はぐれたのですわ
「いいえ。まだ食事どころか、街の様子もあまり分からず……知らない場所で困ってましたの。助かりますわ」
とノエルは微笑みかけた。
学院の生徒たちを魅了してきた優雅で美しい、猫かぶりの顔だった。
リーヴと名乗った男は、日焼けした頬でにっかり笑い返してくる。
腕につけた細身の金属の腕輪がキラッと光った。
左も右にもつけている金の腕輪は5つか6つのようだ。
どれも同じデザインで、シンプルだけどおしゃれで格好良い。ブドウを煮詰めたような色をした、小さな宝石が埋まっている。
「他の国からの観光客は大歓迎やわ。街が潤うしなぁ。お客さんサマサマや。ノエルはどこから来たん?」
青年は気さくに話しかけてくる。ノエルは、少しばかり躊躇った。
(うーん、獣人ではないのに、レヴィアスってのも変か? レヴィアスの人間には平民はいても、貴族はいなかったしな。身バレは避けたいとこだ……それなら、いっそ)
「……ゼガルドから来ましたの」
「ふうん。ゼガルドなぁ。そうなんや。家族と観光に来はったんかな?」
のんびりとした声で男は相槌を打ち、さりげなく尋ねてきた。
「……ええ。一度、他の国に行ってみたかったのです」
「そうかあ。気に入ったもん、あったか?」
「……そうですね、さっき到着したばかりなので、まだそんなによく知らないんです。美味しそうなものはたくさん見ましたけど」
「へぇ。串焼きとか?」
「ええ! そう……ですわ! あのこんがりした香り、ぜひともかぶりついてみてぇ……んっんんゲフンゲフン! みたいですわ」
「露天の串焼きは最高やで。店によって味が違うんや。俺はだんぜん塩派やけど、観光客はほとんどタレを買っていかはるなあ」
「タレ? 味が選べるの……で、ゴザイマスか?」
「せやで。セルガムを熟成させて作るんや」
さらっと言われたが、聞き捨てならない。
ノエルは、先を歩くリーヴの服の裾をクイッと引っ張った。
「ちょっと待ってく……ださい。もっと詳しく知りたい」
じっと見上げると、リーヴは黙って真顔でこちらを見下ろした。
背の高い男だ。
口ぶりから商人のようだが、武人と言われても納得できる。
リーヴはよく磨かれたセルガムのような白い歯を見せた。
「ん? もっと知りたいん?」
「はい。ぜひ」
「そやなぁ……」
リーブは自分の服を掴んでいたノエルの腕を掴んで優しく握った。
「――お嬢さんのことも、教えてもらえるんかな?」
ぶわ、と色気のある低音が鼓膜を揺らす。
一般的な娘であれば、優しさと雄々しさのギャップに魅了されただろう。
が、しかし、ノエルはいわゆる『一般的な娘』ではなかった。
(俺のこと? 素性は教えられないが……いや? 待てよ)
「おっ……ワタシのことは教えられませんが、もっと面白いことならお話できます」
「ふうん? どういうことやろ」
「えーと、山羊の乳を搾るときのコツとか」
「あんまり興味あらへんなぁ」
「じゃあボアの美味しい部位と臭み抜きの方法とか……」
「わりと興味深いなぁ、それは」
喉の奥で笑いながら、リーブはノエルの爪先を慈しむように触った。
指先で指先を軽く撫でられて、ノエルは不穏な空気を感じた。
(なんだこいつすげぇ触ってくるな。なんなんだ……あ! こいつ、もしや、俺を女と見てる!?)
