こっちのハルさん
「ノエル様、ご無事ですか」
「なんや、もう見つかってしもたんか」
リーヴは残念そうに言った。
「動くな。俺の主に何をしているか答えろ」
「野暮やなぁ、男女が仲良うしてるだけやん?」
ノエルは壁に背をつけながら思った。
(男女じゃない、お前が壁ドンしてるのは日本酒好きなおっさんだぞ……)
一部の特殊性癖持ちに受けそうな構図ではあるが、本人としては相手への申し訳無さが拭いきれない。
レインハルトとモルフェには打ち明けているが、周りから見れば自分は令嬢に見えているんだなと、こういうときに実感する。
レインハルトは黙って、矢の切っ先をリーヴの首にグッと押し付けた。
「っ……」
リーヴが息を呑む。
パキッと乾いた音を立てて、リーヴの腕輪が割れていく。
攻撃を受けるたびに、割れる仕組みのようだ。リーヴを護っていた腕輪が全て割れる。
それとともにノエルも、
(あっあっ危ねえぇ!)
と言いたい気持ちを圧し殺しながら、レインハルトを見守る。
「ノエル様から離れろ。さもなければ今度こそ皮膚を斬る」
淡々と言うレインハルトの声に、ノエルのほうが恐怖を感じる。
(やめろよ!? よっぽどのことがない限り、敵でも殺さないように言ったよな!? あれ!? まさか聴いてない!? レインに限ってそんなことないよな? モルフェならまだしも……レイン、でも俺が昨日の夕飯で殺しはやめようって話したとき、オランジュの皮で鳥作ってたな? まさかあいつも人の話聴いてない系男子なのか!? やだ、もう、頼むぞ……)
ノエルは焦った。
人殺しはしたくない。
駄目だ。
見たくない。
ここがいくら中世のような異世界の地であるとはいえ、前世の高潔な警官魂と人並みで平凡な日本人の道徳心を持ったまま、平気な顔で人命を奪うことなどできようもない。
ようやく晩飯に食べるボアを狩って殺し、血を抜くことを覚えたばかりなのだ。
生きていたモノの脈を切り、呼吸を止め、血飛沫を拭いて、手を合わせる。内臓を抜き、頭を落とす。下処理するだけで、何度か嘔吐した。生命を奪うことに恐怖した。それにようやく慣れてきた。
それなのに、
(人間は無理! 人間は無理!)
自分は戦士でも兵隊でもない。
ノエルはレインハルトがタルザールへ旅する前に言いつけたことを理解していることを祈った。
すなわち、なるべくならば、人命は奪わないで欲しいということだ。
父母を処刑され命を狙われながら単身逃げ延びているオリテの元王子、ゼガルドの闘技奴隷であり殺し屋だったモルフェは、ノエルを訳が分からない謎の生き物を見る目で眺めていた。
でも、それでも、やっぱり。
培った価値観というのは、簡単に全て入れ替えることは難しい。
ノエルは自分の直観を信じていた。
食べることもしないのに、関係ないものの命を奪うのは、やはり道理が通っていない。
そうでない場合があるとすれば、雄同士が縄張り争いをするときか、雌を巡って争うときだ。
(これはどっちなんだろう?)
ノエルは自分の身体に覆いかぶさるようにして、緊迫している青年たちを冷静に眺めながら思った。
(俺はスパイだってばれて、酒屋のリーヴは俺を尋問しようとして、レインは俺を助けようとリーヴの頸動脈を狙ってる)
おそらくリーヴはこの独裁者の国において、完全に洗脳されているのだろう。
独裁者の敵は排除しなければならないと教育されているのかもしれない。
(だが、今はそこまで構ってられねぇ! レイン頼むぞ!)
リーヴの身体ごしに視線を送る。レインハルトは彫像のような白い顎を僅かに引いて、頷いたように見えた。
「あー。甘い。甘ちゃんやなあ。オリテのデザートワインくらい甘いで」
リーヴが言った。
声には余裕が感じられる。
「領主がやすやすと殺られるわけないやんか」
レインハルトが目を見開いた。
「領主? まさか、お前は」
「はい、質問は終わりや」
リーヴの胸元の紅い宝石が、光り始める。
「ダメだ! レイン、こいつの石は幻覚を見せる! 目をつむれっ」
「無ー駄ーや。目ェ瞑っても、耳塞いでも、この魔道具の効果からは逃れられへん」
「レイン!」
「はは、この魔道具はフォボスゆうて、その人物が『最も敬愛する人物』の幻覚を見せるんや。そこのお兄ちゃんは何を見てるんやろなあ」
レインハルトはエルフの矢の切っ先をリーヴの首すじにあてたまるま、蒼い目を揺らめかせた。
「……父上」
驚いたように、レインハルトは呟いた。
「やめろ!」
ノエルは叫んだ。




