結婚初夜から放置された花嫁ですが、夫は夜な夜などこかに出かけている模様です
フレイアは、タリアン王国の王女だ。
王女といっても、王妃の子ではない。国王が結婚前に侍女に産ませた、婚外子だ。
もしフレイアが男児として生まれていたら、継承権問題回避のためにひっそりと暗殺されていたかもしれない。だが「女児ならば、いくらでも使いようがある」ということで生かされ、母子はタリアン王国の田舎で暮らすことになった。
そしてフレイアが十八歳のある日、住んでいる屋敷に大勢の兵士が押しかけて、「国王陛下がお呼びです」とフレイアを王宮に連れて行った。
そこで彼女は初めて、タリアン王国が隣国から戦争を仕掛けられたこと、苦戦を強いられたが南の草原一帯を治める部族の手助けにより敵国軍を追い返したこと、国王は部族との友好の証しとして王女を嫁がせると決めたこと、などを知った。
現国王には、王妃が産んだ王女が複数人いた。だが王妃は「いくら恩があるとはいえ、野蛮な部族のもとに娘を嫁がせるなんて」と嫌がり、王女たちも「そんなところに嫁ぐくらいなら、死を選ぶ」とつっぱねた。そういうこともあり、フレイアならば文句を言わないだろうと選ばれた。
フレイアには、拒否権はない。拒否するという選択肢がないのはもちろん、ここでフレイアが従順に従えば母も罰を与えられずに済む。
母は、国王のお手つきになることを望んでいなかった。好きでもない男との子を産まされたのにその娘を愛情深く育て……そして今は密かに、屋敷の護衛と愛を育んでいる。
誰からも認められない、気づかれるわけにはいかない愛ではあるが、これまで苦労してきた母がやっと愛する人と一緒にいる時間を得られている。それを、フレイアの我が儘で壊すわけにはいかない。
だからフレイアは文句を言わずに命令を受け入れ、翌日には友好の証しとしてルタ族の集落へと嫁いでいったのだった。
(はー、すごい! 見渡すばかり、草だらけ!)
タリアン王国王都からルタ族の集落まで、約半月。
やっとのことで到着した草原地帯を前に、馬車に乗ったフレイアはいたく感動していた。
異母姉妹たちが断固として行きたがらなかった場所だが、生まれて十八年間ずっと田舎で暮らしてきたフレイアにとって、この草ぼうぼうの地域はむしろ懐かしささえ感じられた。
「では、我々はここで」
馬車から降りると、ここまでフレイアを連れてきてくれた馬車や護衛たちはすぐに帰ってしまった。フレイアは友好の証しとして嫁ぐので、他のタリアン王国の者が居座れば「我々のことを信頼していないのか」と疑われかねないからだ。
(まあ、私にとってもこっちの方が都合がいいけれどね)
一緒に来た護衛や使用人たちは、王妃の子でないフレイアのことをゴミ虫でも見るような目で睨んできていた。あんな連中とおさらばできるのだから、フレイアとしては嬉しいくらいだ。
ルタ族は、ここら一帯の草原を治めてはいるがあくまでも集団であり、国ではない。
タリアン王国王都のような華やかな文化が栄えているわけでも、文明が発達しているわけでもない。むしろ時代遅れとすら言えるだろう生活を送る彼らだが、戦闘能力がすさまじく高くその力で民たちを守っているそうだ。
(先の戦争でも、あのままタリアンが潰されたら草原地帯にまで火の粉が飛んでくるだろうから、仕方なくタリアン王国に手を貸した……ということらしいね)
つまり、ルタ族にとっても利益があるからこそ親しくもないタリアン王国の防衛に力を貸し、これからも友好関係を結ぶことにした。フレイアは、タリアン王国がルタ族に対する謝礼の意味もあり、この部族一番の戦士のもとに嫁ぐことになった。
(ええと。私の夫の名前は、シェン……だったっけ?)
