#036_予期せぬ強襲
「終わった……のかな?」
延々と続くように思われていた戦闘はエリカが驚異的な一撃を決めた後、あっけなく収束してしまった。
感染者はヴェロニカの拘束具で近くの折れた柱に縛り付けられ、無限に湧き続けていたミレスの群れも今ではただの鉄くずへと還っている。
「お二人とも、ご苦労さまです。あとはあちらを処理するだけですね」
縛り付けた感染者は両腕を切り落とされて身動きを取れないようになっていたが、そのおかげか却って敵意を滲ませているように見えた。
いかにも、拘束を振りほどいて逃げ出す算段でも考えていそうな雰囲気である。ヴェロニカの言う通り、安全に連れ帰るためには適切な処理を施す必要があるだろう。
「アスターさん、度重なるお願いになってしまうのですが、感染者の活動を休止させてもらえないでしょうか? あの状態では身体を開いて直接コアを休止状態に変更するしか無いのです」
「それは構わないですけど……危なくないですかね?」
今更一つや二つ頼みが増えるくらい何ということはないとアスターは思っていたが、それよりも近づいたときに暴れられるのではないかと不安になっていた。
あの二人を一時的にとはいえ苦しめた相手だ。当然の心配である。
「わたくしの拘束具で一時的に出力を抑制するフィールドを展開します。そのうえでエリカさんやルルが近くにいれば、危険はほぼないかと。とはいえ、動力の都合があるのでそう長くは抑制していられませんが……アスターさんの手際であれば大丈夫でしょう」
「――わかりました。その言葉を信じたいと思います」
それぞれにアイコンタクトをし、頷いてからアスターは感染者のもとへと一歩ずつ近づいていく。
ある程度近づいたところで、ヴェロニカが手元の端末を操作する音がした。電子音とともに、感染者がみるからにぐったりとした様子になる。
どうやらこれで、触れても大丈夫らしい。
横目で護衛二人の位置をなんとなく確認すると、覚悟を決めるためにアスターはごくりとつばを飲みこんだ。
「……よし」
一歩、二歩。
弱りきった感染者の動きに変化はない。
どことなく、空気が張り詰めたように感じられる。
三歩。
アスターは背中を守る二人の少女の気配がほんの少しだけ遠のいたように感じていた。
それでも今ここで足を止めるわけにはいかないと、彼は拳を握り直す。
更に、一歩。
手を伸ばせば触れられそうなほどの距離。
あと一歩進むだけ。
依然として動きを止めている目の前の感染者の姿にほっと安堵し、アスターがふっと力を抜いた、そんな時のことだった。
不意に、凍えるような恐怖の波が彼の背筋を走り抜ける。
「――っ!!」
風切り音と、声なき悲鳴。鈍い衝撃。破砕音と、地を削る音。
幾つもの情報が同時多発的にアスターの意識に飛び込んでくる。
それはヒトが一度に処理するにはいささか困難な情報量で――なんとか脳内で知覚情報として正しく像が結ばれる頃には、彼の身体は数メートル吹き飛ばされていた。
「ってて……」
いつか襲われたものに近い痛みを全身に感じながらも、彼はなんとか半身を起こしながら自身の置かれた状態を確認する。
どうやら吹き飛ばされたときにかすり傷を負った程度で、大した怪我はないようだ。
そう判断すると、今度は周囲で起こった出来事に意識を巡らせた。
――何かに襲われた。
――誰かに守られた。
ここまではいい。
問題は、その次だ。
――何かが壊され……た……?
