#022_少年を護るもの
金属と金属がぶつかりあう、激しい音が鳴り響く。
それは、銃撃音が廃墟を揺らした次の瞬間の出来事だった。
「な、に……?」
まずはじめに目を見開いたのは男だった。
確実に少年を撃ち抜くはずの弾丸がなにかに弾かれ、壁へとその軌道を逸らしていった。
一体何が起こったのか、理解できなかった。
ただ男は、自分が失敗したことを直感した。
「……え?」
次に気がついたのは、眉間を撃ち抜かれるはずだった少年、アスターだった。
激しい音に放心状態から脱却し、自分を守ったものの正体を認識する。
いつの間にか右手から離れていたナイフが、落としただけではありえない位置に転がっていた。
その光景が意味するところを瞬時に理解し、彼はこう思う。
ああ、僕は何度彼女に助けてもらえばいいんだろう、と。
「……全く、本当に街を一人で歩くだけで問題を起こすなんてね。保険をかけておいて正解だったわ」
最後に風をもたらしたのは、凛と響くきれいな声の少女だった。
カツカツとブーツを鳴らし、堂々とした足取りでアスターの元へと歩み寄っていく。
「エリカ、さん」
「ええ、エリカさんよ。ちゃんと生きているみたいね」
エリカはアスターの前で膝を落としその顔をじっと見つめると、そっと微笑みかける。
それは、まさしく太陽の温もりを感じさせる柔らかな表情だった。
自身の無力に打ちひしがれていた少年の心を照らし、この世界にもまだ希望はあるのだと無言で伝える、力強い光だった。
アスターは今、自分の心臓が強く脈打つのを感じた。
「さて」
アスターの目に光が灯るのを確認するとエリカは立ち上がり、未だ拳銃を降ろさず睨みつける男へと振り返った。
「一応説明を聞こうかしら? 撃たれるのが視えたから介入したけれど、何かの間違いという可能性もなくはないものね」
男の表情からはすでに余裕が消え失せ、右手は小刻みに震えている。
エリカの言葉も、あまり耳には入っていなそうだった。
「一体どうして【風剣】がここに……? 別行動をしていたんじゃなかったのか? まさかその小僧が連絡を……? 一体いつの間にどうやって……?」
「ちょっと、ぶつぶつ一人で呟かないでもらえるかしら。今は私があなたに質問しているのよ」
更にエリカが声をかけるも、男は全く反応を示さない。
きっと相当に混乱しているのだろう。
いつまでも返ってこない返事に、エリカが次第に怒気を帯びていく。
「それにさっきの銃弾もだ……どうやって防いだ? 確かに【風剣】の特性は速さにあると聞いたことがあるが……やつは俺の後ろから来たんだぞ? それに俺とあの小僧の間にはほんの数メートルしか距離がない……あり得るのか?」
「はあ、もういいわ。どういう経緯かは知らないけれど、あなたに殺意があったことは間違いなさそうだし」
ため息を付き、腰の剣を抜くエリカ。
少しだけ反りの入った、片刃の剣。
戦いに対して忌避感を覚えるアスターでも、彼女があの剣を握っている姿は本当に美しいなと思ってしまう。
「さあ、死んで詫びなさい」
エリカが剣の切っ先を向けると、男はようやく自分が置かれている状況を正しく認識したようだった。
拳銃を握り直し、エリカに敵意ある視線を送り始める。
「こんなことで死ねっていうのか? この俺に? 冗談じゃない!! 少し世間知らずの坊主から勉強料を頂戴しようとしてただけじゃないか!!」
男の台詞は、言い訳にしてはあまりにも見苦しい、なんとも無様なものだった。
剣を向けていたエリカも、男の狼狽ぶりにいささか拍子抜けしてしまう。
「いや、そうだ、【風剣】が来たからって何だって言うんだ。よく考えてみりゃ、俺がネーヴァを恐れる必要なんてないんだ! だってそうだろう? ネーヴァにヒトは傷つけられない!! そうだよ、そうだとも。たとえ【風剣】だろうと、たとえエンシスだろうとその原則からは逃れられないんだ……フハハハッ」
彼女が呆れ返っている間に、男が今度は高笑いを始めた。
追い詰められてついに頭がおかしくなったのかとアスターは思ったが、彼の言葉の意味がどうしても気になった。
ネーヴァはヒトを傷つけられない……?
