03-2
――朝が来て、その日も学校へ。ホームルーム前のがやがや感も、授業も、昼休みも、何もかも、普段と変わらず平穏。部活も、恩田さんとの夕方の帰路も……。
いつも通り過ぎたけれど、恩田さんは、帰路で歩きながらこう言った。「あたしさ、頭のおかしい行動に出れる人って、ある意味で凄いなって思うんだ。駄目だとは思うんだよ。あんなのはね。でも……なんかね、その……嫉妬しちゃう」
昨日のことは夢だったんじゃないかと思いたくなっていたが、恩田さんとのこういった関係性や彼女の言葉がそうさせなかった。
「え? 嫉妬?」
「うん。だって……、あの事件を企てた人は、その……、だ……大樹くんの、子供を、その……身籠ろうとしたワケでしょ?」
「あー……うん、そういうことになるよね」
言い難いことをよく言ったな恩田さん。言葉が時々詰まるくらいだったのに。
確かに『その女』の行動には凄まじいものを感じる。が、これは嘘だ。『あの人』の作り話。本当は――。
まあ話を合わせよう、と考えた時、不思議に思った。それで嫉妬? どういう意味が――と思ってから気付いた。「あ、その、なんか、遠回しに凄いことを言われた気がするんだけどさ」
するとすぐ恩田さんの声が。「気のせいじゃないよ。……えっと、多分、大樹くんが思ったことは当たってると思う。……だって、私のために怒ってくれたんでしょ? それに、すぐに話に乗らないで長引かせてくれたみたいだし。逆に言いなりになろうとした時は、その……私が酷いことをされないように、って思ったんでしょ? だから私が今こうしてられる――んだよね。……私ね、思ったんだ、そんな――」
「待った! ええと、その……、なんていうか、ごめん話を切って。でも、僕にも、というか……、勘違いかもしれないけど、僕には今言うべきことがあるって思ったから」
心に決めた。よし、言うぞ。
自分を後押しし、告げる。
「僕は恩田さんが……、いや、実千夏さんのことが好きです。付き合ってください!」
手を差し出し、頭を下げる。
僕が急にそうすると、実千夏さんは驚いたかもしれない。間もあったし。
実千夏さんは、それでも、逃げずに返事をした。
「うん、喜んで」
僕らは握手を交わした。
頭を上げ、歩き出す。何だか少し緊張してしまう。さっきまでの方がうまく話せた。変な話だ。
互いが無言の間、僕は色々と考えた。
彼女が向き合ってくれたからか、僕はもしかしたら、返事がどっちだったとしても納得していたかもしれない。この出会いと想いは、きっと断られても無駄にならない、そんな想いを抱ける相手に出会えただけでも嬉しいと思えた。いい経験。そう、断られても、いい経験に――。
ただ、同時に妙な気分でもあった。ほとんど答えがあったようなものだった。すごろくでいい目が出る確率が高いと分かっていたみたいな感じ。だからか、少しズルをしている気がして自分を戒めたくなった。彼女を大事にするんだと、彼女に真摯に向き合えと、彼女以外のことにも――と、僕は自分に言い聞かせた。
色々思う所はあるが、一応は受け入れられた、僕の気持ちが。この気持ちが。改めてそう思うと、僕の嬉しさは段々と増した。
心の底から何かが湧いている気がする。なぜだろう。これが恋愛において充実するという感覚なのか。それとも、似たような苦しみを味わったからその反動もある、そういう解放感ゆえなのか。昨日嫌な思いをしたし、もしそうなら、今度は楽しい時間を共有したい、楽しませたい、そう思った。
たまに僕らは互いに話し出そうとして、同時に言葉が詰まったりした。こんなこと本当にあるんだなと笑えたし、ちょっと照れ臭い。
これからは、毎日、偶然じゃなく、待ち合わせて一緒に帰る日々。きっとそうなるんだろう。そんな期待がこの胸の中に育っていく。何だか温かい。
金曜日には名前で呼び合う仲になっていた。僕は彼女を実千夏と呼び、彼女は僕を大樹と呼ぶ。くん付けもなし。
なんだか自信が付いた気になる。呼び捨てを許し合える仲になったからというより、多分接し方ゆえだ。ただ――この自信が優越感に浸ることに似ている気がして、嫌な気持ちを呼び起こした。傲慢にならないようにしよう、僕はそう考えた。
土曜日になって、実千夏が僕に電話を掛けてきた。「前に言ってたでしょ、ロッククライミングを体験してみたいなって思って」電話口でもその声に癒される。
