#021_悪に抗うために
「そういやあおにーさん、おにーさんは護衛とかつけないのかい?」
歩きながら、男は何気なくアスターに尋ねた。
「あー、今は別行動中で。街の外では一応」
「へえ、やっぱり外は危ないんだねえ。街の中にいるとどうしてもそのあたり感覚が鈍っちゃってしょうがないや。きっとその人は強いんだろうねえ」
「僕もどのくらい強いとかはいまいち分からないですけど……センチピード、でしたっけ。あれを一人で倒せるらしいですよ」
「うっひゃぁ! センチピードって言ったら、手練の戦士でも束にならないと戦いにすらならないって評判のミレスじゃないか! いやあ、やっぱり身体の作りからして違うんだもんなあ、そのくらい強いよなあ」
どこか不自然さも感じる男の言葉に疑問を持ちかけたアスターだったが、その違和感の元に辿り着く前に、目的地へ到着したようだった。
いつの間にか人の往来はなくなっており、周りにある建物も全体的に古びていて、廃墟といっても差し支えのなさそうな雰囲気が醸し出されていた。
「ここ、入っても大丈夫なんですか?」
男が指し示していたのは、大きな倉庫のような建物だった。
両開きの扉が半分だけ開いたままになっていて、近寄るのすら躊躇したくなるような不気味さがある。
「ああ、何度も使ってるけど危ないことは特になかったよ。軽く調べたけど、しばらくは崩れる予兆もなさそうだしね」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。いい穴場でしょ? 本当に誰も来ないし、近くまで誰かが来たってちょっと不気味だから覗こうとする人もいないしね」
「確かに、ちょっと近寄りがたい雰囲気はありますね」
男の軽口に相槌を打ちながら、促されるままにアスターは屋内へと足を進めていく。
この建物は本当に使われなくなって随分経つようで、打ち捨てられたままの資材には埃が積もりきっていた。
明かりを取り込むための天窓も薄汚れていて、ただでさえ弱々しい光がこの屋内にまで届くことはほとんどなさそうだ。
「だからさ」
きょろきょろとアスターが周りを観察していると、不意に静かな声音が背後から聞こえてきた。
「こうして君みたいな騙しやすい若者を連れ込むにはちょうどいいんだよ」
「……え?」
それってどういう意味、とアスターが振り向いたところでようやく、彼は男の雰囲気が変わっていることに気がついた。
人の良さそうな笑顔はそのままに、目の色だけが冷たく濁っていた。
「くっくっく、まだわからないかねえ、これだから金持ちのぼんぼんってのは楽でいい。ま、君は今までで一番楽だったけどねえ?」
「だから一体何を……」
アスターは思わず後退りしながら、腰にぶら下げたナイフにそっと手を当てた。
自分の知らないなにかが、今ここで起きようとしている。
いや、知らないわけじゃない。
言葉では知っていたし、この世界にはこうした悪しきものが蔓延っているのだと、想像もしていたはずだった。
「はぁ、いつまでもとぼけているのは流石につまらないよ? しっかり腰のそれに手を伸ばしちゃってるくせにね?」
「……騙したんですか」
確かめるまでもないことを、アスターは確かめる。
ドッキリでしたと言ってほしいという切なる願いを込め、低く静かな声で男に尋ねる。
「そうだよ? といっても、儲け話ってのは嘘じゃないからね。おにーさんが誤解するように話をしたけど、俺は嘘はついちゃいないのさ」
「……なるほど、儲けるのはあなただけ、という話だったんですね」
「へえ、へえ!」
アスターが言い当てると、男は随分と嬉しそうに驚いた。
「おにーさん、食えない男だねえ。こんな状況でも随分冷静みたいだし、頭も回る。どうしてこんなに簡単に騙されたのか……外から来たにしてはこういう経験が無いってことなのかねえ」
「それはあなたにとってどうでもいい話でしょう」
「たしかにね、その通りだ。ま、こっちとしても無駄に時間をかけて誰かに見つかっちまっても面白くないからね。人がほとんどこないって言ったって可能性はゼロじゃあないんだ。よし、じゃあ早速商談といこうじゃないか」
厄介なことになった、とアスターは自身の軽率な行動を後悔した。
