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Lost  作者: 酒田青
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 朝起きると、彼はテレビにかぶりつきになっていた。わたしは伸びをし、ベッドを降りて彼の横に座る。

「ご飯作ったげようか? 目玉焼きでいいなら」

 彼は無反応だった。改めてテレビを見ると、大西洋沿いの地域で津波、死者二万五千人、というニュースが流れていた。まだこれにこだわっていたのか、と呆れる。地球儀が地球とリンクしているなんて漫画じみた発想は、感心しない。

「カナダの沿岸州とアイスランドとかアイルランド、スコットランド、スペイン、ポルトガル……とにかくおれが地球儀に触った辺りの周辺の地域で津波が起きてる」

 家族を探し求め、泣きじゃくる子供。全身が汚れたまま茫然と海を見つめる老人。抱き合って泣く男女。残酷な映像だった。海は黒く汚れ、この中にはたくさんの人たちが呑み込まれたに違いなかった。

 でも、わたしたちには関係のないことだった。

「朝ご飯食べよっか。仕事行かなきゃ」

 立ち上がったわたしの言葉に、彼が驚いたように見上げてくる。信じられないものを見るような、悲しげな顔。

「会社行ったら何か訊かれちゃうかもね。同時にいなくなったし、わたし昨日と同じ服だし。でもまあ、いっか」

 笑いながらキッチンスペースに行く。彼の部屋は水回りがまとめて設置してあり、シンクの真後ろにトイレがある。冷蔵庫を開けながら寝室のほうを見ると、彼は考え込んだ様子で床を見つめていた。

「信じないんだ」

 固い声で、彼は言った。わたしはどきっとして彼に向き直る。

「おれが言うこと、全部思い込みだって言いたいんだろ。でも……」

 ニュースが切り替わった。彼はテレビを再び見て、またわたしを見る。

「これ見て、絶対に地球儀は関係ないって言える?」

 ニュースは北極についてのものだった。人工衛星で映した北極の中心に、巨大な穴ができたというのだ。映像の中では角ばった北極の氷に似つかわしくない滑らかなくぼみがあり、「隕石によるものか? 北極の氷に巨大な穴」というタイトルがついている。多分わたしが地球儀の北極に触ったことを言っているのだった。確かにあのとき、地球儀は氷のように冷たくてリアルに感じた。でも。

「ニュースでも言ってるじゃん。隕石でしょ」

 彼は絶望したかのような暗い顔をした。わたしは慌てて鼻歌を歌い、卵を調理台の角で叩いて中身を熱したフライパンに落とす。気づまりな時間だった。会社に行くとき、わたしたちは同じ電車に乗ったが、彼はほとんど言葉を発することがなかった。


     *


 会社で、彼は思い詰めた顔をしていることが増えた。わたしはあれから彼の家には行ったことがなくて、むしろ彼が誘おうとするとうまく逃げていた。オカルトな妄想に真剣にハマっている男というのは、まさに幻滅の対象だった。「美加さん」と下の名前を呼ぶが、苗字で呼んでくれと頼んだ。彼と噂になるのはデメリットだという気がした。むしろどうして彼と寝てしまったのだろう。あのときは彼を素敵だと思ったし、愛おしい気がしていたものだ。今は、全くそういう感情は起きない。

 昼休み、給湯室でコーヒーを作っていたら、彼が入ってきた。思いつめた顔だった。

「美加さん」

 わたしは慌ててコーヒーをカップに注ぎ、歩き出した。

「美加さん!」

 彼はわたしの空いた手を掴んだ。体が大きく揺れ、カップのコーヒーが手にかかる。熱くて悲鳴が出る。彼は慌ててわたしからカップを取り上げた。それからわたしの手を蛇口の下に持って行き、冷たい水を勢いよく出した。

「美加さん、ごめん」

 彼の体が背中を中心に密着し、わたしは彼の吐息を聞いた。何だか泣きそうなリズムのそれのせいで、わたしは思わず彼の顔を覗き込んでしまった。彼は泣いていなかった。でも、深刻な表情をしていた。

「美加さんのことが好きなんだ」

 水の音と彼の声が、絡み合うように交互に強弱する。

「一晩だけの関係なんて嫌だ。つき合ってほしい」

 わたしは水の流れる様を見つめていた。水は蛇のように真っ直ぐ落ちてきて、わたしの手の甲で激しく散ってはそれぞれの水滴が大きな音を立てる。勢いがよすぎて水滴の一部はわたしの顔にかかる。多分彼にもかかっている。彼の思いは本物だろう。彼がいい人だというのは確かで、彼は優しく真面目でわたしのことを好いていた。彼とつき合って、何が問題だというのだろう。

「ありがとう」

 わたしはレバーを上げて水を止めた。振り向き、彼の顔をまじまじと見る。彼は不安げにわたしを見ていた。

「あの地球儀と地球がどうのこうのって話をしないんなら、つき合う」

 彼の表情が明るくなった。何度もうなずき、ありがとう、と繰り返す。わたしは微笑み、

「今日松村君の部屋に行っていい?」

 と訊いた。


     *


 わたしと彼とは三ヶ月続いた。彼は申し分なかった。ちょっとした機会にわたしにプレゼントを買って来たり、得意ではない料理を作ってくれたりした。セックスは定期的にしていたし、別れる前日にもわたしたちは共にベッドでまどろんで、くすくす笑っていた。もうあの地球儀のことは頭になかったし、彼も何も言わなかった。彼はとても優しく、わたしに暴言を吐くこともない。むしろ優しすぎたのかもしれない。