到着した日の、夜。
結婚式、というにはあまりにも質素な食事会をしたのだが、その場に花婿はいなかった。どうやら彼は朝からずっと部屋にこもっており、夜になったらフレイアのもとに来てくれるそうだ。
タリアン王国とは全く違う、ぶ厚い革で作ったテントのような場所で食事をして、その後は煉瓦造りの建物に連れて行かれた。ルタ族は元々遊牧民で、今では定住するようになったがそれでも住居のほとんどはテントで、一部の偉い者のみ煉瓦造りの建物で暮らすそうだ。
ルタ族の者は野蛮でがさつで野獣のような見た目だと異母姉妹たちはフレイアを嘲笑しながら言っていたが、なんということはない。フレイアよりも少しだけ肌の色が濃くて目や髪の色も黒や茶色が多いというくらいで、オレンジ色の髪に青色の目を持つフレイアと同じ、人間だ。
言葉には少し訛りはあるがきちんと会話はできるし、嬉しいときには笑い、困ったときには眉根を寄せる。提供された食べ物も少し濃いめの味付けだったが、どれもとてもおいしかった。タリアン王国からやってきた花嫁を、心からもてなそうという気持ちが伝わってきた。
そうして煉瓦の屋敷に移動して貴重な水をたっぷり使った湯を浴び、肌触りのよい寝間着を纏ってシェンと合流するはずの寝室に通され、待つことしばらく。
バン、と遠慮なくドアが開かれ、手持ち無沙汰で髪の毛をくるくると指に巻き付けていたフレイアはぎょっとした。
寝室の入り口に、身長の高い男性が立っていた。硬質な髪はルタ族に多い焦げ茶色で、目は細い。全体的にあっさりした顔立ちなのがルタ族の特徴で、さっぱりとした印象がある。
青年は持っていたカンテラを近くのテーブルに置き、ベッドに座るフレイアのもとに来た。ふわり、と漂うのは、草木のような青やかな香り。
「……おまえが、フレイアか?」
「はい。タリアン王国より参りました、フレイアでございます」
フレイアがタリアン風のお辞儀をすると、青年は少し目を細めて腕を組んだ。
「……俺が、おまえの夫のシェンだ。おまえは、タリアン王国が送ってきた花嫁だ。あちらの不興を買うと面倒なことになるから、最低限の面倒は見る」
「ありがとうございます」
「……では、今日はもう寝ろ」
「えっ、シェン様は一緒ではないのですか?」
思わず尋ねた。
田舎育ちのフレイアだが、恋愛や結婚のあれこれに疎いわけではない。母からそれなりのことは聞いていたし、王城に連れて行かれた後で「無知ゆえに返品されても困るから」ということで、侍女たちから閨に関するあれこれを教わっていた。
侍女たちは、「あなたは友好の証しとして嫁ぐのですから、旦那様のご命令に必ず従い、閨でも従順であればよいのです」と言ってきた。だからフレイアとしては、このシェンという夫に従うしかない、と思っているのだ。
だがシェンはぎょっとしたように目を丸くして、咳き込んだ。
「……いきなり共寝なんてできるわけないだろう」
「はぁ……でも私たち、結婚したのですよ? あ、でもその場にあなたはいなかったですけど」
「そ、それは、俺にも事情があったからだ。……とにかく! おまえはもう寝ていろ!」
「はぁ……分かりました。でも、シェン様もちゃんと寝てくださいね?」
「……シェンでいい」
シェンはぶっきらぼうに言うと、カンテラを持って部屋を出て行ってしまった。
残されたフレイアは、うーむ、と唸る。
(あんまり愛想のいい人じゃないわね。でも、異母姉妹たちが言っていたほど乱暴な印象もなかったし……いきなり結婚することになって、戸惑っているのかも?)