そいつはいい考えだ――と思った僕は、提案した。
「じゃあ行こうよ今日」
その日、実千夏は彼女の母親と二人で僕との待ち合わせの駅前に来た。初回はクライミングの危険性を親も認識すべきということもあってそうなった。
インストラクターに教えてもらって実千夏はみるみる上達した。どこに手を掛けたらいいのか分かる目はまあまあ持っているらしいが、いかんせん筋力のせいか、最初は無理が多い、が、伸びしろもかなりあるという感じだった。
かく言う僕は、遠めに見た感じでは何となくすぐルートが見える。その際の手を掛ける場所まで順番に動いていくための筋力もかなり付いている。姿勢維持も得意だ。考えて登れればそれもいいのだけど、感覚的に、スピーディに登るのもまた一興。僕は感覚的な方が得意――というかそれしかできなくて、素早く登れる達成感をただただ楽しんでいる。感覚的に次々というのも、脳内で、数学で使うコンパスを壁に立体的に使っているような感じだ、多分。
僕の課題は『やってる最中にその場でルートが見えるか』だ。それもまあまあうまくやれてる方だとは思うんだけどな。でも、プロはそんな僕とは比べられないくらいに速い。
迷いがないとかではなく、瞬間もう届いているという感じ。別次元。自分には届かない領域。それがプロ。
その域までやれたらカッコいいし、最終的な目標が高いとモチベが続くだろうと思ったので、それを見据えてあとは時間短縮あるのみ。
何かコツはあるんだろう、視点の切り替えが大事なのか? とんでもない跳び方する人もいるよな――、などと思っている今日この頃。まあ到底まだまだだ、少しずつでも――という気持ちでいる。
実千夏は僕の横を登ったりもしていた。近くで見ると余計ハラハラしたりもしたが、めげないで一生懸命なところなんかはかなり胸に来た。
あの表情。あの明るい声も。「ああ、惜しい~」その態度も。全部が僕の表情を緩ませる。
帰る時に聞いてみた。「どうだった?」駅へ歩きながらだ。
「うん、面白かった! でも絶対明日筋肉痛だ」自分の体を心配しながらも実千夏は楽しそうに笑った。
「そか。まあ初めてならそんなもんだね、僕もそうだったし」
笑い合いながら歩く中、実千夏のお母様の反応も気になった。ちらりと見やる。
ついでに実千夏に聞いてみた。「どう? 実千夏も続けてみる?」この質問へのお母様の反応もまた気になる。何度もお母様へと視線が移る――行ったり来たりだ。
僕は念を押す。「別に強制じゃないからね、僕は毎週やってるだけで、無理に合わせなくていいし。無理してるとこは見たくないしね。デートならそれ以外の時間でいいし」
数秒後、お母様が言った。「そうそう、実千夏、お金のことは気にしなくていいけど要は気持ちよ、どうするの?」
「うーん、どうしようかなーって思ってるんだけどさ」
「はは、めちゃくちゃ悩んでる」
「だって面白かったんだもん、ほら私トロンボーンやってるでしょ? 疲れてたら演奏めちゃめちゃになりそうかなって思うと嫌なんだけど、でも……。なんとか両立してみたくなっちゃってさ」
「お、ならやる? やりたいならやろうよ」
更には、最近調べて知ったことが後押しにならないかと思った。
伝えてみる。「あ、そうそう、楽器やっててもさ、スポーツ全くやらない人なんてそうはいないみたいだよね。それに指や手の運動って意味では似てるし。でもま、楽しいかどうかが一番大事だけどね」
まだ悩んでいるようなので、僕はまた。「いいんじゃない? やっても。両立できると思うよ」
「……そうだね! よし! やる!」
実千夏がそう言って腹の前で拳を握ってみせたので、僕は「はは、気合一杯じゃん」と言ってから同じポーズをしたくなった。僕が真似をすると、実千夏は「え、そんな感じだったー?」と笑った。
「うん、そうだった」と僕も笑う。
その時だ、「んふふ、微笑ましいわぁ」とお母様が言った。
すると、実千夏がお母様の肩をポコポコと叩いた。
「あいたた、何よもう」
実千夏は叩き続けた。「分かった分かった、ごめんごめん」お母様が謝る。
一連の様子は、それこそ微笑ましかった。
こういう日が続けばいい、そう思う。でもこんな時に、僕は、あの時の名刺とメモのことを気にしていた。