01 始まり
――まさかこんな現象が起こるなんて。僕は思ってもいなかった。
テレビのほんの小さな音をラジオ感覚で流している、そんなリビングで、漢字能力検定試験用の勉強の真っ最中だった。
かなり時間が経った頃にテレビに映るキャスターが言った。「今日また新たな遺体が発見されました。連日の事件と同様の『置き去り殺人』と見られています。この件において警察は、複数による犯行と――」
最近はこんなのばっかで気が滅入る。
チャンネルを変更したけど別の番組も似たようなお知らせ。鬱陶しくなる。
雑音を聞きながらだと集中できる気がするのに、それをさせてくれない。
溜め息を添えながら電源ボタンを押した。ブツリと画面が真っ暗に。
急に辺りは無音。
集中を欠かさないでくれるなら適度な雑音を聞きたいが、まあ無音の中でも集中できればそれに越したことはない、か。
文字が好きだった。幼い頃から、字を小さく可愛く書いてみたり、大きく力強く書いてみたりして遊んでいた。
看板を見てはその度に様々な書体の見栄えに感動。デッサンをし、書体も調べた。絵もまあまあ描けたし書道にも関心があった。
でも、ある時からそれらをぷっつりと忘れていた。……原因はそんな趣味を弄られて嫌な目にあったからかもしれない。今思えばそんな時期から性格も暗くなっていた。
もしかしたら看板文字やフォントのデザイナーになれる才能があったかも。だけど、そんな情熱を忘れて何が突出するでもない面白味のない中学二年生になってしまった。
そんな頃の担任が言った。
「えー、日本漢字能力検定というものがあります。この歳からみんなに受検を勧めているものです。受けるかは自由です。誰か受検希望者はいませんか」
それが切っ掛けだった。『漢字……そういえば文字って言えば』――失くした遊び道具が戻ってきた、そういう気分になった。戻っていいんだ、周りを気にしなくていい、その熱を思い出した、もうやってやれ、と。
『将来どうなるか分かんないし、文字には興味がある。知っておくと得かもしれない。よし、やっておくか』
そんな風に奮い立ったのだと覚えている。
熱を取り戻してから二年後の今――こうして漢検二級用の勉強をしているという訳だった。
十五歳の夏。六月の晴れた蒸し暑い日曜日の九時半前。
自分の通う高校は会場の一つ。今その三年二組にいる。そこが控え室だ。
受けるのは自分だけじゃない。別の学校の生徒もいるし大人もいる。
呼ばれて三年五組の教室へと、集まったほかの人達と一緒に通された。
「受検番号を確認して指定の席に着くように」という張り紙があったのでその通りに。
机の上には必要な物だけを置く。
学校指定のサブバッグで必要な物を持ってきたが、その中から筆箱だけを出すとサブバッグを椅子の下に。そのようにしてくださいと張り紙にあったからだ。
そして、持ち手が半透明なお気に入りのシャーペンを取り出してからハッとした。替え芯がそのシャーペンの中に入っていない。
心の中で泣く。ああ! そうだった、ケースの中にも替え芯がなかったはず、朝買ってから学校に来ようと思ってたのに! 忘れてた、なんで忘れてたんだ!
筆箱から急いで替え芯のケースを探して手に取り、その中を見た。
やっぱりないよなあ、大丈夫かなあ……。
足りるかなあ、折れないかなあ、どうしよう。
悩んでふと思った。今シャーペンのノブを押して先から出てきた芯は、少し短くなっていた。今使えるのはこの一本だけ。本当にそれだけだ。
誰かに借りるか? くそぉ、超能力で増えたりでもしたら一生こんな思いをしないのになあ。まあ、そんな力を望む人なんてそうはいないだろうけど。透明になるとか空を飛ぶとか、定番はそれだけど、なんで定番ってそういうのばっかなんだろうな――なんてことは、どうでもいいか――。
そんなことを思った時だ、左手に握っていた替え芯のケースの中に、突然、芯が現れた。
一瞬、寒気を感じた。
なんでだ? なんで……。僕? 僕が? いやまさか。じゃあ誰が?
いいや何かのトリックだ、何かの手品だ、誰かのイタズラだ、こんなのありえない、起こりっこないだろ。
絶対姉ちゃんとかのイタズラだ、こう、ケースに入ってないように見せて……、何かで……、違うかなあ……。
さっき、なかったよな? 空だったよな?
自分に何度も問い掛けた。
もう一度、思ってみた。増えたらいいのにと。
だからかは分からないが、直後、ケースの中の一本が、サリッと少しの音を立て、二本に増えた。
――まさかこんな現象が起こるなんて。しかも二度も。
何だそれ。どういうことだ。意味が分からない! そう思ってしまったが、もうすぐ検定の時間だ。集中しないと……。
僕は気持ちを切り替えた、容易ではなかったけど、できないことではなかった。
――結局のところ、受検は多分成功だ、手応えはバッチリ。しっかり勉強して意味と繋ぎ合わせて覚えていたし。……うん。百九十点はいっただろう。まあ、もうちょっと誤りがあったとしても、百八十点は多分超えている。
合格ラインはそこからもう少し下だから、かなり余裕がある、だから多分――。
それよりも。
問題はあの増えた芯だ。一体何が起こったのか。なぜなのか。本当に僕が?