「そうね、あなたの言う通りネーヴァはヒトを傷つけられない。自分がヒトを傷つけたと認識した瞬間、そのネーヴァは活動を停止してしまう。強すぎる力を持つがゆえの枷というものなんでしょうね。当然、私だってヒトであるあなたに傷一つつけられない」
アスターの疑問はすぐに解消された。
けれど、そんなのってあんまりじゃないかと、アスターは考える。
あの男のように悪意のあるヒトが彼女の前に現れたとき……彼女は為す術なくなぶられてしまうということなのではないか。
いや、彼女なら戦わずとも、逃げることくらいはできるだろう。
けれどもし、彼女とは違って戦うことの出来ない女性――リリィのような非力なネーヴァが狙われたのなら……。
想像しただけでもぞっとしてしまう。
「ほらやっぱり! フハハハハっ!! なら何も恐れる必要なんてないじゃあないか! さあ、大人しく……」
案の定、男は恐慌状態から一変、下卑た笑いを再びその顔に浮かび上がらせた。
絶対に傷つけられないのなら、絶対に負けることはない。
この場の支配権は自分にあるのだと信じて疑わない、悪人らしい笑い声だった。
「けれどね」
しかし、調子づいた男の要求は、声に出すことすら許されなかった。
不利な状況であることを認めたはずの彼女の声に焦りはない。
実に静かに、淡々と、極めて当たり前なこの世界における常識を優しく教えるかのように、エリカはこう続けた。
「死ぬよりも恐ろしい体験くらいなら何千回だって与えることができるわ」
言葉が空に消える前に、彼女はすでに動いていた。
男が何かを言う前に、間合いが詰められ、彼女は握った剣を振るい――。
「ひっ」
幻想の刃。
情けなく悲鳴を漏らす男の体を切り裂いたのは、まさしくそう表現するに相応しいものだった。
男の体に触れる直前でピタリと止められる現実の刃。
触れていないのだから、当然薄皮一枚だって傷つけることはない。
だがエリカはそんなことはお構いなしに剣を振るい続ける。
幾度となく剣が男の体をなぞり、そして次の瞬間には引き、また次の一撃が放たれる。
避けることも、受けることも出来ない斬撃。
男にはただ、刹那の間に繰り出され続ける攻撃を、見つめ続けることしか出来なかった。
あるいは、彼女が本気で彼を切りつけていればそもそも知覚することすら困難だっただろう。
だが、エリカはあえて男に、半ば強制的に剣の動きを認識させた。
恐怖とは、本能的なものである。
たとえそれが決して自分を傷つけることがないものだと頭で理解していたとしても、本能が恐怖を覚えてしまう。
目の前に立っているのが、絶対的な強者であればなおのことである。
認識が恐怖を生み、生まれた恐怖はそのまま幻想の刃となり、彼の体を襲うのだ。
幻想の刃が彼の腕を切り落とした。
幻想の刃が彼の眼球を刺し潰した。
幻想の刃が彼の臓物を引き裂いた。
幻想の刃が彼の急所を削ぎ落とした。
何度も、何度も、何度も、何度も。
彼女が剣を振るうたび、男の脳裏に死のイメージばかりが浮かび上がってくる。
彼が死ぬことは決してない。
だが、刹那の間に刻まれた千度に及ぶ千通りの死のイメージが、彼の心を完全に殺した。
「原則は原則でしかないわ。抜け道はいくらだってある。ヒトを傷つけられないからと言って、私達がヒトに敵わない道理はないのよ」
エリカがそう言って剣をしまう頃にはもう、男は立ち上がることさえできなくなっていた。
口から泡を吹き、衣服はどこもかしこも洪水状態。
頭髪は一瞬で何十年分もの苦痛を味わったかのように、色が完全に抜け落ちてしまっていた。
「ふん、街のごろつきなんて所詮はこの程度ね」
退屈そうに呟くエリカの表情は、相変わらずの無表情だった。
悪党を懲らしめてスッキリしたなんて感情は彼女にはない。
目の前に汚れがあったから、軽く掃除しただけ。
そんな彼女の様子にアスターはなんと言ったら良いか分からず、ただいつもの言葉を選ぶことしか出来なかった。
「ええと、その……助けてくれてありがとう」
