五体投地は禁止
五日前のことだった。オアシスの畑の前で、胸いっぱい空気を吸い込んだノエルは歓喜した。
よく育っている。
オランジュの果樹の隣には、ツヤツヤした果皮のレモンやら葡萄やらが生っている。
カボチャやらナスやらの野菜の花も見える。栽培は順調だ。二百人くらいなら、食べるのには困らない規模の畑になった。
その隣には、セルガムという植物の畑がさわさわと風に揺れていた。とうもろこしのような見た目だが、粒がついており、使い方は小麦に近い。
ノエルは、紅色の意志の強い瞳でセルガム畑を見渡した。
(麦に近い植物。ってことはだ……近付いている……! 俺の! 念願のあの! 究極の飲料物が作れるということじゃないのか? ゼガルドを離れたとき、オリテを抜けたとき、一度は諦めた夢が……近付いてきている)
つまりは、美味い麦酒への欲望を捨てきれていないというだけのことだ。
フローラの力は偉大だった。
小麦など栽培は不可能だと思って諦めていたノエルは、セルガム畑に希望を見いだしていた。
黒龍との戦いの前、村長のトゥレグが枯れかけてひょろりとした苗木を手にして、
「これがマールの村の主食だ。セルガムという」と言ったとき、ノエルは半信半疑だった。
主食といえば前世は米、こちらではグレッド――いわゆる小麦で作ったパンだ――を想像していたのだ。
いきなりこのような鳥の餌みたいなものを渡されても困る。
「はあ……このちっさい粒を食べるのか?」
いぶかしげなノエルに、トゥレグは言った。
「白いのや黒いのや赤いの、いろんな色があるが……これを粉にすると、西で食べているグレッドのようなものになる。私たちはパラティと呼んでいるが……まあ似たようなものだ」
「ふーん。セルガムは砂漠でも育つんだな」
「ああ。強靭で丈夫だ。逞しい植物だよ」
と、言っていたのを貰ってオアシスの近くに植えたところ、ぐんぐんと成長した。
三日でノエルの背丈を超えたときは驚いた。
少しでも水のある場所ではセルガムは驚くくらいよく育った。心なしか葉や実もつやつやとしだして、生の実さえ美味しそうに育った。
(これはいけるんじゃないか!?)
とふんだノエルは、魔法・フローラをかけ、その結果。
あっというまにセルガム畑ができたのだった。
さて、そのセルガムで作ったパラティである。
ケーキのような丸い形のパラティが、ほんわかした湯気をまとって、朝ご飯を食べるノエルの前に登場してきた。こんがりふんわり、茶色い生地がノエルの食欲を煽る。焼き立ての香りに反射的に唾を飲み込んだ。
レインハルトもセルガムの実を、オリテで食べていた小麦のようなものだと理解したらしい。トゥレグに伝統料理の本を貰い、研究した結果、しっかりと主食らしきパラティを完成させていた。
(うんまい~……)
豆料理に正直飽き始めていたノエルは、がっしりとレインハルトに胃袋を捕まれていた。
温かいパラティは、さっくりしたケーキのような食感で大変美味しい。
甘くないので、砂糖のないパンケーキのようだ。
ふんわりした香りが食欲をそそる。
採れたてのゆで卵を添えてかぶりつくとたまらない。
城のホールに一時避難していた獣人たちに、炊き出しのようにして出した、大きなパラティも大好評だった。
「うまい!」「あたしが知ってるパラティと違う!」「いくら食べてもいいのか!? 天国だ」「香ばしい! 木の実が入ってるのもあるっ」「ルーナちゃんに手渡して欲しい!」「サクサクするわッ」
などと様々な感想が飛び交っていたのを思いだし、ノエルはほくそ笑んだ。
(あとは牛でも育てるか……いや、牧草がもったいないな……もっと小さな……うん……山羊とか?)