もしかしなくても女である。
これでもゼカルドでは姫薔薇に喩えられた美少女なのである。
しかし、残念なことに、ノエル・ブリザーグは外側と中身が乖離した生き物であった。
5歳以降は両親と美貌の護衛に悪い虫がつかないよう目を光らせられ、15で国外に追放されてからは男装し、目つきの悪いもう一人の家臣にも守られた。スカートを着るようになってからも、そんな家臣の青年たちと剛腕の怪力少女に囲まれてワイワイ過ごしてきた。
単なる一人の男に、慕情の対象として見られ、そういうふうに扱われたことなど無い。
しかも、中身はおっさんなのだ。
周囲から見れば、旅先の美少女を口説く地元の青年という構図で、特段珍しくもない光景だ。が、ノエル本人にとっては、まさに青天の霹靂だった。
(ヤベーな……そうだ俺、令嬢だった。こいつ、すげぇ女慣れしてそうだな。しかも爪フェチなのか……え、爪!? 爪に興奮するってこと!? いろんなやつがいたけど爪って……マニアック過ぎないか。それはどうなんだ? 個性の範疇なのか? この世界の最近の若者ってどうなってんだ。ヤベェ、かなりの変態に出くわしてしまったかもしれない)
ノエルは慌てて手を引っ込めた。
「あ、の、こういうのは、ちょっと」
リーヴは、ん? と首を傾げた。
「ああ、急に触ってしもてごめんなあ。かんにんやで。爪が割れそうになってたから心配になってん」
「へ? あ、あぁ……そうか、それなら……」
確かに少しだけ爪先が欠けそうになっている。
言いくるめられる単純なノエルに、
「貴族のお嬢さんの手とは思えへんなぁ」
と言い、リーヴは背を向けてまた歩き出した。
しかし、ノエルはそれどころではなかった。
セルガムについての話が終わっていない。
「あのー……その、セルガムの話なんだけど、ここではどうやって熟成させてるんだ……ですか?」
「ん? あぁ……セルガムなぁ。まず、水につけて柔らかくするやろ。竈で蒸して……」
ノエルはごくりと生唾を飲み込んだ。
美少女の白雪のような喉が上下に動く。
ノエルは今までにない真剣さで、リーヴの語りに耳を澄ませた。
「そこに同じように蒸した豆を入れて、グレッド焼くときなんかに使う、黄色い粉ァ入れんねん。こっちではポフポフって名前で売られてる」
ノエルは『珠玉のポフポフ』と看板を出していた怪しい店を思い出した。
勝手に想像して何となく淫靡な響きを感じていたが、無事に全年齢が楽しめるものだったと判明した。
(黄色い粉……イースト菌みたいなもんか?)
眉間に皺を寄せて考え始めたノエルに、リーヴは言った。
「ポフポフを混ぜると熟成が進むんや。店によってはそこで塩を混ぜる。そうするとタレに香りがつく。壺に入れて長期間熟成させたら完成や」
「発酵させるってことか? それってもう」
醤油だ。
苦節十五年、ノエル・ブリザーグの中身が求めていたものが、今ここに具現化しようとしている。
ノエルはちょっと泣きそうになった。
リーヴは苦笑しながら首を傾げた。
「発酵? なんやそれ、聞いたことないわぁ」
この世界には発酵という概念がないのかもしれない。
ノエルは絶対にお土産に『タレ』を買って帰ろうと決めた。
「おんなじようにしてセルガムで酒もできるんやで。オリテのワインみたいな人気はないけど、俺は好きでな、趣味でそれを売って商売もしてんねん……どうしたん、立ち止まって……親のカタキでも見たような顔なってんで? 足痛いんか?」
「なんて、今……」
「足、痛いんか?」
「そうじゃない、セ、セルガムって……酒、セルガム、つくれ」
「あー、落ち着いてや。ノエルはほんまにセルガムが好きなんやなぁ。セルガム令嬢やん。知らんけど」
「酒……」
亡霊のようになってしまったノエルを見かねて、リーヴは言った。
「わかったわかった。そうや。セルガムで酒も造れる。でも苦いで」
「う……」
出逢ってしまった。
こんなところで醸造エールに邂逅すると思わなかった。
(早くてもあと五年くらいはかかると思ってたのに……! 念願がついに……)
「え、泣いてる? 喉が痛いん? ほんまに大丈夫か?」
「えっええ、大丈夫ですわ。来るときに砂漠の砂がちょっと目に入って」
「砂漠? ゼガルドから、わざわざオリテを回ってきたん?」
「そっ……うなんです」
「ほうか。ほな、途中は大変やったんちゃう? 砂漠の入り口にポイズンスライムが大量発生しとったやろ」
「……護衛の者の腕がたつので助かりました」
「それにしてもお嬢さん、美人さんやなあ。ゼガルドの男どもが羨ましいわ。あぁ、もしかして、俺みたいなんが気軽に話しかけたらあかん身分やったりするんか」
背の高い青髪を揺らせて、リーヴは心配そうにこちらを見やる。
ノエルは安心させるように微笑んだ。
「……いいえ。ただの……観光客ですから。親切にして頂いて、助かりました」
「ほなら、よかったわ」
「ところで、こちらの路地は近道なのですか? だんだん、細くて暗くなってきましたが」
「ああ、ここで行き止まりや」
「えっ?」
「自分、スパイやろ。まだ日が浅いんか? 素人さん丸出し。ばればれや」
男の瞳が妖しく揺らめく。
「乾燥地帯にポイズンスライムなんか沸かへんよ。湿地もないのに……ええかげんやなぁ。嘘はあかんで」
海の果てのような、底の見えない視線に射抜かれる。
(ヤベェ、ばれた!)
刑事だったときはこんなヘマはしなかったのに。
(うーん、平和ぼけか?)
どうにも調子が狂う。
男から距離をとって、ノエルは自分の肩を抱きながら後退りした。
まるで、捕食される側の動物になったかのようだ。




