ソフィのこと、忘れてない?
一方、ゼガルドの城では。
「紅薔薇の聖女ォ?」
ソフィは憤怒の表情で報告書を読んでいた。
報告書を持ってきた兵士はすぐに退室し、残されたのは最近入ったばかりのメイドのイルだけだった。
なんでも前の勤め先でメイドとして雇われたが、主人に手を出されたとかでクビになったらしい。
ソフィとしてはそのあたりの経歴はどうでもいい。
今まで部屋づきになったメイドはすぐに辞めてしまった。
けれど、このメイドはソフィがどれだけヒステリーを起こしても、物に当たっても辞めない。
それくらい経済的に追い詰められているのだろう。
だからこそソフィも心置きなく、わがままが言える。
「ちょっとぉ、これ、どういうことよ!」
手当たり次第にその辺りの物を壁に投げつける。
控えていたイルの足下にも何個かあたったけれど知ったことではない。
誰かに聴いて欲しい。
理解して欲しいというのは当然の心情だが、ソフィの場合は聴いて貰えて当然だと思っていた。
イルは進んでソフィの近くに寄り、
「どうなさったのですか」
と淡々と尋ねた。
「あのノエル・ブリザーグよ。殿下の元・婚約者! 礼儀をわきまえない女! のうのうとレヴィアスに入って、獣人共の支持を得ている。恥ずかしくないのかしら? 紅薔薇の聖女と呼ばれて、いい気になっているらしいわぁ……ほんと、ありえない。レヴィアスって獣人の女王にも取り入って、うまいことやっているらしいわ。ああ、忌々しい!」
ソフィは令嬢らしからぬ舌打ちをした。
「聖女は美しい金糸の髪の青年と、すらりとした黒髪の青年を連れ……ですって! どうやって媚びたのだか!」
不潔だ。
元の護衛は銀の髪だったはずだもの。
乗り換えたのね。
聖女なんて名ばかりに決まってる。
ソフィの胸中にはいらいらと負の感情がとぐろを巻いていった。
「あんなやつこそ、どうせ本性は雌猫みたいなのよ。少し魔力があるからって、王家や公爵家に優遇されて。あたし、ああいう苦労もしたことのなさそうな顔をした女が大っ嫌いなのだわ。きっと、ちやほやされて当然だと信じて生きてきたのでしょう? そんな女にこれ以上甘い汁を吸わせてやるもんですか。あんな女、よっぽど不幸になればいいのよ」
イルは黙って床に倒れた花瓶を片付け始めた。
「ねぇ、聴いてる?」
ソフィは乾いた布をもったイルの手を踏みつけた。
「あたしが話しかけたらすぐにこちらを見なさいよ」
「……失礼致しました」
「ふん。あー、つっまんない。とびっきりの奴隷を向かわせたのに殺されちゃったし。コボルトに食い荒らされて死体も残らないなんて、嫌な死に方よね。あたしだったら絶対に嫌だわ」
ソフィはソファに戻って、爪をかみ始めた。
そして、はっと気が付いたように顔をあげた。
「あら? でも、ちょっと待って。あの奴隷、黒髪だったわね。さっきの兵士を呼び戻して頂戴」
イルは黙って礼をすると、すぐに廊下に出た。
ソフィは思い出した。
あの奴隷、モルファだかモルフェだとかいったけれど、あれも確か黒い髪をしていた。
金髪はよく分からないけれど、まさか黒髪というのは――。
確かめる必要がある。
ソフィはがじりと人差し指の爪を噛みきった。
「お呼びですか、ソフィ様」
と、先ほどの兵士が入ってきた。
「ええ。貴方が持ってきた報告書には、ノエルの傍に金髪の男と黒髪の男がいると書いてあったわね?」
「はい、そうです。ソフィ様」
「その黒い髪の男は、髪に癖があった?」
「ええ、ありました」
「鋭い眼光で、目は……緑のような」
「色までは分かりませんが、切れ長の野生的な風貌でした」
ソフィは顎に手をあてて、考えた。
そして、決定的な質問をした。
「その男は、両腕にびっしりと入れ墨があった?」
