#024_ルル
「この反応……はぁ」
数日後、すっかり運転になれたアスターが気持ちよく車を走らせていると、隣でエリカがため息をつき始めた。
何かを見つけたようだが、飛び出していかないところを見るにミレスがいるというわけではなさそうだ。
「どうしたの?」
「なんでもないわ。気にせずそのままの速度で進んでちょうだい」
そうは言っても、彼女の様子は明らかにうんざりとした様子。
ここまでエリカを辟易させるものは一体何なのかと、アスターも気になってしまう。
「……いえ、違うわね。速度を維持するべきじゃないわ。ふふふ、そうだわ。速度は上げるべきだわ。アクセルを全開にして、なんなら緊急用のブースターも使って……」
ぶつぶつと呟き続ける彼女の顔には不気味な笑顔が浮かび上がっている。
明らかに様子のおかしい彼女の言葉を真に受けるわけにもいかず、アスターはただただ困惑する。
「いったい――」
「いいからアクセルを踏むのよ! これは命令だわっ!」
逡巡し、何があったのか聞こうとアスターが口を開いたときには時すでに遅く。
何かに急き立てられるかのようにボルテージが溜まりきったエリカはおぞましい形相で叫んだ。
思わずビクリとしてしまうアスターだったが、理解しきれない理不尽さはかえって彼に冷静さを与え、小さな声でぽつりと呟いた。
「雇い主は僕のはずなんだけどなあ……」
彼の至極まっとうな小声の反論は当然、興奮状態のエリカには届かない。
このまま彼女の言葉を無視し続けるのは後で怖そうだと判断し、アスターは渋々アクセルを踏み込み始める。
「もっと加速するのよ、前なんて気にしなくていいわ。大丈夫、轢いて問題のあるものはなにもないから、さあ速く!」
その言い回しは絶対轢くべきではない何かがいるって言うことだよねと心の中でぼやきつつ、言われた通り前方に目を凝らす。
すると案の定、進行方向に小さな影が現れた。
(ミレス、ではないよね……本当にこのまま加速して良いのかなあ)
少しだけ戸惑いながらも、まあもう少し近づけば分かるかと、ブレーキが間に合うぎりぎりを見計らいながらそのまま進んでいく。
豆粒ほどの小ささしかなかった影はどんどん大きくなっていき、やがてアスターの肉眼でも充分その全容を捕らえられるほどになり――。
「って人ぉ!?」
それが紛れもなく人間で、しかもなぜかこちらを見ながら大きく手を振っているようにしか見えず――アスターは慌ててブレーキを踏みながらハンドルを限界まで回転させた。
いくらすぐに止まれるように気をつけたって、十分加速した車は急には止まれない。
前方の物体を視認できるほどの距離にまで近づいてしまえば、接触は免れない。
――間に合ってくれ。
祈り、顔を伏せるアスターの元へ、車体を通じて鈍い振動が伝わる。
なにか重いものが、装甲にぶつかったようだ。
――ああ、やってしまった。
彼がそう思って後悔にくれていると、しかし奇妙なことが起きていることに気がついた。
勢いよく滑っていたはずの車体が、静止している。
大質量の装甲車が人間にぶつかったくらいで静止するわけがない。
保存則を考えればそんなことは計算するまでもなく明らかで、ぶつかられた人間は今頃吹き飛んでいるか、あるいは車体に巻き込まれて挽肉になっているかのどちらかだろう。
だが、今この車体は、明らかに完全に止まっている。
一体どういうことなのだろうか?
「……ちっ、このくらいじゃ流石にダメだったみたいね」
ゆっくりと顔をあげて状況を確認しようとする彼の耳へ、隣から舌打ちが聞こえてきた。
まるでたった今ぶつかった何者かを、轢き殺すことは難しいと分かっているかのような口ぶり。
高速で移動する装甲車に衝突されることをものともしない存在なんて果たしてあり得るのだろうかと考え始めて――アスターは思い当たった。
あり得ない存在が、あり得るということに。
「ったく、いきなりぶつかって来るとかヒデーじゃねぇかー。オレじゃなかったら死んでたぞ? あぁ?」
何かを諦めたようにエリカが扉を開くと、外から大声で文句を言う声が聞こえてきた。
少しだけ幼さを感じる、元気の良さそうな女の子の声だ。
「それにしてもこの車頑丈だなー。壊れちまわないで助かったぜー」
その口ぶりは、自分が装甲車に轢かれた程度では死なないことを知っていたかのようで、それどころか自分のほうが強く硬いことを信じ切っているかのようで。
「つーかおかしーだろ。普通手を振ってる人間に向かって加速するやつがいるかぁ? いや、いたからこうなってんのかぁ?」
文句を言う少女の声音はとても軽く、普通――そもそも普通は死んでいるだろうという指摘は置いておくとして――なら感じているであろう怒りという感情を決して感じさせないものだった。
本当に単純に、疑問に思っているだけ。
その能天気さはやはり少女の特殊性故なのだろうか。
なんてことを思いながらも、流石にいつまでも彼女に独り言を言わせ続ける気にもならず、アスターは車から降りて声をかけることにした。
「全く、相変わらず無駄に頑丈なのね」
しかし、こういうときでもエリカのほうが圧倒的に行動は早かった。
「ん、その声は……おぉ、エリカじゃねーかッ」
「久しぶりね、ユルラルリア」
「おいおい、オレとお前の仲じゃねーかよー。そんな他人行儀な呼び方すんなって、な? いつもみたいにルルって呼んでくれよー」
「私がいつあなたのことをルルだなんて呼んだかしら?」
「んー、覚えてねーからきっといつも呼んでんだろっ、なっ?」
ニシシと笑いながら、ルルと名乗る少女はエリカに駆け寄って肩を叩こうとして、失敗する。