ノエルが脳内で計画を練っていると、上品にパラティを切り分けたレインハルトが言った。
「大広間の獣人は今日で全員移動します、ノエル様」
「雑魚寝も潮時だったしちょうどよかったな。住宅が間に合って良かったよ。女性の方はどうだ?」
もぐもぐと豆のスープを食べていたルーナが答える。
「中ホールの女性の獣人たちは初日でほとんど移動しましたからね。もうホールの清掃まで終わってますよぉ」
「おお、すごいな。順調じゃないか」
「みんな、あたしたちが準備したおうち、気に入ってくれてました」
レインハルトが口を挟んだ。
「当然だ。流行と実益を兼ねた渾身のデザインだぞ」
確かに、モルフェも茶々の入れようがないくらい、流麗な外観に仕上がっていた。
村人たちの住宅地は、ノエルが最初に取りかかっていた仕事だった。
モルフェとルーナが西に向かいだした時、残ったノエルは更地になった村のあちこちに、建物を造っていた。
木を切り、石を積む技術は無いノエルだったが、魔力だけはごっそりと持っていた。
『とりあえず……外枠だけなら想像できる気がする!』
というノエルは『ハウス!?』と疑問系で詠唱した。
想像が固まっていなかったのだろう。
結果、丸みを帯びた白く縦長の大きな何かと言わざるをえない、謎の建築物ができてしまった。
それを見てレインハルトはいくつか注文を出した。屋根、窓、そして壁の詳細を伝えてノエルのイメージを固めた。そのおかげでなんとか、町中に小便器をモチーフにした謎の建物が乱立せずに済むようになったのであった。
「さて! 今日もみんな、よろしくな」
「はい」
「おう」
「がんばりますっ」
ノエルの声で全員が散会する。
今や四人はそれぞれが獣人たちを率いるリーダーになっていた。
モルフェは建設現場で指示をしていた。
口は悪いが面倒見の良さを発揮して、若い獣人たちを使っているらしい。
レインハルトは山羊の獣人を従えてオアシスを整備し、畑を作っている。
畜産も手を出したいと言っていたノエルのために柵を作っているようだ。
ルーナは怪力を存分に発揮して、道の整備をしている。
西までの道に点在させたオアシスに道を繋げるのだ。
ノエルは外に出てぷらぷらと市街地を歩く。
煉瓦職人やら狩人やら、様々な職種の獣人がいる。
ひとりひとりに声をかけてまわる。
実際に商売ができるようになるのはもっと先だろうが、もう少し準備が整えば、しっかりと整備した街にできそうだ。
(貿易……人々がたくさんマールに来ることができるようなルートの整備と……特産品があればいいな……うーん……ここにたくさんあるものか。砂……はどこにだってあるしなぁ)
と、思いながら歩いていると、長身の青年を見つけた。
「あっ! アーロンさん」
「ノエル様!」
ノエルの姿を見たアーロンが目を輝かせた。
「おはよ……元気だったか、って、やめ、ちょ、いきなり五体投地しないでくれ……! 路上だから……みんな見てるから……」
「しかしっ! 聖女・ノエル様にお会いできた幸運を体で表現しなければ」
残念なイケメンの獣人を前に、ノエルは苦笑した。
聖女扱いされるのはこそばゆいし、筋骨隆々とした騎士団員たちがこの副団長の奇行を真似するようになっても困る。
「しかしじゃないよ……ほら、立ってくれ。もう」
アーロンも眉目秀麗な狼耳の武人なのに、ノエルに対する態度だけが残念だ。どうやら、山の上でひざまずいた瞬間から、ノエルを聖女だと認識しているらしい。
「う……我らに、このような待遇……今でも夢のようで」
「夢じゃないし、まだまだ途中だぞ。一緒にここを、もっとすごい場所にしような」
ノエルが微笑んでのぞきこむと、アーロンは
「ふぐっ……」
と声を出して天を仰ぐ。
尊い、と呟いているのはまあいいが、しみじみと泣くのは止めて欲しい。
「えーと……俺はもう行くけど……今日もがんばろうな」
「御意! 我が命に代えても!」
「いのちだいじにな」
ノエルはてくてくと道を歩き、例のオアシスへ向かった。
ぐおんぐおん……と不思議な地鳴りのような音がする。
「おぉーッす! 元気かっ」
とノエルが話しかけると、水の底から大きな影が出現した。
ザパッと顔を出したのは、巨大な水生生物だ。
何をかくそう、以前ノエルが出現させた、あのカワウソたちである。
キュイッと可愛らしく鳴いていた姿の面影はもうほとんど無い。
ジャバウォックの肉を食べたカワウソたちは、巨大化し、凶悪な見た目に進化を遂げていた。が、ノエルを自分たちの長だと認識している心根は変わっていないらしい。
「グウウウウ……」
大地が震えるような低音で鳴きながら、ノエルの手に鼻先をすり寄せてくる。
「あのさぁ、おまえたちって餌とかどうしてるの? 大丈夫か? 足りてる?」
「グウ……」
その時、ノエルの後ろから、声がした。