入り口は男に塞がれていて、近寄ることも難しいだろう。
頼みの綱のエリカもいまは整備を受けているし、それがもし仮に終わっていたとしてもこの場所を伝える手段がなにもない。
他にどこか逃げ道は無いかと目だけを動かし室内を探るも、ご丁寧なことに出入り口になりそうな場所はすべて鎖や板などで完全に封鎖されてしまっている。
「はぁ、それしか無いみたいですね。わかりました、それで、僕はどうすればいいんですか?」
「なあに、簡単なことだよ。おにーさんにはこの出入り口を通る権利を買ってほしいんだ。そうだなあ、このくらいでどうだい?」
そう言って、男はアスターに向けて指を三本立てた。
こういう示し方の場合は多分……と、アスターは予想する。
「三十万……なわけないですよね。となると三百万クレジット……すぐに用意するのは……いやでもここを出てあの人に頼めば……?」
アスターが考えたのは、フェリに頼むということだった。
彼ならこのくらいの金額はぽんと用意してくれそうだし、働いた分でなんとなく返せるんじゃないか、という気がしていた。
もしくはエリカに頼んでも良いだろう。
彼女の稼ぎなら、この程度造作もない金額だとは思う。
「なにか勘違いしてないかい?」
しかし、アスターがブツブツと資金調達について考えながら呟いていると、冷たい声が投げかけられた。
「おにーさんに提示している金額は三百万じゃあない。三千万だよ。三千万。桁を間違えないでくれないかな?」
「さ、三千万……ッ!?」
いくらなんでもその金額は無茶すぎるし、馬鹿げている。
理不尽すぎる男の要求にアスターは思わず声を詰まらせた。
「払えない金額じゃあないだろう? 君の護衛はもっと高いはずだよ。え? そうだよねえ? ああ、彼女に払ってしまって三千万はすぐに用意できないのかい? それなら彼女をくれるんでも俺は構わないけどねえ?」
「な、何を……」
いくらお金が用意できないからって、彼女をこんな悪人に渡すことは出来ない。
そもそも、そんなことをする権利がアスターにはない。
無理だと言おうとして、アスターは再び違和感を覚えた。
どうして彼は自分の護衛が女性だと知っている?
どうして、法外な金額を要求してそれが通用するような人物だと知っている?
確かにセンチピードを倒すほどの強さということは男に言ってしまったが、それだけで具体的な金額が出てくるとは思えない。
まるで、彼女のことを知っているかのような口ぶり……。
「まさか、あなたは彼女のことを……エリカさんのことを知っているんですか? 僕の護衛が彼女ということを?」
「んー? ああ、そりゃ知ってるさ。知っているからおにーさんに声をかけたんだよ。いやあ、昨日あの【風剣】を見かけたときはびっくりしたよね。まさか彼女がこんな世間知らずそうな子供のお守りをしてるなんてねえ。一体あの少年はどんだけ金を持っているんだろうってね、昨晩はよだれが止まらなかったよねえ」
アスターはゾッとした。
お金というものは、人をこんなにも醜悪にしてしまうのかと。
男の笑みからは穏やかな色は一切消え失せ、今や下卑た汚らしい色に染まりきっていた。
「いやあ、しかし今朝はうっかり往来で笑い転げそうになってしまったもんだよ。なにせ目の前で、昨日見つけたばかりの金づるが無防備に一人で歩いているんだから! 本当に、本当に運がいいと思ったねえ」
アスターは許せないと思った。
金のためだけに人を平気で騙し、笑うこの男を。
アスターは許せないと思った。
この世界の悪意を甘く見て、気を緩めてしまっていた自分自身を。
「で、どうするんだい?」
こんな悪党に、泣き寝入りは決して出来ないとアスターは思う。
しかし、だからといってどうすればいいのか、彼には分からなかった。
エリカのように戦う力があれば、きっとその剣で悪を切り払うことが出来ただろう。
だが、アスターには武器がない。
力がない。
勇気がない。
この世界で生きることを選ばなかった、臆病者だ。
助けてほしい。
アスターはそう願った。
だがその願いの成就を確かめる前に、彼は自分の指先に触れる感触を思い出した。
そうだ、武器がないなんてことはないんだ。
