01-2
次の日の朝八時には仙洞高校の北棟四階東側にある一年三組の教室にいた。
いつものように普通の世間話をして、生徒として恥ずかしくないように授業を受け、放課後になるとすぐにパソコン室へ。一応はパソコン部に所属していてデザインの勉強をしている。習字や鉛筆での下書きをしたものをできるだけ持ってきていて、その画像を取り込んで作業をする。
僕のようなタイプはこの仙洞高校では珍しいらしい。パソコン部の普段使いや文化祭などの看板の作成をこの三年間僕が担当していいらしいが、ほかに特に何かに高校生部門として参加できる活動がない。いや、デザインの大会を一つだけ一応知ってはいる。が、それにはチームでの参加が必要。一人では出られないのだ。
メンバー探しのためポスターを作ってみてはいるのだが、それを貼ってもまだ仲間は現れていない。なので、とにかく今は、僕一人、技術を静かに高める時期だと考えることにしている。
――そんな今日の作業を終え、時は十九時。さあもう帰ろう、と思ってパソコン室を出たちょうどその時、同じクラスの恩田実千夏とばったり会った。セミロングの茶髪を後ろでゆったり束ねている人で、かなりの美人。
彼女が言う。「あ、藤宮くん、今帰り?」
藤宮というのが僕の名前だ。フルネームは藤宮大樹。
「うん」と、僕はまずうなずき、それから聞いてみた。「そっちは?」
「今終わったとこ」
そう返す恩田さんの背には楽器ケースがある。背負っている。
「えっと……吹奏楽部?」と僕が聞くと。
「いや、ジャズバンド部。これはトロンボーン」
「へえ、ジャズか、いいね、お洒落」
「へへ、そうでしょ」
彼女は明るくそう言ってすぐに話題を変えた。「そういや漢検受けたんだって? 国語の先生から聞いたよ『昨日がそうだった』って。どうだったの?」
「んー、まあ、難しかったけどね、かなり自信あるよ」
「おー、凄いじゃん」彼女は表情豊かだ。
「いやあ、まあね、それだけ頑張ったから。……何ていうか、努力が続いてよかった、かな。自分でも意外だったんだよね、夜遅くまで集中して勉強して、疲れて寝て……そういう、何、サイクル? が全然ストレスじゃなかったんだよ、意外も意外だよ」
「へえー、そっか、努力が続いたんだなあ――」
「難しいよね、続けるのって」
「そうだねえ、確かに」
恩田さんは、そう返事したあとで、「一緒に帰る? 道、一緒かな」と誘ってきた。
「あ、ああ、そうだね、僕あっちだけど」
奇妙な体験だ、と思った。あんまり付き合いがない人と、急に……。話をするのは別に構わないけど、何だかそわそわするし緊張するなあ……。
「ん、なら、私と一緒だ、駅まで歩けるね。あ、電車だよね?」
「ああ、うん、バスじゃないよ。あ、でも電車の方向は? どっち?」
「下りだよ、藤宮くんは?」聞きながら恩田さんは歩き出した。
僕はついて行きながら。「え、それも一緒だ。凄いね、偶然」
「ね」この『ね』は単に同意だ。この時も笑顔。彼女はあまりにも魅力的だ。
「で、どこで降りるの?」恩田さんが言う。
「洲黒駅」
「あー……私の方がちょっと早く降りちゃうな、残念」
ざ、残念ッ?