我ながら図太い自覚のあるフレイアでさえ、正直今はちょっとだけどきどきしていたのだから、シェンも緊張して仕方がないだろう。
(……これから仲良くなっていけたらいいかな)
そんなことを考えながら、フレイアはベッドに寝転がった。
シーツからは、ほんのりとハーブのような香りがした。
かくしてルタ族の戦士・シェンの妻となったフレイアだが、特にこれといってするべきことはない。
田舎の屋敷ではお姫様としてそれなりに大切に育てられたフレイアだが、子どもの頃から野山を駆けまわったりいたずらをしたりして、なかなかおてんばだった。重労働はともかく簡単な調理や裁縫などはできるし、汚い場所の掃除だって仕事ならばきちんとできる。
だがルタ族の者たちは「フレイア様にそんなことはさせられません」とフレイアが家事をすることを却下し、「お部屋でお過ごしください」と言うばかり。
そして新婚だというのに、シェンはほとんどフレイアのもとに来なかった。ルタ族でも随一の戦士というシェンが多忙なのは、仕方がない。彼は毎日馬を駆って部族の領地を回り、治安維持に努めているそうだ。
それに今ではルタ族は、タリアン王国の防衛に協力する立場だ。シェンもたびたびタリアン王国の国境付近まで行かなくてはならないという。
(ま、忙しいのなら仕方がないよね)
シェンと少しずつでも仲良くなりたいと思っているが、多忙な夫に我が儘を言うわけにはいかない。
そういうことで、部屋で「繕い物くらいなら……」となんとか許可をもらえた裁縫をしつつ、夫が帰ってくるのを待っていたフレイアだった。
ある日、シェンが珍しくこの煉瓦の屋敷で寝ることになった。
(いつもどこか外で寝ているらしいから、たまにはゆっくりしてもらいたいな)
うきうきしながらシェンの部屋に行くフレイアの手には、手巾があった。これはルタ族の女性から教えてもらった縫製で、「妻から夫への贈り物に最適です」ということでせっせと作ったものだ。
かなり複雑な形ではあるが、ルタ族に伝わる文様を丁寧に刺繍している。外仕事が多いシェンだから、手巾ならきっと受け取ってくれるはずだ。
「この部屋だっけ? ……あれ、花……?」
シェンの部屋はドアが少し開いていたので、入らせてもらった。そうして一番に目に付いたのは、テーブルの上に散らばる花たちだった。
(これって、薔薇……? この辺りには咲かないって聞いたけれど……)
深紅の薔薇たちは棘がきれいに処理されていて、贈り物にぴったりだ。
……そこまで考えて、はた、とフレイアは動きを止めた。
ルタ族の地域では珍しそうな、薔薇。棘の処理もきちんとされたそれらが、シェンの部屋のテーブルにある……。
(こ、これは、もしかしなくても……私への贈り物、だったり?)
見てはいけないものを見てしまった気がして、慌ててフレイアは部屋を出た。
……タリアン王国では、赤い薔薇は妻や恋人に送るのに最適とされている。フレイアも、母の恋人が母に赤い薔薇を密かに贈っているのを見たことがある。
この辺りの草原地帯に薔薇が咲くとは思えない。だとすればこれらは、シェンがわざわざ取り寄せたもの。
(わ、わー! き、期待していいのかな? いいのかな?)
もし赤い薔薇を贈ってくれたら、とても嬉しい。フレイアだって、好きな人に赤い薔薇を贈られたい、という願望はあるのだから。
そういうことで、フレイアは一人でキャッキャとはしゃぎながら部屋に戻った。
だがその日の夜、シェンは帰宅した際にちらっとだけフレイアの顔を見て「……戻った」と挨拶をしてすぐに部屋に上がってしまった。
そしてその後も、赤い薔薇がフレイアのもとに届くことはなかった。
結婚してから、早くも二ヶ月が経った。
「おはようございます、フレイア様。今日もお外へ?」
「おはよう。今日はロミアさんのところで刺繍を教えてもらうのよ」
「かしこまりました。お気を付けていってらっしゃいませ」
フレイアに声を掛けた使用人が笑顔で言ったので、フレイアも微笑みを返した。
嫁いだばかりの頃はフレイアも部族の者たちもお互い遠慮しつつ気を遣いつつだったが、二ヶ月も経った今はわりと気さくに話ができるようになった。また皆もフレイアを部屋に押し込めたりせず、やりたいようにやらせてくれるようになった。
煉瓦の屋敷を出ると、草原の風がふわりとフレイアの髪をくすぐった。
南部草原地帯の夏は、からっとして過ごしやすい。使用人たちは「フレイア様の白いお肌が焼けてはなりません」と厳しく言って上着の着用を命じるが、それ以外はわりと好きにさせてくれた。
(ただ、シェンとはまったくね)
すれ違った部族の者たちと挨拶を交わしつつ、フレイアが思うのは夫のこと。
部族の者たちとは関わりを持てている一方、夫のシェンとはろくに顔を合わせられない。
いつぞやの赤い薔薇も結局フレイアのもとには届かなかったし、それ以降もシェンはあまり屋敷に帰ってこず、帰ってきたとしてもフレイアと最低限の会話だけしてさっさと自分の部屋に上がってしまった。
彼に会えたら渡そう、と思っていた手巾や靴下、帯などはもう箱いっぱいになっている。渡すだけではあるのだが忙しそうな彼を呼び止めるのは忍びなかったし……なんとなく、笑顔で受け取ってもらえるような気がしなかった。
(最近は、夜中にどこかに出かけているみたいだし……)
半月ほど前、夜に彼の部屋の前を通った際に何やらバタバタと音がした。思わずドアをノックして安否を尋ねると、彼は「何でもないから、寝ていてくれ」と焦ったように言っていた。
……そうしてその次の日から、夜な夜などこかに出て行くようになった。
(……まさかのまさかだけど、よそに女性がいる……とか……?)