誰にも聞けない。馬鹿にされるんじゃないかと思うと、恐ろしくて相談もできなかったから誰にもこのことを言わずに家に帰ってきた――。
マンションの入口から入ってエレベーターで三階へ、そこから西へ伸びた廊下を歩き、五番目の部屋へ。三〇五号室。そこが僕の実家。北に向かって立ち、ドアノブに手を掛ける。
開けたドアから入ってすぐ、リビングの奥からこちらへ歩いてくる姉を見付けた。「ただいま」
「ああおかえり、私今からちょっと出掛けるから。そう言っといてね」
「うん」
「じゃ行ってきます」姉がそう言って僕とすれ違って出ていく。
「行ってらっしゃい」
バタンという音を聞いてからリビングを見渡した。どうやら母も外出中だ。
父は仕事中。自分の店を持っている料理人だから今は……買い出し中とも言えるかも。
兄もいない。兄はまだ部活中。大学の水泳部なので、プールで泳いでいる最中だ、多分。
兄の部屋の隣が僕の部屋で、兄の部屋の方がリビングに近い。更に廊下を奥に(西側に)行けば姉の部屋がある。姉の部屋のドアには『ノックしてネ』と書かれた色取り取りの紙が貼られているが、まあそういったことは今はいい。
ともかく、自室に入ったらまずは電気を付けた。
鞄を置き、椅子に座りリラックス……じゃなくて。
鞄から筆箱を取り出し、そこから芯のケースを。そして。
「これが増えたんだよなあ……。超能力ねえ……」
じいっと見てから、ふと、ほかの物も増えるのかな、と考えた。
それから、机の上に様々な物を並べた。キッチンから持ってきた爪楊枝や、自分の部屋にあった習字に使う筆、固形の墨や硯、文鎮、鉛筆、メモ紙、マーカーペン、クリップなどなど……。
それぞれに念じる。
ケースの中のシャー芯は四本に増えたが、ほかは増えなかった。どうやらシャーペンの芯だけに作用する……? 本当にこんな芯だけが?
対象として黒いかどうかが関係あるのかと思ったが、墨は増えなかった。鉛筆の芯も。棒状だからかと思ったが爪楊枝も増えなかった。なので、色や形というより構成成分や認識が影響している? そうかもしれない。
そう思った僕はスマホ(スマートフォン)で調べてみた。
最近のシャー芯は高分子焼成芯というものだそうで、黒鉛と高分子樹脂でできていて(多分、高分子というのは結合している分子が多いということだ、つまり、かなりの密度で分子が固まってできている樹脂ということだろう)、それらでできているからなのか、焼かれて完成した芯の樹脂は炭素化しているらしく、どうやら『百パーセント炭素でできている』と言えるらしい。
なるほど黒鉛も炭素からできている元素鉱物というものらしいし、それが最近の芯なのか――。じゃあ、炭素のみでできた物なら増やせるのか?
両親の寝室にある母の化粧台の引き出しを漁り、ダイヤの指輪がないかと探してみた。「お、あった」拝借し、増やせるか、その場で実験。
だが増えなかった。
どうやら本当に、純粋に、シャー芯だけを増やすという超能力らしい。
部屋に戻ろうとした時に、帰ってきた母の声がした。「ただいま。ん? 何してたの? そこで」
僕はちょうど、母と父の寝室から出てきたところだった。「化粧品のデザインとかがちょっと気になって」とっさにうまいことを言った気がする。
「あ、そう。今日素麺でいい?」
「ああ、いいよ。……ああ、そういえば、姉ちゃんがちょっと出掛けてくるって言ってた」
「ああ、そうなの」
「うん」うなずいてから、僕は部屋へと戻っていく。
その僕を特に呼び戻さない。母は、今はそれ以上話をする気はないらしい。まあ僕がそう思わせたと言えるかもしれないけど。
とにかく部屋で確認した。ケースの中のシャー芯。増えたそれらの芯の長さは少し短い。あの使用中の残り一本の長さが反映されているように見える――。
ありえない。
ふと否定したくなった。もし夢だったら。漢検の手応えまで夢だったら――そう思えて身が震えた。
自分の頬を平手打ちしてみた。痛い。
「はあ……」つい溜め息を漏らしてしまう。「夢じゃないよな……、夢じゃないんだよ……、なんだこれ」
僕が超能力者? おかしな話だ。
なぜなのか見当も付かない。自慢する気にもなれない。
夢は別にあるから、おかしな方向で有名になるのだけは避けたい。研究対象にだってなりたくはないし。正直、何をされるかと思うと怖い。やっぱり誰にも言わない、それしかない。
「ま、こんな力のことなんて誰も信じないよな。でもまあ念のためだ、念のため」
そうだ。誰にも言わない。言わないでいられるようにしよう。