#46_静謐の邂逅
静かな部屋に、キートップを叩く音がリズミカルに響く。
ときに大胆に狂詩曲を奏でるがごとく、ときに小気味よく円舞曲を奏でるかのように。アスターは電子の世界で過去の誰かと踊り、対話し、そして戦っていた。
(このセキュリティプログラムを組んだ人は本当にすごい……! 僕が思いつきそうな手法を全て予見しているみたいだ……試す手試す手、全部弾かれる……っ!)
それは単に、開発者が徹底してセキュリティホールを埋め尽くしておいただけなのかもしれない。ハッキングなど所詮、プログラムに意図しない動作をさせてその間隙をついているだけに過ぎない。きちんと一つ一つ例外を弾くようにしておけばそれで対策としては十分事足りるのだ。
しかしそれでも、手の内を予見されているなどとアスターが思ってしまう位なのだから、きっとそこにはそう感じさせる何かがあるのだろう。
例えば、さも見つけにくい脆弱性が潜んでいるかのように見せ、しかしそれを利用しようとすれば上手い具合に別の仕組みが邪魔をするようになっているとか。あるいは、そもそも解析をしようとする人に謎掛けを出すようなプログラムが仕込まれているだとか。
どちらにせよ、アスターがこのセキュリティプログラムを組んだ人間を称賛する以上に、それを理解し、短時間で幾つもの攻撃手段を思いつく彼こそ、天才なのではと言わざるを得ないだろう。
実際の所、彼の技術力がどうであれ、少なくとも集中力に関しては人並み優れたものがあるのは間違いなかった。
本来は二時間はかかると見積もっていた作業を一時間で終わらせると宣言したアスターの視界には、もはや対話を重ねるコンピュータ以外のものが一切写り込まなくなっていた。
それだけではない。彼の耳から入る音という音は全てそのまま逆側の耳へ突き抜けていってしまう、僅かな空気のゆらぎさえも彼の肌は知覚しない。元々無臭の部屋で嗅覚を働かせる必要もないし、いわんや味覚も使わないのだから、彼が今使っているのは五感のうちではたった一つ。視覚――それも限界まで絞りきったレンズのような――だけということになる。
だから当然、エリカがいつの間にか隣の部屋の探索を始めたことには一切気づけなかったし、部屋に起こった異変というものにもすぐには気づけなかったのだ。
その瞬間は、凪いだ水面にそっと手のひらを差し込むかのように訪れた。
彼の完全なる集中を容易く砕いたのは、ひどく無個性で、可愛げも美しさも無い、けれど妙に耳に残る少女の小さな声だった。
「キミ、だぁれ?」
その声にハッとして振り向くと、そこには確かに少女が立っていた。
頭上に疑問符を浮かべ、首を少しだけ傾けながらアスターをじっと眺めている。
とても純粋で、不気味なくらいに悪意を感じさせない、素朴な表情。あまりにも場違いで、警戒心を抱くことも難しい、かけ離れた美しさを持つ顔立ちであった。
彼女の登場に、アスターはまず驚いた。そして次に、少女の姿に驚いた。
別に、奇々怪々な存在だったわけではない。普通に四肢の揃った、人の形をした何かであった。あるいは多少腕が多いくらいであれば、アスターもそれほど驚かなかっただろう。
では一体、何に驚いたのか?
答えは簡単だ。
彼女があまりにも――あまりにもエリカに似ていたからだ。
凛々しくも、ほのかに女性らしさを感じさせる整った顔立ち。
腰ほどまで伸びた、長く煌めく美しい銀色の髪。太陽よりもなお燦然と輝く金色の瞳。
全体として鋭い印象を受けるが、決して誰かを傷つけるようなものはない。
言うなれば、そう――エリカのカラーリングだけを変更して生み出された、瓜二つの人形。彼女はそんな容姿をしていた。
もしもこれで腰に刀を携えていたのなら、さぞかし似合ったことだろう。
ジャケットとショートパンツを身にまとい、足をブーツに包めば完璧だ。
だが、実際には刀なんて帯びていないし、身を包んでいたのは真っ白なワンピース一枚である。
彼女はエリカにとても似ていたし、決定的に違っていた。
「キミ、だぁれ?」
再び少女が問いかける。
それでなんとか驚きから覚めたアスターは、ようやく異変を認知し始めた。
吸い込まれるような黄金の瞳から目をそらし、周囲の様子をうかがう。
彼の目に飛び込んできた部屋は、もはや先程までいた部屋と同一のものとはとても思えない様相であった。
部屋中のものから色が抜け落ち、無彩色に包まれている。しかし一方でアスター自身や目の前の少女には色が残ったままで、自分たちだけが世界から浮いてしまっていた。
それだけではない。モニターには映像が残っており、起動したままになっているはずなのに機器類に耳を傾けても一切駆動音が聞こえてこない。そのモニターの映像にしたって、よくよく見てみれば声をかけられた瞬間から一フレームだって動いていないようだった。キーボードを叩いても、当然反応はない。
更に視線を巡らせると、部屋の奥の扉が開いたままになっていた。
エリカが見当たらないことから、おそらく彼女が隣の部屋を調べるために開けたのだろうと推測はできたが……しかしそれはそれで妙である。
これだけおかしなことが起きているのに、あのエリカが気づかないわけがない。少なくとも少女が現れた時点でその存在を察知するはずだし、そうしたならば真っ先にアスターの安全を優先してこちらへやって来るはずなのだ。
あるいは、エリカが既にこの少女を見つけていて、安全性を確かめた上でこちらに来ることを許容したとしたらどうだろうか。
それは辻褄が合いそうな推理だったが、アスターはすぐに首を振ってこの案を却下した。
仮に安全だと判断したとしても、敵地のど真ん中で見つけた得体のしれない人物を放任するなど、彼女がするだろうか?
