#006_壁に囲まれた夜の街
「これが……街?」
廃墟から歩くことおよそ三時間。
日は完全に落ち、辺りはすっかり闇に包まれていたがエリカには道なき道が見えているらしく、無事辿り着くことができた。
けれどアスターの目にはどうしてもそれが街とは思えなかった。
いま彼の視界を埋め尽くしているのは、壁だった。
暗いのでその全容をはっきりと捉えることはできないが、それでも間違いなくそこにあると言える圧倒的な存在感。
高さ五メートルはあろうかという巨大な壁。
照明の類いは一切灯されておらず、外の者を優しく迎え入れてくれそうな雰囲気は全く感じられなかった。
「そうよ。悪いけど質問があってもそれはあとにしてくれないかしら。あなたの足が遅いおかげでいつもの倍以上も時間がかかったのだから」
「あ、うん……はい……」
それでもエリカは勝手知ったるといった風で間近まで歩み寄り、壁に向かって手を伸ばした。
すると彼女の近くの壁に大人一人分ほどの穴が現れ、中から明かりが漏れてきた。
正門にしてはずいぶん小さいから、きっとそこがこの壁の通用門なのだろう。
「何ぼさっと突っ立ってるの? 早く入るわよ。あとくれぐれも変なことはしないでちょうだいね」
「ご、ごめん」
アスターが扉をくぐって一歩進むと、すぐ後ろで機械音がなり通用門が閉じられるのが聞こえた。
そのことに少し驚き思わず振り返ってしまう彼だったが、そうこうしている間にもエリカはどんどん前へ進んでいってしまうので、何を考える暇も無いままに走って彼女を追いかけるしかなかった。
「エリカの姐御! 随分遅かったじゃねえですかい!」
「皆心配――はしてねぇですが不安そうにしてましたですぜ」
壁の中と思われる通路を抜けた先で待っていたのは二人組の屈強そうな男たちだった。
近くの小屋の扉が開きっぱなしになっていることから、おそらくエリカがやってきたことに気がついて出てきたのだろう。
二人共随分エリカのことを慕っている様子だ。
「ええ、ちょっと大きな拾い物をしちゃったおかげでね。あなた達も人間なのに夜遅くまでお疲れ様」
エリカの方もこの二人の男に対しては随分親しげな様子で応じている。
その口ぶりから推察するに、男たちはあの小屋で働いているのだろう。
「拾い物……その男ですかい? 随分いい服を着てるみてぇですが、信用できるんですかい?」
「信用はできないわね」
「そんならこの先にそいつを通すことはできねぇですなぁ」
エリカが言った途端、男たちの穏やかそうな雰囲気が一転し、アスターを威圧するように取り囲み始めた。
まるで――いや、本当によそ者を街から徹底的に排除するような姿勢だ。
敵意というものを一切知らずに育ってきたアスターでも、この剣呑な雰囲気には思わずたじろいでしまう。
「けれど」
きっかけを作ったのがエリカだったのなら、またアスターを助けるのもエリカの一言だった。
「けれど、彼は今私の管理下にあるわ。この街に害をなすようなことは一切させないと私の名にかけて保証するわ」
彼女がただそれだけ言うと、男たちはあっという間にむき出しにしていた敵意を引っ込め、アスターから離れていった。
そんな彼らの様子を、アスターはただ黙って見ていることしかできなかった。
「エリカの姐御がそういうんならこっちに文句はねえですよ」
「それじゃ、俺たちゃ監視の方に戻るとしますですぜ」
「ええ、手間取らせたわね」
街の内部もやはり真っ暗だった。
夜になったとは言え、まだ街中が寝静まるには随分早い時間だというのに、静寂に包まれている。
アスターの国ではこのくらいの時間になると酒場で飲み交わす者たちの笑い声や路上で開かれるコンサートの愉快な調べが街中を包み込んでいたものだ。
街路はいくつもの街灯や立ち並ぶ家から漏れ出す光で照らし出され、夜であることを忘れてしまうほどの賑やかさだった。
けれどこの街にはきちんと夜が訪れるらしい。
このことがアスターをひどく不安にさせた。
