つかの間の幻
「……何か誤解されているようですが、私は本当にただ、ゼガルド王国から観光に来ただけで」
「嘘やな」
ノエルは腹をくくって男を見返した。リーヴは不敵な笑みを浮かべている。
「お前みたいなやつ、たまにおるんやわ。ゼガルドの者を名乗るってことは、ゼガルド以外の他所もんやな。自分についてのことは、喋り出す前に変な間があるなあ。その癖なおさんと、スパイとしては致命的やで。俺に近付いて籠絡させるように言われたか?」
合っているようで、間違っている。
「そんなこと、あるわけない」
「誤魔化してると自分が困るで?」
「本当だって!」
と、ノエルは叫んだ。
リーヴはハッと鼻で笑う。
(親切そうな奴だと思ったのに……)
酒屋との繋がりを断ち切ってしまうのは惜しいが、背に腹は代えられない。
ノエルはパラライズで相手を麻痺させて逃げることにした。
「パラライズ!」
ノエルの指先から魔力が飛んでいく。
黄色みがかった光がリーヴの胸板を直撃した。
はずだった。
バチンッ! と小さな電流がぶつかるような音がして、火花が散った。
リーヴが腕につけていた腕輪の一つがパキンと折れて、砕け散った。
そして、次の瞬間、ノエルはリーヴの腕によって、路地の壁に縫い付けられていた。
「痛ッ……」
「話はまだ終わってへんよ」
リーヴの声は平坦だ。
「質問に答えてもらうで。誰の差し金や?」
「だ、誰でもない……」
ギリ、と力が込められる。
リーヴはさっきとうってかわった低い声で囁いた。
「ほおー。言う気はないんやなぁ? 根性あるわ。そやなあ、口を割らせるにも色々あるんやけど、どれがいい?」
「きっ……しょく悪いことを、……するな! この、変態!」
「ほんま、気ぃ強い娘やなあ」
リーヴは楽しそうにクツクツと笑う。
爪フェチの野郎にこんなことをされる趣味はない。
(バリアか? シールド? いや、間に合わない、それならもう攻撃魔法しかない。でも、あんまりやり過ぎると街が壊れちまう)
「いつまで持つかなぁ? 悪い子はお仕置きせんといかんかなぁ」
リーヴはやたらといい声で囁いてくる。
(剥がされる!?)
このままでは五指の爪の危機である。
ノエルは必死で策を探した。
(あれだ、レインを呼ぼう。あいつならきっと……えーと、えーと……モルフェがやってたやつ、モルフェがやってたやつ、意識を集中させて、共鳴させる……テレパス……)
ノエルは美貌の護衛の顔を思い出しながら、強く念じた。
キンッと頭のどこかで何かが繋がった音がした。
(あー、レイン、聞こえていますか……今、あなたの意識に語りかけています……っふふ、これ一回言ってみたかった……ごほん、えー、今俺は、爪フェチの変態野郎に捕まってて、このままだと俺の爪がピンチです……場所はポフポフの店の近くの裏路地……目印っぽい目印は特にありません……えー、攻撃魔法を使おうと思ったが、この辺り一帯が火の海になりそうで怖い……レイン、助けに来てくれ、頼む)
「どうしたん? 急におとなしくなったなぁ。諦めた?」
リーブが縫い止めたノエルの腕の拘束を緩めた。
そっと手を握られて、ぞわわわっと背筋に寒気のような感覚が走る。
(やばいやばいやばい! 俺の爪! 俺の爪まであと2ミリ! やめてくれ、あー、だめだめっちゃ見てる! コレクション確定だ、絶対俺の中指気に入ってんじゃんこいつ)
爪だけならまだましな方かもしれない。
前世での仕事柄、指の付け根からないタイプの人間にも会ってきた身としては、人ごとではない。
「ほな、ノエルちゃんのこと教えてくれる?」
「教えてやんねぇ。『ちゃん』って呼ぶな」
「これなぁ、魔道具やねんけど、見たことある?」
リーヴは自分の胸元のペンダントを指さした。
紅い宝石がついた大きめのアクセサリーだ。
(あれ、これ見覚えあるぞ)
ノエルは気が付いた。
(これって、ルーナが持ってる……トライデントにはめる宝石とそっくりだ)
「魔石って便利やなあ。魔力が無くても、これをうまく使ったら、いろーんなコトができるんよ……無理矢理言うこと聞かせるつもりはないんやで。自分から話したくなるようにさせたげようなぁ」
何をさせる気なのか分からないが、なんだか不穏なのは感じ取れる。
「やめろ……」
「自分でも分かってるんちゃう? やめてあげられへんよ」
リーヴは空いた手でノエルの顎を支えた。
「俺、偶像代表やからなぁ」
「ふざけてんのか?」
「それが素なんやな、ノエルは。いいやん。スパイがだんだん本性出してくるんってたまらんよなぁ」
本格的な変態野郎である。
ノエルはびくともしない男の腕に辟易した。
小さな声で、
「……ちっちゃいファイア」
と唱えてみる。
男がつけていた腕輪が2つ、パキンッと割れた。
「あれ……?」
「うーわ……エグッ……ノエル、魔法使えるん? 俺のブレスレット2つも割ってしもぅて……結構、力がある魔法使いなんやな。ゼガルドから来たっていうのもほんまなん?」
「さあな」
「教えて」
全大陸の半数以上の女の腰を震わせるような艶のある低音で、リーヴは囁いた。まるで恋人同士の甘い睦言のようだ。
しかし、ノエルにとっては、そんなことよりも絡められた手の指先が気になる。
(あぁぁぁぁぁ……! 爪が……! 爪触られてるううううヤバイ無理無理無理! 爪をそんなふうに見られたこと無いっていうか、想像以上のことをされてる感がスゲェ。無理だ。他はともかく爪はマジで理解できない……こいつ本気か? 本気なのか? なんか飲んじゃいけないやつをキメてるヤバイ奴なのか? 見た目がまともそうだっただけに油断した……くそ……)
ペンダントがぽうっと光る。
ノエルの視界が、桃色の霧が漂うようにぼやけていく。
「ほら、なーんも苦しくないで。ノエルは良い子やんな。教えて。誰に頼まれたん?」
リーヴの姿がかき消える。
そして、そこには、会いたかったあの人が現れた。
白髪交じりの短髪。皺のある手。鋭いのに、優しげに細められる目。
「ハルさん……?」
目の前のハルさんはにっこりと微笑む。
懐かしい。
ただ、懐かしかった。
「ハルさん……」
「さあ、言えば楽になる」
「楽に……」
ぼうっとする。
頭がふわふわして心地よい。
まるで夢を見ているようだ。
酷く懐かしくて、切ない。
「いったい誰に頼まれたんだ?」
「あ、何が……」
「タルザールの最高指導者に近付くように言ったのは誰?」
「たるざある? 何……」
「独裁者に近づけと命令したのは誰?」
「どくさい? ハルさん、俺、こっちでも元気にやってます……」
「ノエル」
冷水を浴びせられたようだった。
靄の中にハルさんが消えてしまう。
でも、それは幻だと、もう理解ができていた。
「違う……ハルさんは……呼ばない。俺をノエルと呼ぶのは……」
「ノエル様!」
紅茶の匂いのする風が、鼻先をくすぐった。
必死な時まで優美なんだなと思っておかしくなる。
(そうだ、これが俺の今の現実だ)
レインハルトは綺麗な顔に殺気を浮かべて、リーヴの首筋すれすれに矢の切っ先を当てていた。




