#007_夜が明けて
「あれ、ここは……」
アスターが目を覚ますと、そこには見知らぬ天井があった。
背中に感じる寝床は固く、窓から差し込む光は朝の暖かさを帯びていない。
昨日まで寝起きしていた柔らかいベッドがここには存在しない。
その事実が示す意味に気づいてしまい、あるいはまだ夢の中であってほしいと願いながらその身を起こした。
『あら、おはようございます。昨晩はよく眠れましたか?』
声が聞こえたのと彼が部屋を見渡そうとしたのはほとんど同時の出来事だった。
その音色はアスターにとってはよく聞き慣れたもので、こんなに寒い部屋でも彼の体温を一瞬で温めてくれそうなものだった。
――あぁ、よかった。
――やっぱりあれは夢だったんだ。
安堵し、声のする方に視線を向ければそこには朝日を受けて煌めくブロンズの髪が、見慣れた彼女の元気な姿が――。
「あら、随分遅いお目覚めね。そんなに寝心地が良かった?」
扉を開けてこちらを見ていた、黒髪の少女――エリカだった。
両手で木箱に入った何かを抱え、感情の伺えない表情で部屋に入ってくる。
アスターが幻視したリリィの姿は、期待していた優しい言葉はどこにも存在しない。
ここにあるのは、朝になってもなお冷たい世界と、いつまでも夢から醒めたがらない彼を皮肉げに笑う言葉だけだった。
「あぁ、君は……そっか、ここはエリカさんの」
「そうよ。とりあえず外で顔でも洗ってきたらどうかしら。外に水を汲んでおいたから、使うと良いわ」
エリカは抱えた荷物を机の上にどさりと置きながら、アスターの顔を見向きもせずにそう言った。
彼の様子はよほどぼんやりとしているらしい。
「うん、そうさせてもらおうかな……」
顔を洗えばいくらかはスッキリするかもしれないと、彼女の言葉に従いアスターは部屋を出る。
水は部屋のすぐ脇においてあったのですぐに見つけることができた。
しかし、その量は彼が思っていた以上に少なく、小さな桶に一杯程度。本当に顔を洗うのにぎりぎり足りるかどうかといったくらいの量しかなかった。
「……水、貴重なのかな」
粗末な部屋にほんの僅かしか用意されていない水。
そして目の当たりにした荒廃した大地。
いくつもの情報が指し示す厳しい現実は、寝ぼけていた少年の頭を叩き起こすには充分すぎるものだった。
「顔洗うの、止めておこう」
水を使わずともしっかり目覚めた頭で、改めて彼は外の様子を認識し始める。
薄暗いし肌寒いが、日はしっかり出ている。
賑やかではないが、遠くでは人々が喋っているような音が聞こえてくる。
地面は街の外ほど枯れ果てているという感じはせず、少し乾燥している程度だ。
昨晩感じた死んだ街の気配はもうどこにもない。
この街は確かに生きている。
肌で触れ呼吸で感じた僅かばかりの命の可能性に、アスターの絶望は少しだけ和らいでいた。
「少しは見れる顔になったみたいね。水の代金はおまけしておいてあげるわ」
部屋の中に戻ると、机の上にたくさんの何かを広げながら彼女が出迎えてくれた。
なんとなく嬉しそうな声音だった。
「エリカさん、ありがとう。せっかく水を汲んでおいてもらって申し訳ないんだけど、外の空気を吸ったら目が覚めたから水をいただくのはやめておいたよ。他のことに使って」
「ふうん、世間知らずだけどバカでは無いみたいね」
アスターの言葉に意外そうな反応をしながらも、その言葉の意味するところはしっかりと理解しているようだ。
今度は声音だけでなく、表情からも喜びの気配が伺えた。
「そんなことよりいつまでそこに立っているの? 早くこっちにきて座りなさいよ。ご飯、食べるでしょう?」
「ご飯?」
そう言われて、アスターは自分が昨日から何も食べていないことをようやく思い出した。
認知は身体機能を正常に戻し、彼のお腹から大きな音が鳴り響いた。
「やっぱり人間の身体っていうのは正直ね」
「ははは……そうみたい。お言葉に甘えちゃっていいの、かな?」
「誘っているのだからいいに決まっているでしょう」
じゃあ遠慮なく、そう言って用意された席についたアスターは、目の前に広がっている物を間近で見て絶句してしまった。
「ええと……これがご飯?」
「そうだけれど、少なかったかしら?」
エリカは何かおかしいことがあったかと、本当に分かっていないような様子だ。
