#53_旅の日常と移民旅団
依頼を受けることになった翌日、アスター達はメフッタを後にした。
目的地であるフォーリアは中央都市と呼ばれるだけあって都市間で商隊の行き来が盛んであり、彼らが通る比較的安全なルートは幾度も踏み鳴らされ、街道とでも言うべき道のりに仕上がっていた。
おかげで車体の揺れも少なく、本来であれば快適な旅が始まろうとしていたのだが――。
「それで? あなたはなぜ当たり前のような顔をして私たちの車に乗っているわけ?」
移動を開始してからすぐに、わざとらしくジト目を作ったエリカが不満げに指摘した。
「おや、変ですね。同行してもらう――と言ったではありませんか。エリカさん、何か問題でも?」
ニコニコと害のない笑みを浮かべながら後部座席に座るヴェロニカは悪びれた様子もなく、わざとらしく顎に指を当てた。
思わずエリカはため息をつく。
「はぁ……。同行、とはよく言ったものだわ。全く、本当は単にフォーリアへの足が欲しかっただけなんじゃないかしらね」
「さて、どうでしょう」
横目で二人のやり取りを見ながら、アスターは苦笑いするしかなかった。
勝負に負けた以上自分が文句を言うわけにはいかないし、最初に「同行」という言葉の意味するところをしっかり確認しなかったのはこちらの落ち度だ。
それに、一人くらい乗員が増えたところで手狭になるほどこの車両は小さくない。必要な物資もヴェロニカがほとんど手配してくれたのだから、むしろ歓迎するべきだろう。
ただそれでもエリカが不満げなのはきっと――、アスターが負けてしまったこと自体への不満、というか悔しさのようなものの表れなのかもしれない――少なくともアスターはそんな風に思いたいと考えていた。
「事実はさておき、このような形にした方が都合が良い事もあるんですよ」
すっと冗談めいた笑みを消したヴェロニカがそう言うと、ぷいと外を向いたままのエリカはちらりと後部に目線をやった。
意図が気になるものの不満げな態度を見せた以上素直に興味を示せない、そんな雰囲気が感じられた。
「どういうことですか?」
「政治的なお話……とでも言いましょうか。わたくしとルルがお二人を引き連れてフォーリアに移動した、となると少々面倒な輩に邪推されてしまうのですよ。アスターさんはともかく、エリカさんは有名ですからね」
「……」
アスターの口から、思わず言葉にならない呻きともため息とも取れる微妙な音が漏れて出た。
目立たないように行動しているし、こちらに来て日が浅いのだからあまり知られていないというのは良く理解していた。
けれどこうして直接、「あなたは誰にも興味を持たれていない」と言われてしまっては、彼の繊細な心が僅かなひっかき傷を感じてしまうのも仕方のないことだろう。
それに今は澄ました風を取り繕って窓の外を眺めているエリカも、「アスターさんはともかく」の部分で一瞬アスターの方を向いてちょっとだけ笑っていたのだから尚の事である。
「ふふ、すみません、悪気があったわけじゃないんですよ」
そんな二人の様子を見て、ヴェロニカはいつもより楽しそうにしていた。ここに来てようやく、ささくれ立った空気がふっと和らいだようだった。
「ええ、分かってます」
「それでしたら、安心しました。ええと、それで、ですね。そういった理由で、フォーリアへ行きたいけれどルルが任務中で護衛役が見つからず、たまたま同じ街にいたエリカさんに護送をお願いした、という形にしたほうが都合が良かった、という次第です」
「なるほど……」
この世界はアスターが思っている以上に面倒なことが多いのだろう。
けれど、そういった面倒くささも存外悪いことばかりじゃないのかもしれない――と軽くなった車内の空気を肌に感じながら、アスターはぼんやりと考えるのだった。
フォーリアへの旅は拍子抜けするほど順調に続いた。
もともとよく使われている街道を走っているからミレスも多くは出現しないし、所々に繰り返し野営に使われている休憩地点のような場所があったから、すっかり旅慣れしたアスターが困ることは何もなかったのだ。
強いて言うなら、敵襲がなさすぎてエリカが手持ち無沙汰にしていたことくらいだろうか。
移動中はいつでも戦闘に出られるようにアスターが運転するようにしていたが、それでもミレスが出ない日は全く遭遇しないくらいだったから、時折休憩も兼ねてエリカと交代することすらあった。
これはちょうど、エリカにハンドルを任せていたその時の会話である。
「ヴェロニカさん、何をしてるんですか?」
後部座席に座っていたヴェロニカの様子をふと見てみると、彼女はどこか虚ろな目……というか、遠くの方を見ているような目をしていた。
気でも失っているのか、と疑いたくなる雰囲気すらあったものの、しかし姿勢はいつも通りピンと伸びたままだったし、車が跳ねた時にはきちんと体が持っていかれないように踏ん張っている様子もあったから、意識があることは間違いなかった。
「あぁ、気になってしまいましたか? すみません、これをしているときはどうも外から見ると不審に思われてしまいますよね」
アスターが尋ねると、ぼんやりとしていた瞳はすぐに間近に焦点が戻り、普段通りの彼女に戻った。
このままでは余計に謎が深まりそうだったので、改めて問い直す。
「これ、と言うのは?」
「読書ですよ。本を読んでいました」
「……本?」
