29 余裕
とある土曜日。昼食を終え、クライミングジムに行こうとして黒いズボンと白いTシャツ、デニム風に見えるジャケットに着替えた時、スマホが鳴った。出てみる。
「今来れるか? 君が来てくれるとこっちとしても助かるし、これは、君に似たある人物を助けることにも繋がる。来れない場合は――」檀野さんが電話口で僕に言った。
その続きを耳にする前に僕は。「行けます、すぐ向かいます、一旦切りますね」
「おう、じゃあ待ってる」
スマホを切ると、念のため実千夏に電話。「ごめん、今日は一緒に行けなくなった。というか行かないことを僕が選んだ。その……。これは僕や僕に似た人にとって、凄く重大なことなんだ。だから行かなきゃいけないと思ってて……。一人でも大丈夫?」
「え、う、うん。……あ、あのね、最近、護身用にブザーとか警棒も持ってるから。だから心配しないでね」
「警棒も?」
「うん、ピンク色で可愛いの」
「あ、そういうのあるんだ。そか。……まあそれなら安心、かな」
「でしょ、だから安心してね」
「――そうだね。……でも、しちゃうもんはしちゃうけど」
実千夏は意外と力持ちだ。それでも不安にはなる。心配はしてしまうもんだ。
でも、ここまで用意している実千夏なら、逆に危険に自ら近付くようなことはなさそうだ。そういう意味でも十分安心かな。誰かを守るためなら危険に近付いてしまいそうだけど……。でも、そんな事件はそうそうないか。……本当に? ……まあ、そう信じたい、そう信じるしかない、か……。
「じゃあ、その……、一人でいる時気を付けてね」できる限りの注意をと思い、僕はそう言った。
「うん」
「今日は本当にごめん。じゃあまた」
「うん、あんまり気にしないでね。またね」
そう話されて電話も終えると、玄関から靴を持ってきて、ベッドの横にシャー芯四本によるゲートを設置。組織・隈射目のゲートルームが『向こう』に見える。そこへ足を運んだ。
そのゲートルームの扉にはアラビア数字で大きく七とある。
こんなに大きな番号の部屋を僕がもらったのは佐倉守家のためだろう、佐倉守家が小さな番号から順に割り当てられるようにするため――どれが自分のゲートルームか考えた時に混乱しないようにさせるため――そうだと聞いている。兄も一応組織から念のため割り当てられている。八番の部屋を。ただ、兄に使う気はないらしいけど。
この部屋に最初からあった棚の上に、僕は予め鍵を置いていた。この部屋を使うために配られた鍵。持ってきた靴を履いたら、その鍵を手に取り扉の錠を開けた。それからレバー式のノブを回し外に出ると、扉を閉め、鍵を使って再度、錠が掛かった状態に。
その鍵をズボンの左のポケットに入れた。
シャー芯のケースはいつもズボンの右ポケットに。邪魔にならないようにするためだ。
通路を歩いて大扉からマギウト練習場へ。更にそこを突っ切って先の扉から階段側に出る。と、すぐの広間に檀野さんが来ていた。「こっちだ」
ついて行った先は調査用の階。広間に出て右に歩き奥の第二会議室へ。
入って左奥、隅っこにあるホワイトボードには、写真が磁石で固定されている。それを見る。鉄製の手すりや置物、ガードレール、壁、看板の裏などのうち人目に付き難い部分に謎の凹み。人のイタズラで片付けられない位置や高さに凹みがあるものも。
そのホワイトボードの前に今、僕と檀野さん以外に歌川さん、風浦さんの二人もいた。歌川さんが言う。
「調べて分かったが、こんな風に意図がよく分からない位置にまである。物理的にも、こんなことがマギウトによるならまあ納得が行く」
確かに。そう思ってから、ホワイトボードの端に目が釘付けになった。そこに、とある人物の写真。
その下に文字があった、東郷芸術大学デザイン科の学生、十八歳、鮎持燐治と。
「会いに行ってみるかい?」風浦さんが聞いた。
「ええ、当然」
本部を隠しているショッピングモールである荻赤山スカイライクから出た僕ら四人は、檀野さんについて行く形で近所のパーキングエリアへと向かった。
そして奥の車に乗る。黒のワゴン。運転席には歌川さん。助手席に檀野さんが乗り、二列ある後部座席のうち後ろの列の奥に風浦さん、ドア付近に僕が座った。
風浦さん曰く『行くまでに話したいことがあるから席を気にした』らしい、まあ納得だ、どちらかだけでも後ろを向いたままなんて状態だと話し辛い、それだけでも十分な理由だ。
車が発進する。どこかへと向かう中、隣の風浦さんが僕に言う。「これから行くのは井下橋区だ。井下橋区の東の方にあるアパートに鮎持燐治が住んでる」
「どうしてその人がそうだって分かったんです?」