最悪の予感を脳裏に浮かべながらも冷静さは失わず、現実をしっかりと受け入れようと彼は手足に力を入れた。
「え……」
起き上がったアスターが目にしたのは、信じがたい光景であった。
それは、思い浮かべていた最悪の光景とは程遠い。
最悪ではないが、理解し難い光景。
「よかった……大した怪我はないようね」
彼を突き飛ばした腕の持ち主が、心からホッとしたような柔らかな声でささやく。
アスターが想定していた最悪の未来は――彼の身代わりにエリカが犠牲になるという絶対に受け入れがたい未来は――訪れなかった。
しかし、だからこそなおさらアスターは起こってしまった現実をうまく理解できずにいたのである。
エリカもまた状況を完全には理解していないようで、自分たちの誰も傷つくことはなかった、という事実だけを確認すると、アスターが呆然と見つめるその先へと改めて意識を向けた。
そう。確かにアスターら一行は誰ひとりとして傷ついていない。
けれどそれは、本当に誰も傷ついていなかった、ということを意味するのではない。
飛来してきた何かはまっすぐにアスターを貫く軌道をとっていた。しかしエリカが彼を突き飛ばした結果、その未来は潰え、今度はエリカが斜線上に立つことになる。
けれど当然彼女が貫かれるなんていうことはなく、当然のように彼女自身も攻撃を回避した。
結果、どうなったのか。
遮るものがなくなったのだから、当然飛来物はそのまま一直線に何かにぶつかるまで飛ぶことになる。
今回の場合、その"何か"が問題であった。
アスター達の目に映っていたのは、死体の胸部を寸分違わず貫く一本の剣。
拘束具ごと感染者の身体を破壊した凶器は、その役目を終えた今もなお侵食を続けるかのように、バチバチと放電を繰り返し続けていた。
「嘘、でしょ」
事実を認識してぽつりとつぶやかれた彼女の声はおかしなことに、少しだけ震えているようだった。
確かに感染者を守ることは、エリカにとって優先度の低い事項ではある。おそらくヴェロニカだって、彼女を責めたりはしないだろう。
だが、咄嗟に回避してしまったという事実が――迎撃という彼女であれば十分に可能であった最適な方法を取らなかったという事実が――彼女にネーヴァらしからぬ感情を抱かせているらしかった。
「手ぬるいな」
誰もが口を開けず呆然としていると、不意に低い声が響いた。
本当につまらなそうな、退屈な茶番劇を見せられたことにガッカリしているような声。
否が応でも緊張感を促す声音にエリカは咄嗟に身構え、アスター達も一拍遅れて声の主へと振り向いた。
瓦礫が積み上がって少しだけ小高くなっていた場所に、男が立っていた。
ボロボロのマントに身を包み、こちらを見下ろしている。
暗い空に溶け込むような濁った灰色の短髪。瞳に浮かぶ色からは彼が何を考えているのかは一切読み取れず、彫りの深い顔と鋭い眼光は男の並々ならぬ力強さを感じさせた。
「誰ッ!?」
予期せぬ闖入者をみとめたエリカは動揺しながら叫び、誰何した。
ささくれだったような風が吹き、男のマントをたなびかせる。
彼は表情を変えないまま彼女を一瞥するとそれだけを問いへの回答とし、揺れたマントを翻した。
瞬間、風が止まる。
男が姿をふっと消したのは、ちょうどアスターが瞬きをしたのと同じタイミングであった。
彼の隣ではエリカがハッと息を飲む音がして、再び肌を冷たい風が撫でていく。
直後、誰もいないはずの背後で気配が生まれた。
驚いてアスターが振り向くのと、加速したエリカが刀を抜き放ったのはほとんど同時であった。
誰にも追いつけない剣閃が風を切り、激しい金属音を鳴らす。
「なっ――」
「……ほう」
あり得ないことに驚愕し声を漏らすエリカ。
興味深げな感嘆の声を漏らす男。
対称的な二つの声が同時にあがったところで、ようやくアスターは今の一瞬に起こった出来事に追いついた。
彼女の驚きようからいって、おそらくエリカは本気であの男を斬るつもりで攻撃したのだろう。