耳を疑った。
僕が何も言えないでいると、恩田さんが。「ああ、いや、私があとで降りるようだったら、藤宮くんともうちょっと長く話せたのになあって」
ん? それはどういう意味で? と聞く勇気が僕にはなかった。
「あー、そういう」当たり障りのないように話してしまう。
駄目だ! こういう時こそ素直にちゃんと会話しないとな、と僕は思い、言葉にした。「実はさ、その……ちょっと緊張してるんだよね、普段あんまり話してないでしょ、僕と恩田さんって」
「あーそうだね、掃除時間くらいかな?」
「うん。でも、なんて言うか……、恩田さんの雰囲気好きだから、僕も長く話せないのは残念かなとは思ってるんだけど――」
「え?」恩田さんが足を一瞬だけ止めて、遅れてついて来るようになった。
僕の口からも「え?」と声が。『どうしたんだろ』と僕の方から歩幅を合わせてみる。
すると恩田さんが呟くように。「す、好きって、つまり……」恥ずかしそうにしていた。
「え? あ、いや、好きってのは、その、雰囲気。見た感じの話」
「見た感じ……?」
「そう! 何て言うか、見た感じはいい人そうだな、っていう、単純に言えば『嫌いじゃないな』っていう。純粋な、評価というか。……なんかごめん、今のはおこがましかったと思う、上からっぽくて」
「うーん……」恩田さんは何やら考えたようだ。すぐに悩んだ感じが抜けて晴れた顔になると。「んーん、いい評価してくれてるのなら、それは嬉しいかな。というか第一印象とかに近い話でしょ?」
「ああ、うん、そういうこと。見た目の雰囲気的なね。そか、嬉しいなら……よかった」ほっとした。
きっと恩田さんも、そこまで深い意味があって残念がったのではないのだろう。……話し相手がいないと静かで、いい面もあるけど、寂しい感じはするしな。だからだろう。
ふと、恩田さんが語る。「私ね、多分同じようなことを思ってたと思うんだよね。いい機会だし、少し話したいなって。お互いのことを知れたら尚いいしね。でもその時間が想像より……じゃないや、想像の中で一番短いから、ちょっと残念かなって思ったのかな、多分」
「え? どういう意味? 想像の中で一番短い、って」
「いや、ほら、使う電車と向きがさっき一緒だって言ったでしょ? 凄い! 偶然! って思ったけど、私の方が早く降りちゃうみたいだからさ。――予想してたの。こういう一緒にいられる帰りの時間がどのくらいかなあって。その予想の中で、一番短いなって思ってね」
「あ、ああ、予想の中でか」そう返した僕の心の中には、物凄く大きな納得感があった。その反面、男として頑張ろうと思わされた。もしかして脈あり? と、思わないこともない。でも、直接的な言葉はなかったから。それに僕、理解力が壊れてる。焦ってるにしても。
もし告白されてたら僕はどう反応しただろう。もっと焦ったかもしれない。ちゃんと考えて返事できる人間でいたいけど、どうすることがちゃんと考えた返事になるんだろう、そんなことも思った。
とにかく、歩きながら話した。駅まで。世間話に花が咲いた。
彼女が鳥谷公園前で降りた時、「またね」と手を振った。
僕も振り返した。「うん、また明日」
『また明日』と言っても、きっと『また一緒に帰ろうね』という意味ではないんだろう。明日も学校がある。『学校でまた会おうね』の『また』だ、きっと。今日は、互いのことを色々と知れた日。ただそれだけの日。
次の日の夕方、パソコン室を出ると、左から歩いてくる恩田さんの姿が見えた。
また一緒に帰ることに。そういう『また』だった? いや、まさかな。多分偶然だ。十分ありうる話だし、考え過ぎないようにしよう。
そんなことを思ってから趣味の話をした。「僕さ、運動不足になるのが嫌でたまにロッククライミングしてるんだよ、週に一回」
「へえ、腕がガッシリしそう」
「そうだね、あと指かな、それと胸筋とか肩使うよ」
「へえー、ちょっと触ってもいい?」
なんてワードだと思った。胸がドキドキしてしまう。
「や、お、恩田さんは何かしてるの? 運動は」
ごまかすように聞いてしまうと、え? という顔で首を傾げられた。「私は特には。ランニングはしてるけどね」
「へ、へえ、ど、どのくらい走ってるの?」
「えっとね、大体――」
そんな感じで歩いていく。
二人だけで会話をすることに慣れてから思ったのは、『ああ、やっぱり好きだな』だった。声の調子も、テンポも。波長が合うというか、心地いい。
そう思いながら駅まで……行くはずだったが、この日は門を出て少し行った所で呼び止められた。「ちょっとそこの二人、うちの学校の生徒よね? ちょっと手伝ってくれない?」僕らの歩く道路脇に二人の男性と一人の女性がいた。そのうちの女性の声だったようだ。
彼女らは中が見えない箱型のトラックから段ボールを運び出そうとしているところらしい。そういえば昨日も見た気がした。
手伝わせるくらいだから重いのか。そう思った時、恩田さんが「分かりました」と率先して答えた。
僕と二人で荷台に乗って、「ん、重いね」なんて言っている時、腕がちくっとした。
瞬間、隣を見てみた。隣には男がいて、彼が、持った注射器の針を僕の腕に刺していた。さっきの痛みはその――。
とっさに、自分でも驚くほどの声が出た。「恩田さん逃げて! 人さら――」だが、口を塞がれた。
喋れない。もがく。
だが。すぐに眠たくなって、僕は……。