僕が聞くと風浦さんは軽くうなずいた。「調査中に見たんだよ、何かに乗って浮き上がって看板の裏に手をやった所をね。後から見たら本当に窪んでた。それで尾行して住所を突き止めたんだ」
そっか、それで。
「でも、それ、全部の区や市でやったんですか?」もしそうならとんでもない労力を掛けて調査したことになる。
「いや、井下橋区とその周辺だけだよ」
なるほどと納得はできたものの。「じゃあどうしてその周辺だけに限定できたんです?」
ふむ、と風浦さんが間をおいた。どうだったかなと言うべきことを整理したんだろう。そして。「一か月前から目撃情報が出始めてたんだよ、それで、井下橋区周辺の情報が多かった。手始めにそこを中心に調べて……それがビンゴ」
「……なるほど。……それって、『鉄板とか手すりが窪んでて、変なの~』みたいな情報が既に一杯あったってことですよね、ネットとかに?」
「まあそゆこと」風浦さんはうんうんとうなずいた。「医療関係者を盗聴しても分かりそうだと思ったんだけどな、井下橋区近辺の病院や従事者の家からは一切情報が出なかった。別の所もそうかもしれん。直接目で見るしかないと思ってね」
「ふうん……? そっか……、なるほどなあ」
話しながら僕は思った、井下橋区か、到着までまだ時間が掛かるみたいだな、と。
通りの端に車を停めた歌川さんが振り向き気味に言う。「着いたぞ、右の白いアパートの三階左の部屋がそうだ」
僕は後部座席から、右の窓の外を眺めた。
アパートはそんなに古くない。部屋は狭そう。大学生の一人暮らしはあんなもんなのかと、一人納得する。
問題の部屋は窓にカーテンが掛かっている。僕も部屋の中を見られたくなくてカーテンを掛けておくかも――なんて思いながら、視線を歌川さんの方に戻した。
ちょうどその時。「じゃあ行くぞ」と添えた風浦さんが僕に言う。「入り口はあっちだから、少し回り込んで向こう側に行く。さあ出よう」
言われて僕が先に降りる。
降りてきた風浦さんについて歩き、アパート側の歩道に向かう。途中で、何かが割れるような大きな音がした。パリン、ガシャン、という音。
「なんだ?」みんなが口にした。
音がしたのは鮎持燐治の部屋がある方向だった。嫌な予感。
まさかと思って見やる。
彼の部屋の窓が割れていた。カーテンも開いている。ついさっきは日光を遮っていたのに。そこから誰かが飛び降りた? もしくは物が落ちた? そんな状況に見える。
「あそこから落ちたなら大事だ、確認しに行くぞ」
僕は近くに来ていた檀野さんにうなずいた。
彼の身に何が? 今まで関わった事件を思い出し、不安になる。
車を降りたあとは路地を反対側の塀の所まで走って近付いた。その時、アパートを囲う茂みの上から誰かが降ってきた。
俺は大樹くんや歌川、檀野を連れてくるような形で茂みに近付いた時、何かが飛んでくるのを見た。赤くて小さな……何かの切れ端のような。
それが車体の右側面に刺さった。
直感する、相容れない誰かの仕業だと。
やばい――!
「燐治くん、君を守る、とりあえず乗れ!」率先して風浦さんが言った、彼は続ける。「俺達は味方だ! 君は狙われてる、力のことで! 大丈夫だ、乗れ早く!」
なぜそんなに急いでいるのか。僕は分析すべく数歩引いて観察してみた。
燐治さんの部屋に二人の男がいた。多分両方とも二十代後半から三十代くらい。黒髪で灰色のパーカーを着た男と、茶髪で黒い革ジャンの男。
この二人には見覚えがない。会議室内の写真でもだ。
囲いの茂みから下りてきた黒髪の男性、彼が燐治さんだろう、さっき写真で見たのと同じ顔だ。
その彼が追われてる? 誰かにバレたのか? 彼本人が誰かに何かしたのか? まさか。でも追われていることだけは確か。
「僕も同じ力があるんです。助けてもらってます、ほら早く!」
僕らが駆け付けて手を引こうとすると、燐治さんはビクっと身を引き、警戒したようだった。
燐治さんと彼の部屋に交互に視線をやって、僕は目撃した。そこにいた人影もまた窓から降りた、その様子を。そう、降りたんだ、落ちたんじゃなく、何かマギウトを使ったようにツツ――っと、リフト化したようにしか見えない何かで。
辺りを見回した。誰かがこれを見てはいないかと。
幸い、周囲にこれを見ている人はいなさそうだ。
燐治さんは混乱し、あたふたしている、僕らからも逃げようと。
そんな時だ。二人の追手の乗っているリフト化した何かは茂みの上まですぐに来たようで、二人はその何か――白くて薄い板のような物――の上で、こちらに手を向けた。
何か来る――! 思って一瞬だけまた周囲を確認。誰の視線もない。今なら。