その可能性もゼロではない……どころか、悲しいかな、十分あり得てしまう。
そもそもこの結婚もシェンが望んだわけではなく、タリアン王国とルタ族の友好のためで、部族長からの頼みをシェンが受け入れたという。見るからに硬派で真面目そうな彼だが、フレイアとの結婚が決まる前には想う女性がおり、今でもその女性のことが忘れられない……という可能性もある。
(でも、タリアンとルタ族の友好はどちらかというとルタ族の方が優勢なのだから、シェンが浮気をしてもタリアン王国からは強く言えそうにないし……国王も、「浮気をされるおまえが悪い」とか言いそうだし……)
つまり、もしシェンが浮気をしたとしてもフレイアには彼を諌める力はないし、故郷に訴えてもほとんど意味がないのだ。国王もそうなる可能性を考慮した上で、婚外子であるフレイアを指名したのではないか。
(いやいや、でも浮気の現場を見たわけじゃないのだから、疑うのはよくない!)
ぶんぶんと首を振って、フレイアは本日の目的地であるロミアの家に向かう。
ロミアは族長の妹を祖母に持っており、美しくて利発な女性だ。年齢はフレイアより一つ上の十九歳で、部族の男たちの中での人気も一番だという。
そんな彼女は裁縫が得意で、フレイアは彼女からルタ族に伝わる文様や縫製を教わっていた。
「こんにちは、ロミア」
「まあ、いらっしゃい、フレイア! さあ、どうぞ入って」
ロミアが暮らすテントのベルを鳴らすと、すぐにロミアが開けてくれた。さらさらの茶色の髪に目尻の垂れた黒色の目を持つロミアは、とてつもなく色っぽい。フレイアは豊満な母に似ずつるぺたな体つきなので、ロミアの出るところは出て引っ込むべきところは引っ込んだ体型がうらやましかった。
ロミアは戦で父を亡くしており、母と二人でこのテントで暮している。そのためか内装もおしゃれで、あちこちに彼女が作った作品が飾られている。
(……ん?)
「今日はね、五十年くらい前に流行った文様を教えるわ。ちょっとややこしいのだけれど、フレイアならきっと大丈夫よ」
「……」
クッションに座って楽しそうに話すロミアの声が、耳を素通りしていく。
なぜなら……フレイアの目線の先にある棚の上に、深紅の薔薇の花が飾られていたからだった。
ルタ族の地域には、薔薇は咲かない。
シェンはわざわざ、タリアン王国から深紅の薔薇を取り寄せた。
そして……その薔薇は、ロミアの家に飾られていた。
(ロミアに聞くに聞けなかった……)
その日、せっかく教えてもらった文様のほとんどが覚えられず、フレイアは重い気持ちで屋敷に戻った。
愛情を示す赤い薔薇が、ロミアの家にあった。そもそもルタ族では家に花を飾るという習慣はあまりないそうだから、偶然ロミアが薔薇を買って飾ったとは思えない。
あれは……シェンが贈ったものではないか。
(まさか、だけど……シェンがたまに夜に出かけているのも、ロミアのところだったり……?)
