#51_ヴェロニカとの勝負
「準備はよろしいでしょうか」
「ええ、いつでも」
エリカがまだ何か言いたそうな顔をしていたが、アスターは無言でそれを制止した。
おそらく、本当にルールを守られるのか根拠がない、とでも指摘したかったのだろう。実際、ヴェロニカがそうしようと思えば正解を誤魔化すことはいくらでもできる。万全を期すならば、あらかじめ答えをどこかに書いてもらうべきだ。
だが、アスターは敢えてその提案をしなかった。
自分はあなたを信じるのだから不正なんて無粋な真似をしないでくれと、言葉にしないことで彼女に伝えたのである。
もうすでに駆け引きは始まっているのだ。
騙し合いならば、ルールの中ですれば良い。知恵比べとはそういうものなのだと、アスターとヴェロニカとは無言の中で合意しあっていた。
「それでは。わたくしの方はすでに答えを決めてあります。一つ目の質問をどうぞ」
微笑でゆったりと待つヴェロニカの眼差しをじっと受け止める。
使える質問はたったの五つ。これだけで答えに辿り着かなければいけないのだから、無駄な質問は一回だって出来やしない。
アスターはまず、彼女という人となりについて考えることにした。
ヴェロニカ。クレイシア所属の、確か――高等監視員、と言ったか。ネーヴァの管理を主にしている局に所属しているらしい。ドサの街でクレイシアの局員がとっていた態度を考えれば、立場的にはかなり上の方にいるようだ。
見た目から推察できる年齢から考えれば、相当なやり手であるということがよく分かる。
実際に話をした感触としても、彼女からは何か年齢以上の凄みのようなものが感じられる。大人の余裕……というよりは実力からくる自信の表れ、というべきだろうか。
少なくとも、卑怯な手段で勝ちを無理やり奪い取ろうとするような小っぽけな器の人物ではない。
アスターが考え込んでいる間、誰一人として微動だにしなかった。ネーヴァであるエリカがいつまででも同じ姿勢をとっていられるのは勿論のこととして、対峙しているヴェロニカもまた、身じろぎ一つしなかった。
彼女がどうぞと言ってから、もう十分は経過している。普通ならそろそろ質問をしてくださいなどと催促をするところであろうが、この人物はそれすら無粋とでも思っているのかもしれない。
そんな人物だからこそ――アスターはようやく確信して、口を開く。
「その人物は、僕の知っている人物ですか?」
「いいえ」
ヴェロニカの回答には迷いがなかった。
質問を聞き取り、脳内で咀嚼し、正しく理解した上で適切な答えを簡潔に述べる。変に考え込むことはなく、されど予め質問されることを予想していたというような即答でもない。
時間を測っただけでは嘘を見抜けない、絶妙な間隔での回答だった。
「次の質問をどうぞ」
アスターは心底ホッとしていた。
この質問は、いわば試金石だ。ヴェロニカという人物が本当に考えている通りの人物なのか、見極めるための問い。
彼女がイエスと言おうがノーと言おうが、それはどちらでも良い。彼が知りたかったのは、彼女がどう答えるか、ただその一点のみである。
そしてその一点において、彼女は彼の予想通りの反応を見せた。
だから、安心して質問を続けられる。
「その人物は、クレイシアに関わりがありますか?」
「はい」
相変わらず淀みのない答えが返ってくる。
眼鏡の奥で光る琥珀の瞳はどこまでも透き通っていて、心を読ませてくれない。机の上で組まれたまま置かれた両手の指一本一本すら彼女は弄んでおらず、どこまでも真摯に勝負に応じているようにしか見えなかった。
果たして、ヴェロニカは既に嘘をついているのか?