そう思って追手二人の真上に、自分の身長以上の長さと足以上の太さの芯四本を向かわせ、組み合わせて即座にゲート化。上からすっぽりと二人が入るように動かした。
ゲートの解除によって足や靴を切断されたら誰だって困る。彼らはどうにかそれを避けるだろう。だけど、しゃがむ手はない、その方が早いと判断できる高さにはもうゲートはなかった。だから二人は自ら跳び上がってこの黒いゲートに入った。
ゲートを解除。すると、芯は普通の大きさになり、落下。今あの二人は、僕が消したゲートで繋いでいた場所にいる。以前、尾行を警戒されて僕が着替えさせられた洲黒鬼千堂デパートの一階広間に。
もし彼らがゲートを使えるなら、こちらが稼いだ時間なんて……ほんの十数秒以下にもなりうる。彼らの乗っていた白い何かが操られなくなってその辺に落ちたが、それが何なのかを知る必要と暇はない。今必要なのは迅速な避難。
「さあ早く、逃げたいんだろう」檀野さんが急ぐように手招きしながら言った。
檀野さん自身も乗り込もうとしている。
多分奴らも大っぴらに能力を使って捜索することはできないはずだ。逃げることさえできれば撒けるはず。さっきの行動は人の目が全くなかったからだろう。とにかくここからは逃げないと。
時間は掛けられない。全員移動できるから車での逃走でいい、奴らが車移動じゃなかったらそれこそ撒ける。
僕も言う。「見たでしょ、さっきの奴らも同じ。なら、追ってこれる。早くここから離れないと!」
燐治さんの後ろに回り、僕が背中を押した。連れていこうとする。今度は抵抗しなかった。
僕らの誘い方まで拉致みたいになると燐治さんは一人で逃げそうだった、檀野さん達は多分そうさせまいと強引に誘わなかったんだろう、そんな最初の印象が効いて、無抵抗でついて来てくれたのかもしれない。
今は運転席に歌川さん、助手席に風浦さん、後部座席後列に檀野さんがいる。僕が燐治さんを後部座席前列の右の席に乗せたあとその左隣に座った。
これで出発。つい溜め息が漏れる。
走る車の中で燐治さんは頭を抱えた。
「なんでこんな。こんなことになるなんて」
二秒後、今度は顔を上げて言った。「あいつら、なんで俺を狙うんです」
僕にではなく、前後の席の大人に対しての問いだった。
その顔には恐怖が宿っているようだった。切なさも垣間見える。
気持ちは分かる。自分の人生の何もかもが終わるような気がして怖いだろうし、もし捕まって誰にも会えなくなったりしたら、親しかった人を悲しませてしまう。自分の気持ちよりも、何よりそれが辛い。彼もきっと……。
言葉を待つ彼に、檀野さんが後ろの席から告げる。「よくは分からんが、君を利用したいんだろう、君がマギウト使いだから」
燐治さんは少し振り向き加減で。「マギウト使い? マギウトってのはその――」
「そうです、この力」とは、隣の僕が言った、シャー芯をその場でパララと増やすのを見せながら。
それは、人によって操作物が違うのがほとんどだと示すためだった。
燐治さんは視線をあちこちに向けた。何やら考えながらドシンと座り直す。背を丸めた姿勢でまた。
「なんでそんなんだからって」まだ疑問はあるらしい。
「詳しくは分からんが、実験動物みたいに扱いたいんだろう。ま、それ以外の用途ってことも――」檀野さんの言葉はそこで途切れた。それは、歌川さんが叫んだからだった。
「くそ、あいつら諦めてないぞ、後ろから来てる!」
「何ッ?」振り向き、確認した檀野さんが言う。「どうする、このままだと通りに出る、最悪大事故だ!」
僕も後ろを見た。追ってきているのは軽の車だ。セダンとかそんな名前の。この車よりは背が低いそれが、この車より速いスピードで近付いてくる。
相手側の運転席や助手席にいるのは確かにあの追手。
なんでこんなに執拗に。
――なんて状況だよ。あそこで戦うべきだったか……? いやもう後悔なんてできない。今はこの場でどうするかだ。
その時檀野さんが言った。「くそっゲートしかない!」当然僕に。「車ごと通せ! 誰もいない場所に!」
それしかない。確かにそうは思うが、できるかどうか不安だ。急ぐ車の何倍もの速さで操って寸分違わず組み合わさるように設置し、ゲートの枠を完成させなきゃいけない。しかも車で通れるほどの大きさに。
間違えばゲートの消滅に巻き込まれて、守りたいはずの燐治さんの体が真っ二つになる可能性だってある。それだけは避けないと。
まだ通りまで距離があるが、車も速く動いている。ゲート移動の余裕なんてそんなにない。目撃される可能性を考えなくても、恐らくチャンスは一回だけ――。





