#019_一人と彼女の夜
「それじゃ、明日の朝に整備場に来てもらえるかしら。急がなくてもいいけれど、一人で寄り道するのはおすすめしないわね」
「うん、わかった。まっすぐ向かうようにするよ」
旅支度の買い物はつつが無く終わり、いま二人は宿で翌日の予定を確認しあっているところだった。
この後エリカは整備場に戻るため、宿に泊まるのはアスターひとりとなる。
頼りになる存在と一晩離れてしまうことに少しだけ不安を感じるアスターだったが、エリカが警備のしっかりした上等な宿を探してくれたのだからきっと危険はないだろうと、彼女の前では気丈に振る舞うことにした。
「あなたは私にとって護衛対象でもあるのだから、私が目を離した隙に事件に巻き込まれるのだけは勘弁してほしいわ。私の方からこちらに迎えに来ても良いのだけれど……それは非効率だものね。街の中を真っ直ぐ歩くだけで問題を起こすなんて愚か者にしかできないことだから、あなたなら大丈夫よね」
「……保証はしかねるけど、今日一日街の中を歩いたから大丈夫だと思う」
「それくらいは保証してほしいところだけれど……そうね」
不確定要素は減らすべきよねと言いながら、エリカが虚空に手を伸ばした。
一体何をするつもりなのだろうと首をかしげるアスターの目に映り始めた光景は、なんとも幻想的なものだった。
ぼんやりと光を放つ、小さな光球たち。
どこからともなく現れたそれらは宙をくるくると彷徨ったかと思うと、まるで安住の地を見つけた砂漠の迷い人が如く、一点に向かってふわふわと移動を開始した。
行き着く先は、彼女の手のひら。
質量のない小さな球体たちは短い旅を終えると彼らのオアシスへと飛び込んでいき、やがて大きな輝きを放つ塊へと変容していく。
変化にかかった時間は測ってみればきっと一瞬の出来事だったのだろう。
だがたとえどんなに短い時間だったとしても、アスターがその光景の意味するところを読み解き、彼女という存在の特異性に驚愕するには十分すぎる長さだった。
「これって……物質生成?」
物質生成。
無から有を生み出す、夢の技術。
保存則を考えれば当然そんな事ができるわけないのだが、しかし世界を改変するというエンシスの能力ならばあるいはと、アスターは少しだけ期待を込めてその言葉を選び、エリカに問いかけた。
「厳密には違うけれど、概ねその理解で間違ってはいないわね」
少しだけ得意げな口ぶりで答えながら、エリカはアスターに手を出しなさいと要求する。
一体何をくれるのだろうとドキドキしながら手を差し出すと、その上にずしりと重さが伝わってきた。
無機物特有のひんやりとした感触。
凹凸のない美しい作りを指先に感じながら、落とした視線が拾い上げた物体の形状を認識すると、アスターはぞくりとするのを感じた。
それは、鈍い光を放つ一振りの刃。
調理用にしては鋭すぎる、紛れもなく戦闘用のナイフだった。
「護身用よ。別にそれで誰かを襲いなさいって意味じゃないわ」
どうしてこんなものをと、エリカの顔を見つめると彼女は何でもないようにそう言った。
護身用。
ただ街を歩くだけでそんな物が必要になるのかとアスターは疑問を抱く。
武装なんてして歩いていては、それこそ自分自身が人に危害を加える可能性のある危険人物だと思われてしまうのではないかとも考えた。
ナイフを見つめる視線を持ち上げ、彼女の顔を改めて捉え直そうとするも、二人の視線が合うことは決してなかった。
これでもう懸念事項はないわねと、エリカはすぐにでも部屋を出ていきそうな素振りを見せ始めていたのだ。
「ええと、こんな物騒なものを持ち歩いていて僕がその、捕まるとか、そういうことはないの?」
踵を返しそうになっていた彼女を慌てて引き止めるべく、これだけは聞いておかないと不安なことを口に出す。
言葉は空気を伝わり、確かにエリカの耳に届いたようだった。
何かを思い出したように足を止めると、彼女はアスターに向き直った。
「確かに抜き身で持ち歩くのは危ないわね」
再び手のひらに光を集めだすエリカ。
彼女の行動は回答としては随分ずれたものになっていたが、しかしこれ以上何かを言っても無意味だろうと、アスターは諦めることにした。
それに、結局彼女が何も懸念を示していないのだから問題はないはずなのだ。
ナイフよりも少しだけ時間をかけて生み出された物体を受け取り、その質感を確かめる。
刃とは違い、光沢のない落ち着いた色合いの、しかし重々さを感じる鞘。
