#039_敗者の末路、少年の決意
「……やっぱりダメそうです。素材としての価値もないくらい、綺麗に焼き切れてます」
「そう、ですか。断片でもデータが回収できればと思ったのですが。仕方がありませんね」
ルクトゥスとの戦いが敗北に終わってからほんの少し後。アスターはヴェロニカに請われて、破壊された感染者の状態を調べていた。
他に優先するべきことがあるとは思っていたものの、今はただ手を動かしていたい気持ちでいっぱいだった。
ちらりと、一瞬だけ顔をあげる。
視線の先には、ほんの数分前までと少ししか変わらない戦場の風景だけがあった。
エリカを下した男はもういない。彼は彼女を斬り捨てたあと、すぐに立ち去っていってしまった。
残されたのは、敗者と、鉄くずと、ぎこちない空気だけである。
「しっかしあいつは一体何がしたかったんだろーなー。オレたちを邪魔しにきたってんなら殺せばいいだけなのに、オレやニカ姉には目もくれなかったしなー?」
「ルル、あなた……」
少しは空気を読みなさいと、ヴェロニカが呑気な少女を諌める。
だがそんなことは彼女だって百も承知らしい。つまらなそうに肩をすくめると、気でも紛らわすように小石を蹴飛ばしはじめた。
別にルルにしたって、好きでこんな無神経な態度を取っているわけじゃない。彼女は、彼女たちは元々そういう風に作られているから、そうするしかなかったのだ。
ネーヴァの心は決して傷つかない。他人の痛みを計算することはできても、理解できない。完全であるがゆえに、人間としては不完全になってしまう。
そういう存在が、彼女らネーヴァというものである。
しかし、そのはずなのに。
屈辱的な敗北を演じた少女は、灰色の風景に溶け込むようにただ呆然と立ち尽くしていた。
斬り落とされた右腕はそのままに、遠く空を眺めて、自分が自分自身の墓標にでもなってしまったかのように。
エリカは、たしかに不完全だった。
それはとても奇妙なことだった。
確かに、ネーヴァだって悔しさくらいは覚える。その程度の感情は備えている。
けれど、本質的にそれで心が折れるなどということはあり得ない。
悔しいと感じた上で、すぐに気を取直して次の戦いへと備えることができる。それがネーヴァという存在なのであり、だからこそ、今の打ちひしがれた様子の彼女を見て、ヴェロニカも対応に困っていたし、ルルは石を蹴飛ばすしかなかったのだ。
しかしアスターは違った。彼女のおかしな反応を奇妙だなどとは、露ほども思っていなかった。
彼はそれどころか、全く別のことについて思いを巡らせているところだった。
雇い主と傭兵という関係から一歩踏み込んでいいのか、彼女にもっと寄り添っても良いのか。そういう人間同士の、当たり前の関係性について、悩んでいたのである。
びゅうと風が吹く。それはこの地に辿り着くと迷子にでもなったみたいに、積もり積もった埃をぐるぐると巻き上げていく。宙を漂った埃はやがて散り散りになり、いつのまにか何処かへ消え去ってしまっていた。
アスターにはそれがなんだか自分たちのように思えてしまい、無性に溜め息をつきたくなってしまった。
何度同じ箇所を調べたのかもう覚えてないくらい、壊れた人形を調べ倒したころ。アスターはコツンと何かが足に当たるのを感じた。
石だ。ルルが蹴飛ばした小石が、彼を急かすようにぶつかってきたのだった。
転がってきた石を拾い上げると、アスターはそれをじっと見つめはじめる。
偶然迷い込んできただけの、なんの変哲も無いただの石ころ。
けれどそんな小石でさえ、何かの拍子でとんでも無いところへと飛び込んでいくのかもしれないし、かと思えばこんな風にあっさりとその進む道を遮られてしまう。
それは本当に馬鹿馬鹿しい結末でしかないけれど、意味はあった。誰もが見落としてもおかしくないほどの、小さな波及を生み出した。
アスターは、小さく呟く。
「……そう、だよね」
ルルの言う通り、あの人が、ルクトゥスが何をしたかったのかは分からない。
エリカが傷つくべき理由は無かったようにも思える。
それでも彼女は、彼女自身の意思で戦うことを選んでいた。何か知りたいことがあって、あるいは心から生まれた衝動に従って。
頼りになる傭兵の少女は、あの瞬間彼女らしく生きようと前に進もうとして、そうして壁にぶつかってしまったのだろう。
対して今の自分はどうだろう。今までの自分はどうだろう。