ベッドに腰掛けたフレイアは、ぎゅっと拳を固めた。
脳天気で図太いフレイアでも、さすがにこの事態はうまく昇華できそうにない。シェンが浮気をしたとしても仕方がない……とは思っていたけれど、その相手がロミアなのではと思うと喉の奥が苦しくなってくる。
ロミアのことは、好きだ。優しくて大人っぽくて親切なロミアがいてくれたから、フレイアは毎日楽しく過ごせていると言っても過言ではない。
だからこそ、そんなロミアだからこそ、彼女がシェンの浮気相手なのではないかと思うと、一層悲しかった。むしろ他の全く知らない女性だったら、ここまで苦しまなかったかもしれない。
ロミアはシェンと浮気しながら、笑顔でフレイアを迎え入れていたのだろうか。彼女にはシェンの話をしたこともあるのだが、自分がシェンと浮気していながら彼女は「シェンとうまくいくといいわね」と言っていたのだろうか――
「……だぁーーーーーーーーーっ!」
フレイアは絶叫を上げて立ち上がった。
(こうなったら、シェンに直接聞こう!)
フレイアは一人で枕を涙で濡らすたちではなくて、オラオラとぶつかっていく女性だった。
「おかえりなさい、シェン。ちょっと時間いいかしら」
「……もう遅い時間だろう」
今夜も案の定、シェンはどこかをぶらぶらして夜遅くに帰ってきた。
フレイアは玄関に居座り、こっそりと帰ってきた彼を出迎えた。シェンは玄関で座り込んでいたフレイアを見て明らかにびくっとしており、これは怪しいな……と思うと悲しくなってしまった。
「今がいいの。……リビングで話す? それとも、あなたの部屋?」
「……リビングで」
フレイアの押しに負けたのか、シェンは諦めたように言った。
(……今日も、部屋に薔薇の花があったっけ。やっぱり部屋には通したくないのかな……)
もう使用人たちも寝静まっているためリビングには明かりもないので、フレイアがカンテラに火を付けようとしたらシェンに止められた。
「俺がやる」
「大丈夫よ。私もここ数ヶ月で、火を付けられるようになったから」
「万が一があってはならないだろう」
(……万が一にも私がうっかり屋敷に放火したらいけないから、ってことかな?)
そこまでドジではないのだが、シェンに信頼されていないということなのだろう。
フレイアがおとなしくクッションに座っていると、シェンは手際よくカンテラに火を付けてそれをローテーブルに置いた。
「……それで? 話とは何だ?」
「浮気していますか?」
「うわ……?」
そのものズバリフレイアが問うと、正面のクッションに座ろうとした格好のままシェンは固まった。元々細めの目が糸のように細くなり、彼はゆっくり首をかしげた。
「……確認するが。おまえの言う浮気とは、その、つまり、俺がよそに女性を囲っているという認識で合っているか?」
「合っているわ」
「……むしろなぜ、そんなことを思った?」
質問を質問で返されるのは、癪だ。だがシェンの態度からして、図星だったので戸惑っているというよりは、思ってもいない言葉を藪から棒に発されて混乱しているように思われた。
「それは……。……結婚して二ヶ月も経つのに、一度も一緒に寝てくれないどころか、ほとんど顔を合わせてくれないし」
「……」
「それから、ええと……ごめん。あなたの部屋に赤い薔薇があるの、知ってるの」
「見たのか!?」
シェンは驚いた声を上げるが、それほどまで見られたくないのなら部屋の鍵を掛ければいいのではないか。
「う、うん、ごめん。あの、あなたは知っているのかどうか分からないけれど、私の故郷のタリアン王国では、赤い薔薇には特別な意味があって……。でも今日、それがロミアの家にあったから……」
「ロミア? ロミアってのは、ジグラばあさんの孫だったか?」
なぜここでロミアの名前が出てくるのだ、とばかりにシェンは眉根を寄せて言った。
ジグラばあさんとは、ロミアの祖母の名前だ。
「うん、そう。だから私……」
「……もしかして、ロミアの家にある薔薇は俺が贈ったと思っているのか?」
「え、違うの? 私、草原に薔薇が咲いているところなんて見たことないから」
「……。……いや、確かにその薔薇は、俺が贈ったものだろう。だが、俺があれを渡したのはロミアじゃなくて、ジグラばあさんの方だ」
「……。……おばあさんと浮気していたの?」
「違うっ!」
全力で否定したシェンはうつむいて、はあーっと大きなため息をついた。
「……格好悪いことをしたくなかったから、秘密にしていたのに……こんなこじれるくらいなら、もっと早くに言っておけばよかった」
「……何のこと?」
「……すまない、フレイア。おまえが勘違いしたのも全て、俺がふがいないせいだ」
顔を上げたシェンは、悔しそうに唇をかんだ。彼のこんな表情を、フレイアは初めて見た。
「本当は、おまえが来るまでにどれも完璧に仕上げるつもりだったんだ。だが、どうにも時間がなくて……練習のために取り寄せた薔薇はもったいないから、ばあさんたちに配ったんだ」
「……あの、練習とか、仕上げるとか……何のこと?」
シェンの話の意味が分からなくなってフレイアが問うと、シェンも不思議そうな顔で瞬きした。
「何、って……タリアン王国のやり方を踏襲しようと思ったんだ。タリアン人の妻を迎えるのならば、タリアンで伝わっているやり方で求愛をするべきだろう」
「……求愛?」
「夫婦が初めての夜で枕を交わす前に、夫は薔薇の花を口にくわえて剣舞をするのだろう」
「……」
フレイアは、ゆっくり瞬きをした。
(……何それ?)