 冬が近いある日、彼の家から帰るわたしのスマートフォンに、メッセージが届いた。前の恋人からだった。

「話がしたい」

 と書いてあった。話? 何の話を? わたしはもう松村君とつき合っていて幸せだし、あなたとはもう自然消滅してしまったのに? そう思っていた。あなたはわたしをほったらかしにして、連絡もよこさなかったのに? わたしのために料理もしてくれないし、話もろくに聞いてくれないのに? なのに指はスマートフォンをなぞり、返信していた。気づけばわたしは元の恋人に「いつ会えるの?」と返していた。


     *


 元の恋人、中瀬は編集者をしている。わたしたちが会わなくなったのは彼の仕事が不規則なせいだった。今日は仕事が早く終わったと言っていた。わたしは松村君のことを考えて後ろめたい気分になりながらも、今日は中瀬に引導を渡すのだから大丈夫、と考えていた。中瀬は眼鏡をかけた細面の顔をこちらに向け、レストランの席からわたしに手を振った。

「ごめん、呼び出して」

「いいよ」

 わたしはきっと、ぎこちない表情をしているだろう。席に着くと、中瀬はわたしを見て、「きれいになったね」と言った。顔が赤くなるのに気づく。どうしてこんなに反応してしまうのだろう。わたしは松村君とつき合っているのに。

「しばらく会えなかったし、もうおれたちって別れてるんだろうな」

 わたしは黙っていた。ただ胸の奥がずきんと痛んだ。わたしは中瀬が好きだったし、大学時代から数えて五年もつき合ったのだ。能天気な大学時代は絶対にいつか結婚すると思っていたし、彼の冷静で知的なところはわたしが最も好きなところだった。

「あのさ、もうつき合ってる人がいるかもしれないけど……」

 それを聞いて、わたしは僥倖だと思ってしまった。それに気づいたけれど、言うな、言うな、とわめくもう一人の自分の声は次第に小さくなり、遠くなり、聞こえなくなり、――気づけばこう言っていた。

「いないよ」

 中瀬は目を見開いた。わたしは罪悪感で吐き気がしていた。松村君の顔が目に浮かんだ。彼の微笑み、無邪気な言葉を思い出した。わたしは彼を裏切ろうとしていた。

「いないんだ」

 中瀬はほっと息をつき、笑った。彼の笑顔は柔和でありつつも、緩やかに外に向けて上がっていく濃い眉毛には彼の精神的な強さが現れていて、わたしの好むところだった。

「うん、いない」

 松村君の影はわたしの頭の中から消えた。わたしの中には中瀬が、中瀬だけがいた。彼はほっと息をつき、よかった、と笑った。

「じゃあ、うちに来ない? 久しぶりにさ」

 わたしは舞い上がるような気分になり、うなずく。

「久しぶりに美加の作ったナポリタンが食べたいな。あれ、好きだった」

「味覚が子供だよね、なかちゃんは」

 中瀬を呼ぶ自分の声が甘ったるくなっているのを感じる。彼はうなずき、

「料理上手だからな、美加は」

 と機嫌よく笑った。

 その日、わたしは松村君に別れを告げた。スマートフォンのアプリで、簡潔に。何で? どうして? と次々にメッセージを送って来る彼を、わたしはブロックした。会社で会うかもしれないが、どうにでもなれ、だ。わたしは中瀬とよりを戻せたのだ。もう、何だって平気だ。

 わたしはそれらを中瀬の部屋のベッドでこなした。最低だと思った。でも、中瀬と一緒にいられるということは、どんな悪女になろうとも価値があり、喜ばしいことだった。中瀬が「何してるの?」とベッドに潜り込んでくる。寝室は彼の煙草の香りがし、彼のベッドも以前と変わらず広い。壁には大きな本棚が並べられ、大量の本がそこに収まっている。

「何でもないよ」

 わたしは微笑み、彼の首に腕を絡みつかせた。


     *


 松村君は会社を辞めた。確実にわたしのせいだった。辞める直前の彼は、ミスが多く、目の下の隈のせいで陰気に見えた。わたしと眼が合うことは何度もあった。わたしはそれを無視した。

「彼とよりを戻したの」

 彼が辞める少し前、松村君に呼び出されて仕方なく行った屋上で、わたしはそう言った。彼は泣きじゃくった。何で、何でと繰り返した。冷たい風が首筋を撫でる。いい加減暖かい部屋に戻りたかった。わたしの心は完全に冷え切っていた。

「ごめん。彼のことが好きなの」

 こんな言葉、言い訳にはならないだろう。松村君は鼻をすすり、わたしを見る。子供のような彼の振る舞いに呆れる。可哀想だとは思うけれど。彼はしばらく泣いたあと、わたしがしびれを切らしてその場を去ろうとしたその瞬間、ふとつぶやいた。

 いまにみてろよ。

 そう言った。


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