アスターは彼女から目を離さず、少し思案する。
もう一つ判断材料を増やすか、あるいはあの質問をもうぶつけてしまうか。
初めから残弾数の少ないこの勝負。これ以上、無駄撃ちはできないが……。
「三つ目の質問です」
迷いを誤魔化すような無意識の宣言が、アスターの口をつく。こんなものには何の意味もない。だが意味がないからこそ、それが意味することを明確に悟られてしまった。
ヴェロニカは黙ってほんの僅かに首肯し、続きを促した。
「ここまでの質問で、既に嘘をつきましたか?」
結局、それがいけなかった。
充分な吟味をしきれないまま、最も重要な手札を切らさせられることになってしまった。
今回のルールにおいて、ヴェロニカがどの質問に嘘を使ったのか、という情報は極めて重要なものである。その重要性はエリカにだって分かるほどだ。
どの質問に嘘を使ったのかさえわかれば、全ての質問の答えが肯定か否定しかない以上、嘘は嘘で無くなる。ヴェロニカにしてみても、ルール自体が彼女に有利なものであるとはいえ、この情報は隠し切りたいところだろう。
ここで大切なのは、この質問をすることで前後の質問のどちらかは百パーセント信用できるようになる、という点である。
もしもノーと言われた場合。まだ嘘をついていないのだから、この質問の正しい答えはノーであり、嘘の権利は残っている。そして、自動的にこの質問にも嘘を使っていないことになる。
一方もしもイエスと言われた場合。本当に既に嘘をついているか、この質問自体に嘘を使ったかの二択になる。どちらにしても、この質問以降の問いの答えは全て信用できる、という結果が得られる。
戦略的にはバランスをとって三つ目にこの質問を投げかけるか、あるいはヴェロニカが慎重になることを見越して四つ目に使う――このどちらかになるだろう。
果たして、彼女はどちら側の人間なのか。
核心をつくような質問を恐れるなら、嘘の権利は最後まで残す。だがアスターがそう考えることを予想し、勝負に出るなら早い段階で嘘をつくことも十二分にあり得る。
結局、高度な心理戦にしかならないのだが……なんとなく、アスターは今この質問をしても『いいえ』としか言われないのではないかと思っていた。
だが、
「はい」
彼の予想に反して、ヴェロニカの答えは『イエス』だった。
ほんの僅かにアスターは目を見開いてしまう。
――まずい、動揺を気取られる。
まさか最初の二つのどちらかで既に嘘を使っていたのだろうか。それとも、そう思わせるためにここで嘘を使った?
答えた瞬間の彼女の反応には、特に変わったところはなかった。今までと同じくらいの時間を使って、迷いらしい迷いも見せず。
アスターは今、完全にヴェロニカの掌の上で転がされているような気分になっていた。
いいや、落ち着こう――きちんと整理して考えれば大丈夫だ。
この勝負は、そういう戦いなのだ。
誰かの命が懸かっているわけではないが、これから先どちらが主導権を握っていくのか、それを決める戦い。負けるべき戦いではないのだ――とじっとり滲み始めた手の汗を拭いながら、アスターは呼吸を整えた。
ここまでの質問を整理すると、次の三パターンのいずれかに当てはまる人物が答えになる。
『僕の知っている人物であり、なおかつクレイシアに関わりがある人物である』
『僕の知らない人物であり、なおかつクレイシアに関わりがない人物である』
『僕の知らない人物であり、なおかつクレイシアに関わりがある人物である』
絞り切れているようで絞り切れていない。そういう印象をアスターは感じた。
ここからあと二回の質問で、少なくとも二択くらいには絞り切る必要があるだろう。
出来るだろうか。不安がどうしても浮かんできて、ついヴェロニカの様子を伺ってしまう。
相変わらず泰然とした様子で、アスターが迷いを見せたとしても無用に増長する気配もない。
次の質問を考えるのにどんなに時間を使ったところで、彼女の態度から情報を引き出すことは難しいだろう。
追い詰められつつある、というのが率直な見立てであった。
だが……ヒトというのは不思議なものである。
相対する敵が強大であるほど、困難な状況に置かれるほど、ヒトは普段発揮できる以上の実力を示すものだ。
特に才能があるものならば尚更なことで……彼らは一線を超えた時、世界の見え方すら変わってしまうという。人々はかつてそのような状態のことをゾーンに入った、などと称したようだが……今のアスターはそれにかなり近い状態にたどり着いていた。
変化は突然だった。
彼は憑き物が落ちたようにふっと一つ息を吐くと、肩に入りつつあった力をすとんと抜き去った。
瞳はかつて天上に煌々と輝いていたという星のように光を帯びはじめ、部屋に満ちた空気そのものが彼を中心に流れ始めたようだった。
「その人物は、ヒトから生まれた人間……つまりヒトですか?」
その空気に、さしものヴェロニカも呑まれてしまったのかもしれない。
呼吸よりも自然に吐き出された問いかけに一瞬反応できなかったのか、彼女自身が呼吸を忘れたように口を開きかけて止まった。
一方で、質問をした当の本人は自分自身の変化に気づいていないらしく、おかしな反応を見せる彼女を見て首を傾げている。『聞き方が悪かったのかな?』なんて思っていそうな顔だ。
それがなんだか可笑しくなって、ヴェロニカは直ぐに自分自身を取り戻した。
「いいえ」
ぴしゃりと言い放つ態度は結局今まで通りのものだった。
ちょっと雰囲気が変わっただけで飲まれるなんてあり得ない、と自分に言い聞かせるようにヴェロニカは小さく首を振った。
「最後の質問です。その人物と僕は会ったことがありますか?」
「はい」
それほど間をおかずに投げかけた質問は、最終確認でしかなかった。
あっさりとした様子の受け答えでアスターは自身の辿り着いた答えに確信を持つ。
「それでは、答えをお聞きしましょうか。もちろん、少し考えていただいても構いませんよ」
「いえ、大丈夫です」
すぅと息を吸い、自信を持ってアスターはこう答える。
「答えは……ルル、ですね?」
微笑を湛えたままの彼女の目が、ほんの僅かに見開いたような気がした。




