第三百三十一話 脱藩志士・坂本龍牙
---三人称視点---
「坂本……龍牙ですか?」
「うむ、バリュネ大尉は、坂本の事をご存じか?」
老中・水木忠精の問いに、
バリュネ大尉は「ええ……」と曖昧に頷いた。
坂本龍牙は、近年名を上げ始めた脱藩志士である。
大江戸幕府統治下のジャパングでは、
藩を出る際には藩の許可が必要で、関所で手形を見せる必要があった。
脱藩とは無許可で藩外に出ることで、
かつてのジャパングでは、臣下の身で主及び主君を見限るものとして、
許されない風潮が強まり、追手が放たれることもあったという話だ。
だが近年では尊王攘夷運動が激化して、
自由に行動するため他家への仕官を前提としない脱藩を行い、
大江戸や京など政治的な中心地において、
諸藩の同志と交流し、志を遂げようとする志士が増えつつある。
藩の側も脱藩を黙認する事が増えつつある状況だ。
そして坂本龍牙は、二年前の文久二年(聖歴1756年)年三月、二十八歳で土佐藩を脱藩した。
坂本はその同年の秋に大江戸へ出て、
大江戸幕府の軍艦奉行並である勝海劉の弟子となった。
それから勝は大江戸幕府から大坂湾周辺の海防を命じられ、
その流れで、神戸に海軍操練所を建設する。
龍牙はそれに同行し、操練所に併設された勝の私塾に入門した。
そこで坂本は、勝の右腕として働きながら、海軍の修行に励んだ。
そして志士として徐々に名声を高めて、
今では倒幕派の主流派である薩摩藩と長州藩とも
個人的にコネクションを深めている、という噂が京だけでなく、
この大江戸や横浜でも聞こえるようになっていた。
正直、坂本という男は得体が知れない。
だが少なくとも無能や凡夫の類いではないだろう。
そういう平凡な人間がこの激動の時代で名を馳せる事はない。
それはジャパングだろうが、アスカンテレス王国であろうが同じだ。
だがまさか幕府の老中から直々に、
坂本の監視命令が出たのは、
バリュネ大尉にとっても予想外の出来事であった。
「坂本の名は、私達海外の特使の耳にも入ってます。
色々と謎が多い男ですが、
今後の情勢次第では、化ける可能性があるかもしれません。
確かに今のうちからマークしておいて損はないでしょう」
「流石は聡明なるバリュネ大尉だ。
この激動の時代、何が起こるか分からん。
故に情報網は常に幅広く張っておく必要がある。
ではこの二つの特務、受けてもらえるな?」
老中・水木に言葉にバリュネ大尉が「はい」と応じる。
そしてバリュネ大尉は、
周囲の同行者に視線を向ける。
正直リーファからすれば、
この特務の重要性が理解出来なかったが、
ここで断る理由も見当たらず、無言で頷いた。
その姿を見て老中・水木が「フム」と言って、
リーファ達を真っ直ぐ見据えた。
するとそこでロザリーが一石を投じた。
「老中・水木……様とお呼びすれば良いでしょうか?」
「水木殿で構わんよ」
「では水木殿、一つ聞きたい事があります」
「……何だ、申してみよ」
「……では我々が神剣組と坂本某を監視する事には不服はないですが、
坂本と神剣組は、友好関係にはなく、
敵対関係にある、と思って良いんでしょうか?」
「うむ、神剣組と坂本は敵対関係。
と思ってもらっても構わん。
……何故そのような事を聞く?」
老中・水木が軽くロザリーを睨めつけた。
するとロザリーは、一呼吸置いてから口を開いた。
「ならば裏工作をして、
神剣組と坂本某をぶつける。
という筋書きは如何でしょうか?」
「成る程、流石は耳長族。
見目麗しい姿とは裏腹に、
政治工作も得意とするのか」
「ありがとうございます。
では、水木殿のお答えを聞かせて頂けますか?」
「ワシの口からは何も言えぬな。
だが敵対する者同士が争う。
あるいは一方を害する。
という事はよくある事だが、
それを仕組んだと周囲に思われるのは、
幕府としては、あまり歓迎すべき事態ではない」
「……分かりました」
要するに責任は負いたくないが、
やるのであれば証拠は残すな。
という事であろう。
――ふうん。
――何処の国の重鎮も同じね。
――責任は負わぬが、部下には責任を負わす。
――でもやるなら、秘密裏に……。
――まあでも文句を言っても仕方ないわね。
そう内心で思うロザリー。
「ではこれにて話し合いは終了とする。
貴公等はワシが手配した馬車で再び横浜へ戻り、
船で堺まで行ってもらう。
そこから上洛して、
与えられた特務に励むが良い」
「「ははっ!」」
ロザリーとバリュネ大尉が同時に身を屈めて平伏する。
するとやや間を置いて、
リーファ達も同じように平服した。
「うむ、ではご苦労であった。
朕もまた会える事を楽しみにしてるぞ」
「ははっ……私達も将軍様とまたお会いできることを、
楽しみにしております」と、バリュネ大尉。
こうして大江戸城での話し合いは、家茂の言葉で終わりを告げた。
そしてリーファ達は、大江戸城を後にして、
水木が用意した馬車に乗り込んだ。
数時間ほど、馬車に揺られて横浜に到着。
念の為、横浜の総領事館に寄って、
大江戸での話し合いの結果をバルジオ総領事に報告。
「そうですか、神剣組と坂本龍牙の監視か。
思いの他、厳しい特務となりましたな。
とりあえず横浜から堺行きの乗船券を人数分用意するので、
今日はこのホテルでお休みください」
「はい」
断る理由もなかったので、
リーファ達もここは総領事の言葉に素直に従った。
翌日の8月27日。
リーファ達は横浜から堺行きの船に乗り込んだ。
ジャパングに来て、
すぐに大江戸へ向かい、横浜から、
港町の堺へ向かうというハードスケジュールだが、
リーファ達は、さして気にする事なく、
船の甲板で風に髪をなびかせながら、
仲間と共に楽しく談笑して、船旅を楽しんでいた。
次回の更新は2025年5月24日(土)の予定です。
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