読書といえば、タブレットに保存した電子書籍を読むのが普通だが、ヴェロニカは特に何も持っていない。あるいは小型のデバイスで網膜に直接投影することもあるだろうが、その場合にはむしろ視点は近くに定まるだろうから、そちらでもないのだろう。
「完全記憶能力、とでも言うのでしょうかね。わたくしは記憶の中にある本の映像を思い出して、どこでも読むことができるんですよ」
アスターは答えに困窮した。
当然だ。文献でしか読んだことのない能力を持っている人が目の前にいたのだから。しかもそれでやっていることが読書、なんて言うのだから、ますます理解に苦しむのは道理である。
「もちろん、読むだけであれば電子媒体でも良いんですけれどね。わたくしはその……紙の本、と言うものが好きでして。クレイシアに所属していると紙の書籍を手にする機会に恵まれることがあるのですが……それでも保存のことを考えると外を持ち歩くのは難しく。こうして記憶の中にある本を思い出して、匂いや色、空気感のようなものを楽しんでいるのです」
「ああ、なるほど」
ようやく、アスターにも理解できる説明を貰うことができた。
紙の本でしか味わえない、独特の感覚。目だけでなく全身で感じるようなあの体験は、彼も好きだった。
かつて過ごした実家の書斎でまた夜通し読み耽りたい――そんな気持ちが心の奥底からふつふつと湧き上がってくるのをアスターは感じた。
「完全記憶能力っていうのはとても大変なこともあると聞いていますが……ヴェロニカさんの使い方はとても、とっても素敵な使い方ですね」
それは素直な感想だった。彼にとっては当たり前の、なんてことない言葉。
けれどヴェロニカにとっては予想もしなかった言葉だったらしく、一瞬だけ目を大きく見開いてから――すぐに優しく、はにかんだ。
いつでも大人びた様子しか見せないはずの彼女が初めて見せた、少女的な笑顔だった。
フォーリアまで残り二日ほどの所まできた昼下がりのことだった。
退屈そうに外を眺めているエリカの横で、アスターは異変に気がついた。
「ねえ、なんか着いてきてない、かな?」
彼が運転する車両の後方に視線を向ければ、約百メートルの距離を保ちながら追いかけてくる車両の影があった。それも一台や二台ではない。大小様々な車両が群れをなして走っていたのである。
アスターが気づけたくらいだ。当然エリカもとっくに気づいているはずだったし、また読書をしているらしいヴェロニカも、おそらく認知はしているのだろう。
けれど彼女らは、特に気にした風もなくのんびりとしている。
だから気にする必要はないのかもしれなかったが、それでも、以前言っていた面倒な輩なのでは……と思い始めていたアスターは、心配になって声に出して聞いてみたのである。
「後ろのアレのこと?」
「うん。もう十分以上あの距離で着いてきてると思うんだけど」
「私たちが気にする必要はない連中ね。別に襲ってくるわけでも訳でもないし、ほっとけばいいわ」
「……そうなの?」
話す価値もない、とでも言わんばかりの適当さだった。
おかげでアスターは余計に気になってしまう。
「あれは移民旅団ですよ」
「移民旅団?」
そんな彼の様子を感じ取ったのか、読書をやめたヴェロニカが代わりに教えてくれた。
彼女の口調もまた、特にそれ自体をなんとも思っていない、淡々としたものだった。
「僻地の集落で生活がままならなくなった人々が、新たな生活拠点を求めて旅をしてるんです。遠くなので分かりにくいかと思いますが、車両が随分古びているでしょう? 資源をかき集めてなんとか動かしている……そういう集団なのですよ、あれは」
「でも、どうして僕たちをつけ回すようなことをしてるんですか? そんなに必死なら、他人を追いかけている余裕なんてないと思うんですが」
「必死だからこそ、ですよ」
アスターが素朴な疑問を投げかけると、ヴェロニカは伏し目がちにそう言った。
憐れみを覚えている。そんな印象のある声音だった。
「自分たちの村ではこれ以上生きることもままならない。そんな状況では護衛を雇うのも困難。けれどいま新天地を目指さなければ、未来はない。だから、戦うことのできる誰かの影に隠れ、ひっそりと着いていくことしかない。それが移民旅団なのです」
「旅団なんて聞こえのいい呼び方はするべきじゃないわね。戦うことも逃げることも自分じゃ何もできない、半端者の寄せ集め。埃以下のガラクタ、よ」
エリカの棘のある言い方を聞いて、ヴェロニカは曖昧にはにかんだ。彼女の認識の方が正しいと認めつつも、立場上あまりそういう表現はしたくはないのだろう。
改めて、アスターは後方を走る集団を見る。
もしもエリカに出会うことが出来ていなかったら、自分もあんな風に旅をするしかなかったのかもしれない。いや、むしろ今も彼らと自分との間に大差はないのだろう。結局、エリカという強大な存在に一方的に依存しているのは同じなのだから。
そんな風に思っていると、不意にエリカが呟いた。
「……あなたは違うわよ」
後部座席までは届かなそうな、隣に座るアスターですら気のせいかと思うくらい小さな声だった。
思わず、彼女の姿を二度見してしまう。
エリカは変わらず、窓の外を向いたままだった。けれど、先ほどよりも僅かに深く横を向いていて……まるでアスターに顔を見られたくないかのようだった。
「そうだといいな」
ペースを落とさないようアクセルを調整しながら、誰にも聞こえないようにアスターは小さく呟いた。
見えない表情が、ふっと笑ったような気がした。