振りかぶった右手が、なぜかエリカの身体をすり抜けていったのだ。
「おいおーい、わざわざ能力使って加速して避けるとかひどくねーかー? ま、いいけどな!」
「ふん、あなたに殴られたら肩が外れてしまうもの。避けるのは当然だわ」
「いやいやいや、さすがにスキンシップするときくらいは加減はするっつーの」
「どうかしらね」
車を降りたアスターの目には、彼女たちがとても親しげに見えていた。
エリカの態度は嫌がっているようにも見えるが、彼女があそこまで感情を露わにするということは二人が旧知の仲であるということの証拠に他ならない。
ルルと名乗る少女の方はエリカのことをえらく気に入っているようだし、きっと長い付き合いなのだろう。
「エリカさん、この女の子は……?」
いつまでも蚊帳の外というのも仕方ないので、話に混ざるためにアスターはエリカに紹介を求めた。
するとようやく少女の方もアスターの存在に気づいたようで、誰だおめー? と首を傾げている。
一方エリカはあまり紹介したくないのか、あるいは気に触ることでもなにかあったのか、ため息を付きながら首を振るばかりでなかなか彼女のことを紹介しようとしない。
「あ、話に割って入ってごめん。僕はアスター。一応……エリカさんのいまの雇い主ってところかな」
アスターはそんなエリカの様子を勘違いしたらしい。
人の名前を聞くのに自分が名乗らないのは失礼だろうと、勝手に自己紹介を始めてしまう。
「雇い主? へー、お前が、へー」
少女はどうやら彼の自己紹介で興味を持ったようだった。
じろじろと検分でもするかのように、アスターの全身をくまなく眺め回していく。
ぐるぐると、ぐるぐると。
「っとぉ、オレはユルラリルア、皆からはルルって呼ばれてるからな! えーと、アシター、だっけか? おめーも気軽にルル様って呼んでくれよなー、ニシシ」
だんだん居心地の悪くなってきたアスターがエリカに助けを求めようか迷い始めた頃、どうやら一通り観察を終えたらしい。
少女はシュタッと飛んで姿勢を正し、朗らかに自己紹介をし始めた。
無い胸をピンと張り、自信に満ち溢れた様子で腰に手を当て、堂々と立つルル。
体格は随分と小柄で、おそらく140センチかそこらと言ったところ。
見た目だけなら、幼女と言っても通じるレベルだ。
自由気ままに飛び跳ねている山吹色の短髪は彼女の性格を表しているようで、口元から除く八重歯がなんともチャーミングな印象を与えてくれる。
名前を間違えて覚えているところや、少しだらしない印象を受ける服装からして、きっと彼女はあまり細かいことは気にしない性格なのだろう。
アスターはそう評価すると同時に、この男勝りで元気な少女もまた、世界の常識からは外れた存在なのだろうと直感した。
「そんなのの名前なんて覚えなくていいわよ。もう金輪際会うことなんてないのだから」
「おいおいおいー、ツレないこと言うなって! オレとエリカの仲じゃねーかよー」
「ちょっと、くっつかないで頂戴。暑苦しいわ」
「いいじゃんかよー久々なんだしよー」
必要以上に素っ気ないエリカに、過度なまでにスキンシップを求め続けるルル。
対照的な二人だが、なんだかその様子がかえって仲の良い姉妹のように思えて、アスターは気になっていたことを口にした。
「二人は、どういう仲なの? 随分親しいように見えるけど……」
その瞬間、
「はあ? 私がこの子と親しい? 馬鹿なこと言わないで頂戴」
「おっ、おめーよく分かってんじゃん!!」
二人は同時にアスターの方を振り向き、全く正反対の言葉を全く同じタイミングで、かたや威圧感を込めたとても低いトーンで、かたや喜びをにじませた高いトーンで言い放った。
あまりの息の合いっぷりに、仲の良し悪しはともかく長い付き合いだということだけは確かだと、アスターは苦笑する。
「はぁ……」
「照れるなってー」
そのことが癪に障ったのかエリカはまたしてもため息を付き、逆にルルは一層嬉しそうに飛び跳ねまわっている。
このまま否定し続けるだけでは埒が明かないに事に気づいたのか、エリカが先に降参した。
「全く……ただの腐れ縁よ。エンシス同士、なんだかんだで会う機会が多かったってだけの話」
無駄な労力を消費したわと、ため息を付きながら妥協できる関係性を提示するエリカ。
アスターも苦笑しながらも、何となく彼女が言いたいことを理解し、それ以上野暮な突っ込みはしないでおこうと決めた。
のだが――。
「いやいや、オレたちはマブダチで、ライバルだろ! 腐ってなんかねー!」
どうやらルルはそれでも不服だったらしく、よくわからない抗議をし始めた。
アスターもここにきてようやく、エリカがどうして彼女のことを遠ざけたがっているのかが理解できてきた。
この子は、なんというか――暑苦しくて、凄くバカ……、いや、凄くズレている。
「腐れ縁っていうのはそういう意味じゃないわよ、あなた相変わらずバカなのね」
「そういうエリカこそ相変わらず堅苦しー話し方だなー。もっと肩の力抜いてけよ! その方が楽しいぜー」
「あなただって力の抜き方を知らないじゃない」
「ははは、ちげーねーやっ」
正直なところ、アスターは彼女を轢いてしまった時、また面倒なことになってしまうかもと思い少しだけ青ざめた気持ちでいた。
それは、メフッタで遭遇したような本当に悪い意味での面倒、という意味だ。
だが今、ルルという少女のことをほんの少しだけ理解し、もっとたちの悪い、別の意味での面倒がやってきたのかもしれないと、そう思うようになっていた。