本当は街なんてものはなくて、エリカとの出会いも大きな壁も全て死に際の自分が見ているただの幻覚でしかなくて、実際にはまだ自分はあの猫に殺されかけているんじゃないか。
そんな嫌な考えばかりが脳裏に浮かんでくるのであった。
「……あの、ここは本当に生きてる街……なの?」
壁の内側に入る前に質問は後にしろと言われていたものの、募る不安には抗えなかった。
恐る恐る、疑問をエリカに投げかける。
「夜とはいえまだ明かりをつければ充分起きていられる時間ですよね……? なのにこんなに静かで明かりも全然なくて……ここも本当は廃墟なんじゃ……」
けれど彼女はなかなか答えようとはしない。
アスターの不安は一層募るばかりだった。
次第にため息や、諦めのようなひとりごとが増えていく。
「全く、黙って歩けないの?」
そんな彼の様子にしびれを切らしたのか、ついにエリカが口を開いた。
怒っているわけではなさそうだが、少なくとも楽しげな口ぶりではない。
「いい? あなたの国ではどうだったのかは知らない。けれど夜に明かりをつけるなんてそんなエナージュの無駄遣い、この辺境の街でできるわけ無いでしょう。日が落ちたら人間は寝る。日が昇ったらまた活動する。それだけの話よ」
「そ、そっか、ごめん」
彼女の説明で納得できたかと言われれば微妙なところだったが、しかしいつまでも自分の常識で考え続けるのは良くないのだとアスターは気付かされた。
ここは彼の知っている世界ではないのだ。
これ以上下手なことを言って彼女を怒らせてしまっては、どうやって生きていけば良いのかもわからなくなってしまう。
そう考え、少しだけ安心しながらも癖のように謝罪の言葉を付け足した。
「いちいち謝らなくていいわ。そんなことよりほら、ついたわよ」
立ち止まったエリカが案内してくれたのは、家と言うには随分粗末な作りの小屋だった。
仮設住宅と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
「ここは?」
「私が借りている部屋よ。いいから入りなさい」
内部は外見から予想できる通り、あまり快適そうな作りをしていなかった。
硬くて寝心地の悪そうなベッドには申し訳程度に薄い布が二枚敷かれていて、これではどっちが敷布団でどっちが掛け布団なのかもわからない。
部屋の中心にある机はもはや机と言っていいのか怪しいもので、何処かで拾ってきた四角い金属を少し机風に加工しただけにしか見えない。
服をしまうためのクローゼットもないし、女性なら絶対に使うであろう鏡も見当たらない。
とにかく雨風をしのげればそれで充分と言わんばかりの内装だ。
「今日はどうせ疲れているでしょうから、あなたは寝なさい。そのベッド使っていいから」
ずっと抱えていたリリィの亡骸を部屋の片隅におろしながらエリカが言った。
無愛想ではあるが、アスターを客人として丁重に扱おうという気持ちはあるようだ。
「え、でもそしたらエリカさんはどこで寝るの?」
「私は床でいいわ。というか別に寝る必要もないのだけれど」
「そんな! 女性を床で寝させておいて自分だけベッドで寝るなんてできないよ!」
「女性、ね。つまらない気なんて利かせないでいいから私の言うことをききなさい。あなたの身体、自分で思っている以上に限界みたいよ」
エリカはアスターに近づくと、女性とは思えない腕力を発揮して彼を無理やりベッドの上に押し倒した。
リリィ以外の女性にここまで近づかれたことはなかったので、うぶな少年はついドギマギしてしまう。
「それじゃ、おやすみ」
そんなことを知ってか知らずかあっという間に彼から離れると、エリカは部屋に入ったときに付けておいたランタンの明かりを消してしまった。
やっぱり自分だけベッドで寝るなんてできない――そう言いたかったアスターだが、彼女の言う通りとても疲れていたのだろう。
寝心地は良くなかったが、それでもあっという間に瞼が落ちていき、程なくして、アスターの規則的な寝息が聞こえ始めた。
こうしてアスターの、おそらく人生でもっとも長い一日は終わった。