「いや、量はその、すごく多いように見えるんだけど……何ていうか言いにくいんだけど……」
アスターが驚いたのは量が原因ではない。
水のことで食料なども貴重なのかと少し考えていたところだったから、むしろ机いっぱいに並んでいる物の多さには感心していたたくらいだ。
だからこそ、どうしてもその先の言葉を口ごもってしまう。
「? はっきりしないわね。言いたいことがあるなら言いなさいよ。私は怒ったりしないわよ」
そんなアスターの様子にエリカはしびれを切らしたのか、先程までの嬉しそうな様子から一転して脅迫するような強い口調になっていた。
普通にしていても迫力のある目が、さらに鋭くアスターの目を射抜く。
少しの間その眼光に耐えていたアスターは、やがて根負けして目をそらしながら、本当に言いにくそうに呟いた。
「とても食べられる物に見えないんだけど、本当にこれは人間の食べ物、なの……? 僕には泥水とか炭の塊とかにしか見えないんだけど……」
「……」
一瞬の沈黙。
アスターの酷評はエリカにとって本当に想定外だったようで、その言葉の意味をじっくり反芻するかのように料理と、アスターの顔とを交互に見つめている。
「そう……あなたのところはよほど豊かだったのね……それは少し羨ましいと感じるわ」
エリカは少しだけ遠い目をしながら呟き、けれどもと言った。
「すっかり慣れてしまっていたから気づかなかったけど、でもここではみんなこういうものを食べているわ。パンは確かに真っ黒だしカチカチだけど、こっちの泥水にしか見えないゴチャリスープと一緒に食べれば結構いけるのよ。あとこっちは――」
エリカの談では、見てくれが悪くともみんなコレを食べているし、なんならここに並べているものはどれもエリカが気に入っている『結構美味しいもの』ばかりらしい。
どうやら彼女は味には結構うるさいらしく、料理を一つ一つ解説しながら食べ方も実演して見せてくれた。
「とにかく、食べず嫌いはよくないわ。ひとくち食べてから判断しなさい」
「そ、そうだね」
ある程度解説が終わったところで、まずは定番のところからと初めに解説したゴチャリスープと炭のようなパンを押し付けられた。
リリィがいつも用意してくれてくれていたふわふわの白いパンと違って指でちぎることすら困難な炭パンに苦戦しながら、なんとか食べやすい大きさを手に取り、覚悟を決めて泥水もといゴチャリスープと一緒に口に入れる。
見ちゃうからダメなんだと目を固く閉じ、それらを口に入れた瞬間……不思議な感覚が舌の上を駆け巡った。
それは大地の味だった。
いつも飲んでいたスープの、舌の上で解けていくような優しい甘さは一切ない。
作られてからしばらく置いてあったのか、温かさもほとんど残っていなかったが、しかしそれが逆にこのスープの不思議な味を引き立てているような感じがした。
少しの苦味と、深みのある香ばしい香り。
炭パンを始めとした、スープに入っている複数の具材による食感のアンサンブル。
これらが力強く響き合い、アスターの味覚に強く訴えかけてくる。
これこそが食事なのだと。
誰かの優しさを感じるのではなく、力強い生命の息吹を感じるのが食事なのだと。
「……おいしい」
気づいたときにはアスターの口からそんな言葉が漏れ出ていた。
もちろん、故郷で食べた料理のほうがはるかに良い食材を使っているのはすぐに理解できたし、おそらく単純な味比べでも同様のことが言えるだろう。
けれどもこの料理には、そんな道理を覆す程のなにかがあった。
「それはよかったわ。遠慮せずにもっと食べると良いわ」
「ありがとう、そうさせてもらいたいけど……これはちょっと多すぎるよ」
これなら空腹感も手伝っていくらでも食べられそうだと言い切りたかったアスターだが、実際目の前に用意された料理はとてもじゃないが食べ切れる量ではなかった。
彼女の話しぶりからして、きっと自分にいろいろな料理を知ってほしかったのだろう。
感謝は示しつつも、眉をひそめて困惑していることもしっかりと主張する。
しかし当の本人は、そんな彼の仕草を見てかえって困惑したようだった。
「何言ってるの? 私一人分のをあなたに少し分けてあげると言っているだけよ?」
「……え?」
全く本当に僕はどこに来てしまったんだろうと、アスターは天井を見上げることしかできなかった。