前に進めなくても、歩いていこうと決めたんじゃなかったのか。
誰かを中途半端に気遣おうとして、足を止めてしまっていいのか。
いいや、これじゃだめだ。
一緒に立ち止まったって、何にもならないのだ。
ほんの少し前。彼女は示してくれたじゃないか。
立ち止まりそうになった時、前を歩いてくれる人がいるということが、どんなに頼もしいのかということを。
確かに自分は、単なる雇い主だ。雇い主だった。だから彼女に遠慮し続けていた。
けれど、それがなんだというのだ。
ヒトとして。いや、人として、寄り添いたいと思った人に踏み込んでいくのに、それまでの関係性などなんの意味があるというのだ。
いま自分は、彼女のためにしてあげられることをしてあげたい。
それだけで、理由は充分じゃないのか。
昔、リリィに聞いたことがある。
どうして君は、そんなに優しくしてくれるのかと。いくら仕事とはいえどうして、こんな年端もいかない自分なんかのためにそんなに一生懸命にしてくれるのかと。
彼女はこう答えた。
『私がそうしたいから、ですよ』
そのときははぐらかされたのかと思い、答えになっていないよと笑ったけれど。
今はその言葉の意味が、なんとなくわかる気がする。
そうしたいからそうする。
これ以上に、人が何かをするのに必要な理由なんていらない。
きっとこの気持ちは、ネーヴァたちも同じなんだろう。
ネーヴァたちはコアに刻まれた命題に従って行動するという。
ヒトだって、心の奥底から勝手に湧いてくる気持ちに従って行動しているんだ。
きっとその二つに違いはない。
だから。自分は今したいことを。するべきことをしよう。
拾い上げた石ころを少し先まで転がすように手放してから、アスターはすっと立ち上がり、何かを拾いあげた。
その瞳の奥には確かに強い意志が。透き通るような淡い光が宿っていた。
「……アスターさん?」
急に動き出した彼の姿を見て、ヴェロニカが心配そうな声を上げる。
けれどアスターが新たに手にしていたものの意味をすぐに理解すると、それ以上は何も言わず、ルルにもただ見守るようにと目配せをした。
「エリカさん」
近づいたことすら気づかなかった彼女に、アスターが声をかける。
わずかに目だけが動いて、彼の姿を捉えたらしかった。けれど反応はそれきりだ。相変わらず、瞳は虚ろのままだ。
「さっきの戦いは、その、悔しかったですね」
違う、そんなことを言いたいんじゃない。
アスターは心の中で自分自身に悪態を吐く。
「でも、僕は。たとえ負けてしまったとしてもエリカさんが生き残ってくれたのなら、それで充分です」
こうでもない。
なんで自分はこんなにも弱いんだ。決意をしても、つい人の顔色を伺うような、遠回しな言い方ばかり出てくる。
このままじゃ、ダメだろう。
拾い上げたものを強く握りしめ、勇気をもらう。
「だって、僕には……そう、僕にはやらなきゃいけないことがある。そのためには君の、エリカさんの、エリカの力が必要なんだ」
色が抜け落ちたような彼女の目だけをじっと見つめ、言い切る。
一度言ってしまえば、そこから先は自然と言葉が浮かんできた。
今のエリカに必要なものは、わかりきっていた。
「僕はもう行きますよ。そして君は、ついてこないといけない。そういう契約だ」
「契、約」
「そうです。君ほどの人が契約を違えるなんて、ありえない」
「……そう、」
「これは落としものです」
徐々に気持ちを取り戻していく彼女の目の前に、握っていたものを突きつける。
刀だ。彼女が落とした、彼女にとって大切な武器。彼女がエリカであるという、一つの象徴。
「ああ、そうだわ」
自らの半身とも呼べるそれを見つめる彼女の瞳に、ゆっくりと光が戻ってくる。
未だその光は弱々しい。けれど彼女はもう、風景ではなくなっていた。
「こっちの、腕も。エンシスなら、完全には治せなくても繋いでおくだけならできるでしょう。準備ができたら行きますよ」
彼女に残された左腕に押し付けるようにして、刀と右腕を持たせると、アスターは自分も出立の準備をするべく、踵を返してヴェロニカたちの元へと戻ってった。
向かう先ではいつも以上ににこやかな笑顔と、楽しそうに小石をもてあそぶ少女の姿が見えた。
そして、残された彼女は。
「……あ」
心から浮かび上がってきた五文字を口にしようとして、すぐに言い淀んだ。
押し付けられた刀が、今はまだその言葉を口にするべき時ではないと言っているような気がして。