彼女は、こんな時のためにこれを渡してくれたんだ。
アスターは手を震えさせながらも、鞘からゆっくりと銀色の刃を抜いた。
悪を懲らしめるため、エリカが預けてくれた正義の象徴をその手に握ったのだ。
「……へえ、俺を殺してここから出ようってんだ。そんな震える手でできるの? おにーさん、武器を持ったこと無いんじゃないの?」
「そんなの、やってみなくちゃわからないよ」
「ふうん、ま、そうだね。いいよ? 最近の獲物はすぐに金を出してくるつまらないのばっかりだったから、俺も久々に楽しんじゃおうかな」
アスターが震えながら決意を声に出すと、男は笑いながら手招きし始めた。
挑発するような仕草。
その手には何も持っていない。
素人の刃など素手で十分ということなのだろうか。
「このっ!!」
そのあからさまな行動に、アスターは激昂して駆け出す。
ナイフを持つ右手を思い切り振りかぶり、大きな軌道で全力で斬りかかる。
「わかりやすいなあ。やる気あるの?」
だが彼の全力の攻撃は、男にひらりとかわされてしまう。
勢いを殺しきれなかったアスターはそのままつんのめりそうになり、慌てて全身に力を込めて体勢を立て直す。
「くそっ、今度こそっ!!」
軽々とかわされたことでアスターは冷静さをますます失い、隙だらけの攻撃を何度も何度も繰り返す。
しかし当然、そんなただ力任せなだけの無茶な攻撃は一発たりとも当たらない。
いつの間にか男はポケットに手を突っ込んでいて、あくびまでし始める始末だった。
「はぁ、はぁ……なんで……なんで当たらないんだ! くそ!」
「いやあ、それにしてもどうして彼女はそんな骨董品をおにーさんに渡したんだろうねえ。素人が使えるわけないのに」
男の声音は馬鹿にしていると言うよりは本当に不思議に思っている風で、気になったアスターは息を整えるのも兼ねて、彼の言葉に耳を貸すことにした。
「それって、どういうこと、ですか?」
「ん? ああ、深呼吸しなよ。待ってあげるから。んー、そうだねえ、まず第一に、ナイフなんて今どき持ち歩く意味ないよって話があるかな。護身用だったらほら、こういう便利なものがあるからさ」
そう言って、男が懐から何かを取り出す。
「拳銃、知らないわけじゃないよね? ヒト一人殺すならこれ一発、眉間に打ち込めばそれで終わり。それにさ、近寄っちゃえばナイフのほうが強いとか言う人もたまに言うけど、素人のナイフなんて今やったみたいに簡単にかわせるからさ。怖くないんだよ。わかる?」
「じゃ、じゃあ……僕が今やっていたのは……」
「そ、体力の無駄遣いってやつ。まあ、俺はおにーさんの必死な顔が見られて楽しかったけどねえ?」
アスターは言葉を失った。
エリカが与えてくれた力は、アスターが持っても無駄なものだった。
使い方をきちんと理解していれば、あるいはこの悪党を倒すことが出来たのかもしれない。
けれどアスターに戦闘経験はない。
ナイフなんて、調理場でリリィが握っているのを見ていたくらいだ。
「はははっ! いいね、その顔! 希望が絶たれた絶望の顔! ああ、お金よりもよっぽど良いものをおにーさんには貰っちゃったなあ。こりゃ三千万クレジットも取るのはかわいそうかなあ」
男が何かを言いながら笑っているが、もはやアスターの耳には何も届いていなかった。
自分はこれからどうなってしまうのだろう。
この男は、お金を払えない自分をどう扱うのだろう。
死という言葉がアスターの脳裏をよぎった瞬間、彼はとうとう膝から崩れ落ちてしまった。
脱力した右手からナイフがするりと滑り落ち、空虚な金属音が響き渡る。
「ありゃ、もうおしまいか。うーん、彼女を貰おうにもこの様子のおにーさんじゃ交渉できそうもないしな……殺すしかないか」
呆然とするアスターの前に、男がゆっくりと近づいていく。
男は右手で拳銃を弄び、カチャカチャと鳴らしている。
そのセーフティはすでに外され、あとは狙いを定めてトリガーを引くだけだ。
「金にならなかったのは残念だったけど、少しは楽しませてもらったよ」
そう言い、男は右手を上げて指をトリガーにかける。
「それじゃ、おにーさん、さよならだ」
誰も来るはずのない街外れの廃墟で、銃撃音が一つ鳴り響いた。