けれどその重さは見た目とは裏腹に随分と軽く、極めて実用的な作りになっているようで、使う者のことをしっかりと気にかけているように感じられた。
どこかズレた気遣いの仕方に音にもならないため息をつきつつナイフを鞘に納めると、カチリと気持ちの良い音が鳴り響く。
とても人殺しの道具とは思えない美しい響きにほんの少しだけ恐怖心を覚え、二度とこの音を聞くことがないようにとアスターは願う。
「それじゃ行くわね」
離れたところから聞こえた声にハッとしてアスターが顔をあげると、エリカはすでに扉に手をかけていた。
すでに彼女の視線は彼の方には向いていない。
彼女にとって、彼をこの宿に残すことはもう何の心配もないことなのだ。
しかしアスターはそうではない。
今になってたった一人取り残されてしまうことがどうしようもなく不安に感じられ、いつしか少年の右手は虚空をさまよい始めていた。
けれどその腕は何を掴むことも出来ず、エリカは後ろ髪をさらりと揺らしながら部屋を去っていってしまった。
宿の一室はそれほど広くはない。
アスターが故郷で寝泊まりしていた自室の半分にも満たないくらいだろう。
にもかかわらず、どうしてだろうか。
彼女がいなくなったこの部屋は妙に広く、いくら手を伸ばしてもあの扉には届かないように感じられた。
「エリカさんはいい宿って言ってたけど……やっぱりベッドは硬いんだな」
ぼんやりとした気持ちで腰を下ろしたベッドの感触に、アスターはふと現実感を覚える。
段々と慣れてきたような気もするこの硬さも、いつか本当に当たり前のものだと感じるようになってしまうのだろうか。
ほんの数日前まで包まれていた、陽の温もりのようなあの柔らかなベッドを忘れてしまう日が来るのだろうか。
そんな未来がとても恐ろしく感じられ、いっそのこと眠る必要のないネーヴァだったなら良かったのにと、アスターはエリカやリリィのことを羨ましく思い始めていた。
「はぁ、起きていると色々考え込んじゃうな……もう寝よう」
暗い気持ちから逃げるため、小さな灯りを消してベッドに身を投げる。
灯りの消えた室内はどんなに目が慣れても深い闇に包まれており、天井に手を伸ばせばそのまま腕が吸い込まれてしまうのではないかと錯覚してしまうほどだった。
いつしか窓の外の喧騒も遠く消え失せ、身じろぎする度に軋むベッドと床の音ばかりが妙にうるさくアスターの耳を打つ。
眠れない夜と静寂は彼の不安を煽り続け、冴えきった目はやがてアスターを悪夢の世界へと誘った。
一方その頃。
まだアスターがベッドの感触を憂いているその間に。
エリカは一人でゲガルハの元を訪れていた。
目的は当然、リリィの身体を自身に取り込むことである。
「待たせたわね」
「む、やっときたのぉ。待ちすぎて素材が錆びちまうかと思ったわ! ゲガハハハ!」
作業室に入りながらエリカが挨拶すると、手を止めたゲガルハが快活に笑いながら振り向いた。
無茶な仕事を頼んだにも関わらず楽しげなのは、きっと彼がそれだけこの仕事に打ち込んでいるということなのだろう。
「はいはい、手際が良くて助かるわ。早速作業に取りかかれるかしら?」
対するエリカはゲガルハの冗談には一切触れることなく、淡々とした様子だ。
その返答につれないのぉと苦笑しながらも、仕事には誠実な職人は気を取り直すように真面目な口調で返事をする。
「素体の方は準備できとるぞ」
「わかったわ。それじゃコアの方は私が身体を再構築している間に準備を終わらせてちょうだいね」
エリカの方もこの時間に来れば彼がきちんと仕事を進めていることは疑っていなかったらしい。
感心も感謝も見せず、部屋の一角にある大きなカプセルのような装置の元へとカツカツと歩を進めていった。
「あー、そうじゃな、できるだけそうしておこう」
けれど、豪快なこの男にしてはどこか誤魔化すような物言いに、迷いのないエリカの足音がピタリと止まった。
「なによ、歯切れが悪いわね。あなたなら出来るでしょう」
「特に問題がないようなら、まあ、うむ、なんとかするけぇの」
彼女が振り返り尋ねると、やはりゲガルハの返答は彼らしくない。
普段の彼ならばここは「ワシを誰だと思っとるんじゃ!」くらいのことは言うところである。
それが今は、視線も宙をさまよっているような状態だ。
「? 何だか問題がありそうみたいな言い方ね」