当然、他に邪魔するものがない状態で能力を発動した彼女の一撃を防ぐことなど普通はあり得ない。
だが、普通はあり得ないことが絶対にあり得ないなどということは、あり得ない。
男は感染者の死体に突き刺さった巨大な剣を引き抜くと、そのまま振り向きざまにエリカの一撃を受け止めたのだ。
それが当たり前であるかのように、むしろ余裕すら感じさせる表情を見せながら。
「くっ……!」
得体のしれない強さに冷静さを取り戻し、悔しそうに飛び退くエリカ。
遅れてルルも臨戦態勢を取ろうとするが、男の一睨みで彼女は一歩後ずさりをしてしまう。
うろたえる相棒の姿を見たヴェロニカもこの男は只者ではないと、静かに息を呑んだ。
常識の通用しない世界最強クラスの二人すら凌駕する、謎の剣士。
この場にいる誰もが彼の存在感に圧倒され、身動き一つできない状況に陥ってしまっていた。
「あなた、何者なの?」
それでもエリカが戦う意志を折ることは決してなかった。
切っ先を男に向けたまま、彼女は尋ねる。
初めて出会った自分よりも速いかもしれない男に一切の油断を見せまいと、その眼にはことさら鋭い光を帯びていた。
「名乗る名など……ない」
そんな彼女の様子を認めたのだろうか、今度はゆっくりとだが、吐き出すように男が問いに答えた。
あまり納得のできない言いぶりに、エリカはますます睨みを強くする。
「が――」
やがて観念したのか、あるいは最初からそうするつもりだったのか。男は静かに名乗り始めた。
「あえて名乗るのであれば……ルクトゥス、と」
ぽつりぽつりと何かを噛みしめるような、悲しみすら感じさせるような言い方だった。
「ルクトゥス……? 確かその言葉の意味は古代語で……」
「それで、一体あなたは何者なの?」
二人の剣士が睨み合う中、後方ではヴェロニカがその名に思い当たることがあったのか、何かをぶつぶつと呟いていた。
だがその言葉をアスターが最後まで聞き取る前にエリカが次の問いかけをし始めてしまったため、慌てて意識を前方に向けることになった。
「何者、か。それは俺にも分かりかねることだ、が。むしろ純粋なネーヴァである貴様にこそ、分かっていることであろう」
「そんな……あり得ないわ」
二人の問答にどんな意味があるのか、この時のアスターにはまだ何もわからなかった。
だが間違いなく、それが文字通りの意味ではないということだけは感じ取れた。
「あり得ない、か。常識を破壊することだけが取り柄のエンシスには似合わない言葉だ、な」
「いいから答えなさい」
苛立ちを隠さず、エリカは問い詰める。
「貴様の向けるその刀……それこそが答えだ、ろう」
ルクトゥスは意味深げに呟くと、これ以上は何も答えるつもりはないと言わんばかりに剣を構え直した。
不気味に光る鈍色の刃に、皆の注目が集まる。
それは剣にしては随分奇妙な形をしていた。
大きさは大剣とでも言うべきくらいで、刃幅は広く、強度を保つためなのか厚みも随分とある。
それだけでは少し扱いにくそうな剣としか思えないのだが、彼の武器の特徴はむしろその先に――いや、その手前にあった。
柄を握ったとき、ちょうど人差し指のかかる位置に備え付けられた引鉄のようなもの。そこから繋がるようにしてシリンダー状の機構が刀身を侵食するかのように組み込まれており、そこだけ見れば剣というよりは銃器の類のように見えた。
剣でありながら、銃のような機構を備えた奇妙なこの武器をあえて称するのならば――ガンブレード、といったところであろうか。
一体この機械的構造にどんな価値があるのかは我々には計り知れないが、一筋縄ではいかない相手であるということだけは確信できた。
ルクトゥスが無言で見せる戦意に、エリカもとうとう言葉は無用だと理解したらしい。
大きな呼吸を一つ。
そして刀の切っ先を彼に向けながら、しっかりと握り直した。
「そう……いいわ。それならばかかってきなさい――あなたの存在を証明するために」