「それから、妻を口説くときにはステップを刻みながら詩を朗読するそうだな。だが俺はあいにく剣舞もタリアン風のステップも分からないから、練習するしかなく……そうしていると、時間ばかりが過ぎていって……」
「……ちょっと、待って」
ぴっ、と手のひらをシェンの方に向けて、フレイアは頭の中を落ち着かせるために深呼吸する。
「……初夜で剣舞をするのも詩を朗読しながらステップを踏むのも、聞いたことがないわ」
「……は? だがタリアン王国の男性は皆、そういうアプローチをするのだと教わって……」
「それはないわ」
どこの誰が結婚初夜に薔薇の花をくわえて剣舞をし、口説くたびにステップを刻むというのか。
(……待って。それじゃあもしかして、これまでのシェンの行動は――)
「……シェンが夜中にバタバタしていたのは?」
「ああ、あれか。ステップの練習をしようとしていたが、何度も転んだ」
「夜な夜などこかに出かけていたのは?」
「ばれていたか。……剣舞の練習には、広い場所が必要だ。だから、空いているテントを使っていた」
「薔薇の花をたくさん取り寄せたのは?」
「剣舞の練習の際に使った。使い終わったものはもったいないから、ばあさんたちに配っていた。……配りすぎたから、ばあさんも孫に分けたのかもしれない」
「……」
疑問点、全て解消である。
「なんでそれを私に言ってくれなかったの!?」
「中途半端な状態のものを見せるわけにはいかないだろう! それに、この剣舞やステップの出来で妻が夫に惚れるかどうかが決まると聞いていて……中途半端なものを見せたら、おまえが怒って国に帰ってしまうと思って……」
一体どこの誰からそんなガセネタを仕入れたのかは分からないが、彼はタリアン王国からやってくるフレイアのために、彼女を喜ばせるために、一生懸命準備してくれていたのだ。
ぶっきらぼうで愛想がない人に思われるが、彼は多忙な中でもフレイアのために行動してくれていた。いざ剣舞を見せるとき、口説くときに呆れられたり怒らせたりしないように、一生懸命――
「……あの、シェン。あなたが心を砕いてくれたことはよく分かったし、あなたが浮気をしていたわけじゃないことも分かった。でも……薔薇をくわえて剣舞とかステップを踏みながら口説くとか、そんなしきたりは存在しないわ」
「……そ、そうなのか。タリアン王国の風習に詳しいと豪語する者から教わったのだが、間違いだったのだな……」
そのほら吹きの首を絞めてやりたい気持ちだがそれはともかく、シェンはすっかり落ち込んでいた。自分がこれまで二ヶ月間、新妻をほったらかしてでもやってきたことは、全くの勘違いで無駄な行動だったが――それらは全て、完璧な状態で妻を迎えて抱きしめるためだったのだ。
そう思うと、ぽっとフレイアの頬が熱くなる。
「……あの、シェン」
「……なんだ」
「勘違いして、ごめんなさい。私、あなたがよそに女性を作っているのだと疑っていて……」
「いや、そう勘違いさせてしまったのは俺のせいだ。……風習のことも、もっと早くにおまえから聞いていれば間違いだと分かっていたのに……すまなかった」
「いいの。シェンが私を思ってやってくれていたのは分かったし……その、剣舞とかしなくていいから、気持ちだけで十分嬉しいわ」
「そうなのか……?」
シェンは困った顔だが、フレイアは微笑んだ。
フレイアはシェンから疎まれていたのではなくて、彼なりにフレイアに歩み寄ろうとしてくれていた。ただ少し、お互い言葉が足りなかったため二ヶ月を無駄にしてしまったが――それくらいなら、これからいくらでも埋め合わせができる。