ヒトの感情の機微に疎いエリカでも、ここまで露骨におかしな態度を取られれば疑問を抱くのは当然である。
なにか問題があるのならば今回の依頼主として知っておきたいと、挙動不審な男にその真意を問いただした。
「いやいやいや、まだ問題があると決まったわけじゃなかろうに。本格的に調べるのはこれからだからの、きっと何か寝ぼけて勘違いしとるんじゃ。うむ、そうに違いないのぉ。なにせいつもは寝とる時間だからな? ちぃと眠気覚ましにキツいのを一杯飲むかのぉ!」
するとゲガルハは自分の腕が疑われているとでも思ったのか、慌てた様子でまくしたて始めた。
その言葉の中には肝心の情報が何一つとして含まれてはいなかったが、少しだけいつもの様子を取り戻した彼を見て、それ以上問い詰めるのは時間の無駄だろうとエリカは判断した。
「ふうん、まあいいわ。とにかくこっちが終わるまでに頼むわよ。時間は無駄にしたくないわ」
「ああ、わかっとる」
最後にそれだけ言葉を交わすとエリカは再び装置の方に歩を進め、目の前に立つと着衣をほどき始めた。
リリィの身体だったものを取り込むには衣服などという不純物は邪魔にしかならない。
もしもこの場にアスターがいたならば、恐ろしいくらいに均整の取れた美しい肢体を恥ずかしげもなく晒すのを見て、きっと羞恥のあまり慌てふためいたことだろう。
けれどここにいるのは自身の身体に性的な価値を一切感じていない機械の少女と、そしてネーヴァに対しては不能となった哀れな職人だけである。
色気というものを一切醸し出さないまま、エリカは芸術的な裸体を装置の中に収め、あらゆる観測者の目が届かない場所へと姿を消した。
ネーヴァの身体は、決して成長することがない。
彼ら彼女らの姿は生まれたときに刻まれた数値の羅列によって決定づけられ、その後一切の変動を許していないためである。
ネーヴァの個性を決定づけているペルソナコアに刻まれたこの個体情報が自動的にその者にとって最適な容姿を形成し、超高次元情報集積体であるオープ素材を組み換え現実の肉体とする。
すなわち、いくらネーヴァ一人分の素材を取り込んだとしてもその姿かたちが変わるなんていうことは、絶対にありえないことなのである。
「おう、お疲れさん。身体の調子はどうじゃ?」
数時間後、装置の扉が静かに駆動音を響かせながら開いた。
内側からじんわりと溢れ出してくる白煙を抜けて出てきたのは当然、エリカだ。
金属の床と何も履いていない素足が触れ合うぴとりという生きた音を鳴らしながら、全裸の少女が口を開く。
「身体の再構築中は意識もないし、私達はそもそも疲れなんて感じないのだけれど、まあそうね。普通のネーヴァの素体を取り込んだとは思えないくらい身体の調子がいいわ。なんだか軽くなったみたい」
作り直した身体の調子を確かめるように軽く手を動かす彼女の表情はこれまでと何一つ変わるところなく、当然、容姿も数時間前から一切変わっていないようだった。
控えめな乳房が腕の動きに合わせて小さく揺れ、美しい黒髪は重さを感じさせずにふわりと靡いている。
男ならば誰でもその姿に釘付けになるところだったろうが、ゲガルハは裸体には一切の興味を示さず、むしろ彼女がこぼした言葉に面白さを感じたようだった。
「ゲガハハハ! オープ素材の量は増えとるんじゃから身体が軽くなるわけなかろうに!」
「馬鹿ね、高次元領域での座標をずらして安定化させているのだから三次元世界での質量が変化するわけ無いでしょう」
「ゲガハハハ! ならどっちにしろ軽くなるわけないじゃろう!」
「それもそうね」
ゲガルハは小粋な冗談を言っているつもりで一人で笑っているのに対し、エリカは大真面目に言葉通りの返答しかしない。
漫才としては全く成立していない二人の掛け合いだったが、観客が一人もいないこの場においてはそれで空気が白けるということは決してないようだ。
相変わらずつれないのぉとゲガルハは少しも残念ではなさそうに笑うと、用意しておいた貫頭衣を彼女に投げて渡した。
いつまでも全裸でいるなということだろう。
エリカもその意図を理解し、素直に受け取ったものに袖を通す。
「とにかくこちらは無事完了したわ。それで、コアの準備はできているの?」
先程は終わらせておけと言っていたものの、エリカとて無茶を言っていることは承知していた。
なのでまだかかるようなら新しい身体に慣れるために少し体でも動かして待っていようかと考えていたのである。