この部屋の状態だって明らかに普通ではないのだから、少なくとも、用心はするべきだろう。
長考の末に改めてアスターが少女に顔を向けると、彼女はまだじっと彼の顔を見つめていた。
「ねぇ、キミは誰なの? 聞こえてるよね? 聞こえてて無視してるのかなぁ? それはなんだか、なんだかモヤモヤっとした気持ちになるなぁ。ねぇ、アタシの世界で動けてるそこのキミぃ、聞こえてるなら返事をして欲しぃなぁ?」
「君の、世界……?」
反射的に、気になった単語を反復してしまう。
アスターがしまったと口を押さえたときには、もう遅かった。
「あっ、やっと喋ってくれたぁ。やっぱりアタシのこと見えてるし、聞こえてるし、動いてるんだねぇ? ねぇ、なんでぇ? どうやったのぉ? キミは誰なのぉ?」
顔をぐいっと近づけて何度も同じことを尋ねてくる彼女は、無邪気さの化身だった。
エリカと同じ顔で、彼女には全く似ても似つかない仕草と話し方をする少女は、清廉な湖を装った底なし沼であった。
「えっと……これは、君がやったこと、なの?」
それでも、アスターは恐れを呑み込んで少女に対峙した。
彼女に呑み込まれぬよう、金色の瞳を見つめ返す。
「質問に質問で返すのはイケナイと思うなぁ」
心底つまらなそうに、少女はアスターと距離を取る。
そして、
「イケナイことをする子はぁ、ん〜、壊したくなっちゃうんだけどぉ……」
表情を一切変えず、あっさりと恐ろしいことを口にする。まるで気に入らないおもちゃをゴミ箱に捨てるような口調だった。
しかし、その言葉に恐れを抱くことは結局できなかった。
直後に、少女が心底機嫌の良さそうな笑顔でぐいと顔を近づけてきたからだ。
思わずビクリとしたアスターに、彼女は間髪入れずこう告げる。
「でもでも、特別に許してあげちゃう! だって〜、キミはとぉ〜〜〜っても不思議な感じがするからぁ!!」
あまりに稚拙な理由であった。いや、理由にすらなっていない。
けれど彼女にとってはそれで十分すぎるらしく、小さな子供が甘いケーキを目の前にしているかのような笑顔を見せていた。
「ん〜〜そぉだなぁ……じゃぁ、こぅしよっか! アタシがまず質問に答えるからぁ、その後でキミがアタシの質問に答えるっ! これでどぉ?」
上機嫌になった彼女は、とても真っ当な提案をしてきた。
目まぐるしく切り替わる少女の感情に一瞬振り回されかけたアスターもこの提案で息を整え直すことに成功し、落ち着いて頷く。
「わかった、そうしよう」
「えっとじゃーぁー、あれ? 質問ってなんだったっかなぁ?」
「この光景は、君がやったことなの?」
「この光景ぃ?」
少女は反復して、ぐるりと辺りを見渡す。
そして、
「あぁ〜、もしかして、アタシの世界のこと、かなぁ?」
「そう。さっきもそんなこと言ってたよね。それってどういう意味?」
「ん〜〜……どういう意味って、聞かれてもなぁ。えぃってやったらこうなるんだけど……」
質問に答える気はあるらしいが、それは彼女にとって呼吸のようなものらしく、しばらく言葉にできず唸っていた。
だが、ややあってなにか閃いたらしく、ぱっとにこやかな表情になった。
「時間!」
「時間? 時間って、物事の変化を捉えるために使われる基礎的概念の意味での、時間?」
「むぅ〜、キミの言い方はなんだか難しいなぁー……まっ、でもそれであってるけどねぇっ! アタシはねー、えーっと、なんだっけ。時間を操るー……、エンシス? ってやつなんだぁ!」
「……なるほど」
彼女がネーヴァ・エンシスであるということは、薄々ながらアスターも気づいていたことだった。
というか、こんな現象を起こせる存在に今のところ他の心当たりがない。
