第三百八十七話 近江屋事件
---三人称視点---
元治二年(聖歴1760年)6月15日の夜二十時過ぎの近江屋。
坂本龍牙はこの日、いつものように中尾慎太郎と顔を合せていた。
「峰吉さん、腹が減った。 軍鶏鍋が食いたい」
と言ったのは坂本だった。
「へ~い」
と、そう声を張り上げて、
近所の書店「菊屋」の五男、峰吉は軍鶏を買いに行った。
「中尾、ちいと見てくれ。新政府の名簿を考えたんだが……」
坂本は紙に書いた新政府のメンバーの名前を中尾に見せた。
「西条隆盛、大久保など。
そうそうたる顔ぶれじゃが、おんしの名前がないぞ」
と、中尾慎太郎。
「わしは役人になる気なんぞありゃせん。
わしは海援隊で世界に出るんじゃ」
「…世界?」
「そうじゃ、中尾。 よく聞け!」
坂本はそう言って、右手で近くの地球儀を回した。
「これからこの日ノ本に世界中の技術と知恵。
そして四民平等の思想が集まるのじゃ!
そうなれば日ノ本は希望にあふれた国になるんじゃ。
高木さんや武木さんが夢見た希望あふれる国ぜよ」
「…希望に夢じゃと?」
「そうじゃ。希望に夢じゃ。夢のあふれる日ノ本になるがじゃ。
いやあ、ほんの数年前じゃ考えられん話じゃ。
じゃから世の中は面白い、中尾もそう思わんか?」
「……そうじゃな」
その時、刺客が何人かこの近江屋に現れた。
「大政奉還と共和国政治で四民平等の新しい日ノ本が生まれるんじゃ。
日ノ本――日本の新たな夜明けじゃ。
高木さんや武木さんや多くの志士たちの夢の実現がされるんじゃ」
「あ、アンタ等、何者じゃ!?」
近江屋の番頭は思わず叫んだが、
刺客は叫ばせまいと、いかさず刀を振るい、番頭を絶命させた。
階段の方が妙に騒がしい。坂本はそちらに顔を向けた。
坂本が「ほたえな(騒がしい)ッ」と土佐弁で叫ぶ。
この声で、刺客たちは坂本達の居場所をみつけた。
刺客たちは全速力で駆け出した。
「……妙じゃな。 龍牙、気をつけんしゃい」
まもなく、襖が細目に開かれた。
坂本達の様子を伺う気配がある。
失礼、と襖の外から声がした。
「坂本先生はおられるかな」
と言った。
中尾が声を出そうとするのを手で制止し、坂本はゆっくり片膝を立てた。
「坂本はこの俺よ。どなたかのう」
と、低い声で応じた。
相手の動きが急に止まる。
「龍牙、ヤバい! 刀を持てっ!!!」
「坂本龍牙、覚悟せよっ!」
「何じゃっ!?」
襖を開けて中へ入るなり、
一人は中尾の後頭部を、一人が坂本の前額部を斬りつけた。
「ぐはあッ!」
間髪いれず二太刀目に腰をやられ、三太刀目、四太刀目と斬られる。
壁にかかった掛軸に坂本の血が飛んだ。
結果的にこれが坂本の致命傷になった。
不意打ちで斬られた坂本は、血だらけの状態で刀を取ろうとした。
愛刀の陸奥守吉行に手をかけた。
「コイツ! まだ動くぞ!」
「この死に損ないがぁっ!!」
刺客達は坂本を更に斬りつけた。
左肩先から左背中にかけて斬られた。
しかしその状態でも坂本は刀を構えて立ちあがった。
刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。
「おまんら…なんちぃや!…」
そこでようやく坂本は床に倒れ込んだ。
「坂本は討ち取った!」
と刺客が声を上げた。
その声を皮切りに「もうよい」と声がした。
そして刺客は一斉に引き上げた。
「…………」
そして坂本と中尾の短い呼吸だけが、部屋に残る。
全てが一瞬の出来事だった。
「な、中尾、わしは世の中を……変えれたじゃろうか?」
「…ま、まだまだじゃな……」
「…そうか。 まだまだ…か。 ならまだ生きんとな……」
「……」
「中尾、き、聞こえているか?」
「……」
どうやら中尾は気を失ったようだ。
坂本は右手で自分の頭を触り、流れ落ちる血を掌につけて眺めた。
坂本は中尾をみて笑った。
「わ、わしは脳をやられている。もう、いかぬ」
それが坂本龍牙の最期の言葉となった。
そして坂本龍牙は倒れ、妙に晴れ晴れとした表情で、天に召された。
坂本龍牙――享年三十一歳。
大江戸幕府の末期に世が乱れる中、
坂本はこの激動の時代を駆け巡ったが、
志半ばで坂本はこの世を去った。
しかしその意思は、他の者に受け継がれて、
坂本の望んだような未来を日ノ本は迎えるが、
それはまた少しばかり先の話であった。
一方の中岡は、それから二日間は回復の兆しを見せていたものの、体調が急変。
「早う討幕に立ち上がれ。
急がんと逆に幕府にやられてしまうぞ」
と言って、ほどなくして息を引き取った。
元治二年(聖歴1760年)6月17日。
中尾慎太郎、死亡。
尚、世間では、この事件の当事者は神剣組であるとして、
反会津の気運が高まっていく事となる。
次回の更新は2025年12月10日(水)の予定です。
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