だが、どうやらそんな必要はなさそうだった。
「ううむ、ハード面に関してだけいえば問題なく取り込める状態には復元できているはずだな」
やはり彼は一流の職人なのだろう。
たった数時間で損傷のひどいコアを手直ししてしまうなんてことは、並の整備士にできることではない。
しかしエリカは、それよりも重要な彼の言葉をきちんと拾っていた。
「そう。ハード面は、ってことはウイルスでも見つかったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだがのぉ。ワシもこんなことは初めてだからのぉ……」
拾った言葉から推論したエリカの予想はきっぱりと否定された。
けれどゲガルハの態度は相変わらず煮え切らないもので、それは困難な事態が起きているというよりは本当に不可思議なことが起きていて困惑している、といった様子だった。
「はっきり言いなさいよ。ダメだったならダメでいいわ」
「ううむ、それがじゃな……どうもこのコアには何か隠されたデータがある……気がするんじゃ」
「気がする? 曖昧ね」
「なにせ時間もなかったし、表層から読み取れるデータなんぞたかが知れてるからの。それに、そもそも破損がひどい」
ゲガルハの言葉には一理あるとエリカは少しだけ思った。
なにせネーヴァのコアの記憶領域には複雑なプロテクトが掛けられているから、たとえ状態が良くても相応の時間と相応の設備が必要になるはずなのだ。
だが、それにしては気がするというのも妙な話である。
「でも何か、痕跡のようなものが見つかったというの? まともに読み取れないのに?」
そう、まともに読み取れないのなら、そもそもそんな隠されたデータの痕跡なんて見つかるはずがないのだ。
解析がしきれないという彼の言葉は確かに道理だが、彼が困惑しているこの状況それ自体は全く理にかなったものではなかった。
「ああ、というのもだな……完全に死んでおるはずのコアを調べているときにな、妙なノイズ、いや、あれはシグナルといったほうが良いかもしれんな。それが検知されたものでな」
「シグナル? 調査のために通電しようとしてエラーが起きたとかではなくて?」
「いいや、そうじゃない。こちらからは何もしていないのに、シグナルだけが突然、な。無論検査装置の不具合も疑ったがの、こっちはどこにも問題はなかったんだ」
「ふうん、それは妙な話ね」
「はじめに気づいたときは見間違えかと思ったんだがの、どうも不規則にそのシグナルが現れるもんでな……。しかしいくら調べても原因がわからない。こんなことは初めてでのぉ」
本当にお手上げだと言わんばかりに、肩をすくめるゲガルハ。
いつもの奇怪な笑い声を上げることさえ忘れているところを見るに、本当に困っているのだろう。
「まあ、いいわ」
けれど、エリカにとってはそれほど深刻な問題とはならなかった。
困り果てた禿頭をよそに、作業台に置かれたコアのもとに近寄っていく。
「私に害のあるウイルスの類は検知されていないのでしょう? それだけで十分だわ」
リリィのコアの表面を撫でながら、なんでもないように告げる。
「ああ、それはそうだが……」
そう、エリカにとってリリィのコアに秘された情報なんてどうでもいいことなのだ。
もちろん、それが何か価値のあるものである可能性はあるし、他の誰かにとって有用なデータである可能性は高い。
けれど、今のエリカにとって重要なことは、ここに沈黙している一人の女性の魂をしっかりと受け継ぐというその一点のみである。
そのための障害がなにもないのであれば、問題なんて何一つないのだ。
「第一、ネーヴァのコアなんてわからないことだらけなんでしょう。クレイシアだって完全に一からネーヴァを生み出しているわけじゃないと聞いているわ。思い悩むだけ無駄というものよ」
「まあ、エリカちゃんが良いって言うんならワシはこれ以上何もいわんがの」
きっぱりと言い張るエリカの態度に、ゲガルハもいささか落ち着きを取り戻したようだった。
真面目な顔つきになり、彼女にコアを埋め込むための準備に取り掛かろうとする。
「その呼び方はやめなさいと何度言えば良いのかしらね」
「ゲガハハハ! ま、それなら始めるとしよう。そっちの台の上に寝てくれ」
豪快な笑い声から彼がいつもの調子を取り戻していることを理解すると、エリカは衣服を脱いで台に横たわる。
そして、新たな魂を受け入れるべく意識をシャットダウンした。