「いいえ。ありませんでした。ソフィ様」
「……なかった?」
「はい」
「ちょっと、隠し立てすると貴方のためにならないわよ」
「いえ! 隠しているわけでは決してありません。私はそのノエル・ブリザーグの護衛の男が上半身裸でいるところを目撃しましたが、腕どころか指一本も入れ墨などありませんでした。綺麗なものでしたよ。何度も見たので間違いありません」
「……そう。じゃあ人違いね。下がって良いわ」
「失礼いたします」
兵士は顔色も変えずに退室した。
奴隷の入れ墨は生涯消えることはない。
焼きごての跡と同じようなもので、皮膚が焼けただれたりしない限りはずっと残るのだ。
「まあいいわ。あの忌々しい女は消えた。ド田舎のレヴィアスで何ができるもんですか。せいぜい獣と田舎者たちに傅かれていい気になっているといいわ。私と殿下の婚姻はもう少し……後少しなのだから」
第二王子のエリックは運命の相手だった。
婚約者に飽きていたエリックは、王族の血が欲しかったソフィには最高の獲物だった。
美人美人と褒めそやされていたノエル・ブリザーグも、エリックにとっては魅力が無かったのだ。
そんな伯爵令嬢を捨てて、自分に乗り換える王子を見ているのは最高に気分が良かった。
あの伯爵令嬢に魅力が無いから悪いのだ。
魅力は身分でなく実力だ。
あの女にはなく、自分にはある!
男爵に拾われるまで平民だったソフィは、酒浸りの母親に殴られながら育った。踊り子だった母親がのたれ死んでからは、靴を磨いたり酒瓶を拾ったりしながら日銭を稼いだ。
男爵に引き取られてから、貴族の屋敷はこんなにも別世界なのだとソフィは驚いた。
平民たちは、地獄のような日常を過ごしているのに、ここでは一日中部屋から出なくてもグレッドが皿に置かれる。
路地裏で一日働いても野菜屑しか食べられない子どもたちがいるのに、ここではふわふわのグレッドが次から次へと出てくる。
ソフィは大きな瞳を歪めて、静かにひっそりと笑った。
あと10日もすればエリックとの婚姻が決定する。
エリックがソフィにそう言ったのだ。
父も母も説得するから信じて待ってくれと。
ようやく自分が『王族』になる。
それはソフィに付与される権限が増えることを意味していた。
当然だ。
だってあたしは、魅力的な女の子なんだから……。
その時、部屋のドアがノックされた。
先ほどの兵士だろうか。
「なぁに、どうしたの」
ソファに身を横たえながら言ったソフィの顔に影がかかった。
見上げると、屈強なゼガルドの城の騎士たちがソフィを囲んでいた。
「これは何?」
騎士は言った。
「あなたを逮捕する、ソフィー・ゴーネッシュ」
「え? どういうこと?」
「南の森に無断で立ち入り、禁忌魔法を使って、封印されていたジャバウォックの鎖を切った罪だ。牢獄に収監する」
「あたしそんなことやってないわ」
「御託はいい。さあ、立って」
「何よ、冗談でしょ。ちょっと、無礼よ! やめて!」
背の高い一人の騎士が合図をすると、他の周りの騎士たちがソフィの腕をひねりあげた。
イルは驚いてソフィを見ている。
だが、止めようとはしなかった。
「何なのよ! ちょっと、エリック様を呼んで、イル」
「無駄だ。お前はこの機に及んでまだそんなことを言うのか」
騎士はソフィーに告げた。
「もう諦めろ。お前の罪をあらいざらい白状したのは、エリック様だ」
「は?」
「赤い石のついたロザリオが落ちていた。あれは王族の男児にしか与えられない物だ。エリック様から奪ったのだな」
「あれは、エリック様があたしにくれたのよ!」
「自白したな、女狐め。引っ立てよ」
「ちょっと! やめて! やめてよ!」
イルはしばらくそれを見ていたが、くるりと踵を返して城の出口へ向かった。
「なるほどね……」




