことに、以前いちゃもんをつけてきたあの羊の老婆からの物だ。
あの人はあの人なりに、何か成長しているのかもしれない。
こうして床に横になっていると、前世の東方の島国生活を思い出す。
このノエルの部屋の中は土足厳禁だ。
素足のノエルは一人で思い切りごろごろしながら、ぼうっと窓の外を見てうとうとしていた。
漫画もテレビも電話もコンピューターも無い生活だが、これはこれでいいものだ。
流れる雲は白く、ひとときの平和を感じさせる。
(あー、眠い……)
このまま眠ってしまおうか。
城の中庭から、はしゃぐ子どもの声が聞こえてくる。
「あははははっ……モルフェさん、それはひどいですよ」
タルザールから戻り、そのままレヴィアスのノレモルーナ城に滞在しているマルクだ。
そして、誰と誰が気が合うかなど、周囲には分からないものである。
「こいつ、待て! クソ、でかいネズミのくせにすばしっこいな」
悪態をつく声がする。
下を見なくても分かる。
モルフェだ。
なぜか、神童ともいうべき天才児のマルクは、モルフェをいたく気に入ったようだ。モルフェもまんざらではないようで、日中は一緒に行動している。
「お腹が大きいから雌ですかねぇ……こんな、茶色くて大きなネズミなんて、ゼガルドで見たことないですけど、愛嬌があってけっこう可愛いですね」
「そうか? 最近この辺りで繁殖してやがんだよ。ノエルはカピなんとかって言ってたけどな。まあ、ネズミだ。すぐこっちの城までやってきて……おい、おまえの住処はオアシスだろ。とっとと連れ戻すぞ」
「この子、何食べるんですかね」
「そのへんの草とかじゃねぇのか? あ! 逃げた! 待ちやがれこのやろ」
「待って下さいよー!」
とろとろしてきたノエルのまぶたの裏にタルザールの独裁者、リーヴィンザールの顔が浮かんできた。
あいつは今ごろ何をしてるだろうか。
晩ご飯、美味かったなあ。
ゼガルドに留学してたとか……もっと話、聞きたかったなあ……。
その時、なぜかノエルの胸が小さくざわついた。
平和極まりないこの瞬間に、そんな感情を抱くのはおかしい。
きっと夢だ。
今、無意識の中で、きっと夢を見ているんだ。
リーヴィンザールが言っていた言葉は何だっけ?
人好きのする笑顔で彼は話をして、楽しく過ごした。
美味い料理を食べて、新しい未来に思いを馳せて。
そうじゃない、もっと簡単なこと。
ざらりとした舌触りの違和感のような、なめらかな舌触りのクリームに混じった異物のような。
あの時、もっと深く聞かなきゃいけないことが、何かあったはずなのに……。
「ノエルー!」
パチッと意識が、雷に打たれたように明るくなった。
ノエルは目を開けた。
誰かが自分を呼んでいる。
ふと顔をあげた。
砂漠の乾いた風が、すうと部屋を通り過ぎる。
そこにあるはずのないものが見えた。
部屋の窓に、まるで前世の世界の蝉のように、窓枠に器用に手足を引っかけて――
ルーナが張り付いていた。
「うぎゃあああああああ!?」
「あ、起きましたね」
「わああああッ! ルーナ!? あ、ルーナだ……え!? って、何して……え!? お前、女王じゃ」
「女王がじきじきに呼びに来たんだから、早く降りてきて下さいね」
ルーナは言いたいことを言うと、窓枠からパッと手を離した。
熊耳が落下し、姿が消える。
「わあああああ! ルーナ!」
ノエルは窓に駆け寄った。
ルーナは軽々と塔の壁を蹴り、途中の壁にまた足をつけると、衝撃を徐々に和らげながら地面に近づき、ふわりと着地した。
「あ、そうだ、ルーナはああいう奴だった……」
しばらく一緒にいなかったから忘れていた。
ルーナこそ、この塔の修復を命綱もなしにやってのけた、驚異的な身体能力の持ち主だった。
「に、しても、なんでルーナ、急にこっちに来たんだ?」
今はレヴィアスの女王として執政している立場なのではないだろうか。
現在も西側が政治の中心の位置づけのはずだ。
「勝手に抜け出してきたんじゃないといいけど……」
不安になりながら、ノエルは靴を履いた。
やっぱり大役が務まらないとかで、こちらにお鉢がまわってきても困る。
ディルガームを攻める間際、レヴィアスの長になる気はないかとセシリオやアーロンに打診してみた。
けれど、答えは否だった。
彼らはあくまでも騎士団であり、統治者ではないらしい。
それがなくても、獣人であり、ノエルたち人間と共に行動してきたルーナこそ、新しい時代の指導者に適任だとノエルは考えていた。
(でも、ルーナに駄々こねられると弱いんだよなあ……)
前世柄、お嬢ちゃん方の取り扱いは正直なところ自信がないゆえに、言動や行動には細心の注意を払ってきた。
(若い女子って何考えてんのか、わっかんねぇんだよな……)
中身はおっさんのノエルの悲しい性である。
正直ルーナに『女王なんてイヤッ! モウヤメルッ!』と言われてしまったら、ノエルにはもう手の打ちようが無い。
かといって、人間兵器のような自分が目立ってレヴィアスの長になるのは、戦乱の世を余計にかき乱してしまう気がしなくもない。
(野球でも監督とプレーヤーは違うからなあ。俺は強打者かもしれんが監督にはなれねぇっていうか。……ん? あれ、長嶋茂雄はミスタージャイアンツで、川上哲治も首位打者で……いや、違う違う、そういうことじゃないんだ)
ノエルはしぶしぶ食堂に向かった。
なんやかんや言っても、久しぶりに会ったルーナも交えての楽しい晩餐になるはずだ。
しかし、そこにはノエルが思っても見なかった人物が、先に座っていた。