「ありがとう、シェン。……私も、ちゃんとあなたと話がしたかったの」
「……俺も、だ。王女という身分からいきなりこんな不自由な場所に連れてこられて、さぞ寂しい思いをさせてしまっただろう」
「あはは、いいのよ。私、なんちゃって王女だもの」
フレイアは笑い、そっとシェンの手を取った。
シェンの手は大きくて、硬い。彼の手がこんなにがっしりとしていることも、今の今まで知らなかった。
(でも、ここから知っていける)
「遅くなっちゃったけれど……これからどうぞよろしくね、シェン」
「……ああ、よろしく」
顔を上げて微笑んだシェンの顔は、とても格好よくて……フレイアは自分の胸が高鳴るのを、止められそうになかった。
「シェンー!」
「フレイア、待て! 走るな!」
「これくらい大丈夫よ! それよりも、はい。今回の力作!」
帰宅したシェンを出迎えたフレイアが嬉々として差し出したのは、見事な文様が刺繍された手巾。
「これは……またすごいのを仕上げたな。もうおまえはこの部族一の刺繍職人かもしれない」
「ふふ、ありがとう」
「こちらこそ、いつもすごいもの作ってくれてありがとう」
そう言ってシェンはフレイアを抱き寄せ、そっと唇を重ねた。
二人が結婚して、もうすぐ三年。
フレイアもすっかりこの部族になじみ、今ではロミアたちが舌を巻くほどの刺繍裁縫職人になっていた。最近では皆の勧めで、作った作品を町で売っている。なかなかの値段で売れるようで、部族の皆に還元できてフレイアも嬉しかった。
だがとっておきの力作は、いつもシェンに贈っている。彼には結婚してからちまちまと作っていたものを贈っているが、彼はそのすべてを大切に使ってくれていた。今は、彼の上着などもフレイアが縫っている。
「……ああ、そうだわ。今日ね、ミシャが伝い歩きできるようになったの!」
「それはすごいな。……俺にも見せてくれるだろうか」
「ええ、きっと。明日はゆっくりできる?」
「ああ。……おまえも、ゆっくりしろよ。二人目だからといって、油断するな」
「もう、分かってるわよ」
「おまえは目を離すとすぐに跳んだり跳ねたりするからな……」
シェンがそう言いながら、フレイアのお腹をそっとさする。少し膨らみが分かってきたかと思われるそこでは、愛する人との間にできた二人目の子どもがすくすくと育っている。
「ねえ、シェン」
「何だ?」
「……私、ここに来て幸せよ」
フレイアがそう言って夫の胸に寄り掛かると、シェンはぴくっと指先を震わせてから、そっと妻の肩を抱いた。
「……ああ。俺も、おまえに出会えて……幸せだ」
ルタ族の一員となったフレイアは、言葉少なだが愛情深い夫と可愛い子どもたち、そして優しい部族の者たちに囲まれて、幸せに暮らした。
同じ頃、彼女の母も恋人と幸せに暮らしているようで、時間は掛かるもののまめに手紙の交換をして近況報告をしあい、一年に一度程度ではあるが孫たちの顔を見せに行くこともあった。
なおシェンとの結婚を嫌っていた王女たちは、所用があって城にやってきたシェンのワイルドだが整った顔を見るなり態度をころりと変え、「本当はフレイアではなくて、わたくしが嫁ぐ予定だったの」「今からでも遅くないから、フレイアとわたくしを替えませんか?」などとすり寄ってきた。
だがシェンは冷たい眼差しで王女たちを睨み歯牙にも掛けず、愛する妻子の待つ故郷にさっさと戻ってしまったそうだ。
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