「私があなたを護るのは当然よ」
いつも通りの言葉に、いつも通りの返答。
もしかしたら何かが変わってしまうかもしれないと昨夜から不安に思っていただけに、アスターはいつも以上にホッとする自分がいるのを実感していた。
「でも」
だが、変化というものは気が緩んだときにこそ訪れるものである。
「これ以上私を心配させるのは勘弁してほしいわね」
エリカの口から出てきた言葉はあまりにも自然な台詞だった。
そう、親しい、あるいはある程度顔見知りの人間が危険な目にあっているかもしれないのなら、心配をするというのが道理である。
ヒトならば。
「確かにあなたは賢いわ。けれどやはり経験が足りないのね。危機感をもっと持つべきだわ。知らない男の口車にのせられてついていくなんて……あなたに持たせておいた目印が遠ざかっていくのを感じたときは本当に驚いたわ」
「目印?」
けれどアスターがその変化に気がつく前に、彼は別の事に気を取られてしまった。
「ええ、それよ」
エリカが指をさしたのは、少し離れたところに落ちていた銀色。
アスターが悪を倒そうと思い鞘から抜き放った、一振りの刃だった。
「エリカさんにもらった、護身用の……」
「そう。そういえばあなたがあれを振り回し始めたたのはちょっと想定外だったわね」
「え? でも身を護るためには武器が必要だったし、あの男は許せなかったし……」
そのために渡してくれたのではないかとアスターが聞くと、エリカは肩をすくめて首を振った。
「そうじゃないわ」
「……?」
「言ったでしょう、あれは護身用。あなたを護るために渡した、私の剣よ。あなたが戦うためのものじゃない」
エリカの遠回しな口ぶりに、アスターは首をかしげる。
何がどう違うのか、自分が戦うためのものじゃないとはどういうことなのか。
戦わずに、どうやって身を守れというのか。
「さっきも言ったでしょう、目印だって。あれは私を構成する、私と繋がりを持った素材から生み出した武装。私達エンシスというのはね、自分が生み出した武装と繋がりを持っているの。たとえどんなに離れようと、それがどこにあるのかくらいのことは感覚で理解できる。自分の身体の一部であるかのように、動かすことだってできるわ」
こんな風にねと言いながら、エリカが落ちていたナイフを触れずに持ち上げた。
宙を舞う銀色はゆっくりと移動し、アスターの右手に再び収まった。
「……そういうことは最初に言ってほしかったな」
「説明不足だったのは否めないわね。こんなに早く必要になるとは思わなかったから」
少しだけきまりが悪そうにそっぽを向くエリカ。
今日の彼女はやけに素直だなと思いつつも、アスターはようやく理解した。
彼女がどうしてこの場所を知ることが出来たのか。
そして撃ち抜かれたはずの自分の眉間が、どうやって護られたのか。
彼女はずっと近くにいてくれていたのだ。
生き延びたという事実よりも、そのことが何よりうれしかった。
「それにね」
受け取ったナイフを鞘に収め、いつまでもこの場所にいても仕方がないと倉庫を出ようと立ち上がると、エリカがそっと呟いた。
思わず彼女の顔をじっと見てしまう。
「あなたが今ここにいるのは、あなたの敵と戦うためじゃないわ。あなたはあなたがいるべき場所へ行くために、いまここに立っている。そんなあなたが、戦うための武器を握る必要なんてないの。もしも何かがあなたの前に立ちふさがっても……それを倒すのは、私の役目だわ」
優しい言葉だった。
機械の少女が発したとは思えないほど、柔らかな声音。
どこか懐かしく、安心する響き。
それは、まるで別の誰かが乗り移ってしまったかのような囁き。
だがアスターはそんなことに思い至ることもなく、彼女自身もまた、自分が口にした言葉の意味を深くは理解していないようだった。
「うん、ありがとう」
結局アスターが返したのはその一言だけだった。
けれどこれでいいと、彼は確信していた。
彼女の優しさに応えるのに、この言葉以上に相応しい台詞などないのだから。