彼女の捉えどころのない雰囲気も、変わり者ばかりというエンシスであるならば納得のいくことだし、アスターは少しだけホッとした。
「だからねぇ」
だから、彼女が次にする行動は予想もできなかった。
「こーんなこともできるんだよぉ〜」
なんの前触れもなく、少女はおもむろに手を振るう。その手は何かを捉えたわけではない。
ただ無造作に、虚空を撫でるように振るわれただけだった。だがそれだけで、世界が一瞬ブレたような気がした。
「いま、何を……?」
一体彼女が何をしたのか、アスターには全く分からなかった。
実際、彼の身に何かがあったわけではないし、それ以外でも目に見える変化はほとんどなかったように思える。
もしも彼が注意深く周囲の様子を観察しており、かつその状態をつぶさに記憶していたのなら、彼女が時を動かしたことに気づけただろう。
だが、いくら天才的な頭脳を誇るアスターとて、初めて入った部屋の状況を完全に覚えていることなどありえないのである。
「ん〜、わかんないかなぁ? そんならまぁ別にいいよ〜、ちょっと能力を見せてあげたかっただけだからねぇ〜」
「そ、そっか」
「じゃぁじゃぁ、もうキミの質問には答えたってことで、いーかなぁ? いーよねぇ? アタシから質問していーぃ?」
「うん。そういう約束だったからね」
「えっとねぇ、アタシが聞きたいのは、キミは誰かってこと!」
聞かれて、そういえばこれだけ話しているのに互いに自己紹介すらしていなかったことに気がつく。
少し失礼だったかな、と思い、改めて姿勢を正して、
「えっと、僕の名前はアスター。アスター・ルードベックだよ」
と名乗った。
単に名を名乗っただけでは君は誰なのか、という質問の答えとして不十分な気もしたが、かといってそれ以上の情報を与えることは出来ない。
だから彼はフルネームを教えたわけだが……幸いなことに、彼女はそれで大いに満足したようだった。
一瞬だけその響きを咀嚼するように真面目そうな表情で息を吸うと、すぐにまた元の無邪気な笑顔に戻り、
「アスター・ルードベック、かぁ〜、なるほどねぇ〜それでかぁ〜、ふぅ〜ん、キミがぁ、そっかそっかぁ」
キョトンとする彼の前で、一人で全て理解したかのようにふんふんと頷き続けていた。
そしてそれから、
「じゃぁ、キミのことをお兄ちゃんって呼ぶね! アスタ―お兄ちゃん!」
「……へっ?」
何故か、嬉しそうにアスターの右腕に抱きつき始めた。
これには流石にアスターも困惑どころか辟易してしまう。
「えっと、それは、なんでだろ……あとできれば離してほしいっていうか……」
「ダメぇ? 別にいいでしょ? 何か困ることあるのぉ?」
「特に困ることがあるってわけじゃ……あ、でも抱きつかれるのはどうしたら良いか困るけど」
「ふぅーん、じゃ、抱きつくのだけはやめたげるね、お兄ちゃん♪」
全く、一体この少女は何者なんだろう。
突然人のことを兄なんて呼ぶ意味がわからないし、こうして自分に興味を持ってくる理由もわからない。
そもそも、なぜこの少女はここに突然現れたのか。彼女の言いようでは、まるで自分のほうがここにいるのが不思議だ、というような感じすらしたが……。
とそこまでアスターが考えたところで、そういえばまだ彼女の名前を聞いてなかったな、と気づいた。
折しも、彼女の方も自己紹介がまだだったことに気がついたらしい。
そうだ、と改まって、
「アタシの名前をまだ言ってなかったねっ。アタシの名前はぁ、ええっとぉ……あ、これこれ。ダ、フ、ネ? ダフネ、って言うらしいよぉ! よろしくね、お兄ちゃん♪」
と、まるで初めて他人に自己紹介するかのように、どこかに刻まれた名前を読み上げたのだった。




