#016_渡し屋、フェリ
シワひとつない濃紺色のジャケットに身を包んだ濃色肌の男。
その落ち着きのある雰囲気を真っ向から否定するかのように、男の胸元では鮮烈な橙色のネクタイが激しく主張しており、彼という人物の人となりを示しているかのようだ。
足元に目をやってみればきっと毎日磨いているのであろう、美しい光沢の革靴。
白いシャツも、ジャケットに合わせたスラックスも、銀色に輝く腕時計も、上から下まで全てを一級品で揃えている彼は、まさしくこの世界にはとても不釣り合いな出で立ちで――アスターの世界にこそ相応しそうな風貌だった。
「さて、そちらのエルリカリシア嬢は随分とお久しぶりだねえ。かれこれ――三千四百と飛んで八日ぶり程……かな?」
「さてね、興味ないわ」
「おおっと、相変わらず釣れないお方だぁ! だがそこが実に良い……ああ、実に良い」
アスターが男の服装に驚いているうちにも、エリカたちは愉快そうな挨拶を繰り広げている。
男の喋り方はまさに陽気そのものといった風で、毎回大げさな身振りで反応するので、見ているだけでこちらも楽しい気持ちになってきそうだった。
しかしその分、どこか胡散臭いところもあるなと感じられてしまった。
「それで……本日の用件はそちらの初めて顔を見る紳士が絡んでいるとみたのだが……どうだい?」
そんな風に思っていると、先程までの楽しげな口調から一転して、トーンを落としながらアスターに真剣そうな視線を向けてきた。
言っている内容はそれほど難しい推理では無いと思ったが、しかしこの彼の雰囲気の切り替え術は並大抵のものには出来なそうだと、アスターは少しだけ気を引き締めることにした。
「ええ、彼はアスター。私は彼をあなたに会わせるために案内しただけよ」
「よ、よろしくおねがいします」
エリカの口ぶりからして、ここから先は口出しするつもりがないのだろう。
男のただ者ではない気配に飲まれないよう、緊張しながらも先手をとって挨拶をする。
「おぉぉ、そうでしたかそうでしたか。そいつぁ愉快なことだ。アスター殿、挨拶が遅れ申した。俺はここメフッタを担当しているフェリだ。今後ともよろしく頼むよ。で、俺たちのことは知っているのかい?」
「ええと、すみません。無知なもので……」
差し出される手を握り、この世界にも握手はあるんだなあと思いながらもなんとか彼の質問に答えていく。
うっかりここで嘘をついて、信用を落とすようなことがあってはいけないと思いながら。
「いいねえ、正直なのは良いことだ。実に良い。時折紹介されてやってくる連中の中にもねぇ、見栄でも張りたいのかなんなのかは知らないが、嘘をつく人がいてねぇ。ああ、そういう連中は良くない、実に良くないよ……。なにせ信用だけが頼りのこのフェリで、その信用を大きく損なう行動だからねぇ……」
フェリと名乗る男はそう言いながら、本当に過剰な程の身振りで悲しみを表現している。
こんな芝居じみた動きこそ、信用を大きく損なうような気もするのだがとアスターは思ったが、しかしそれは言葉にしないことにした。
「ええとそれで、フェリさんは具体的にどんなことを……?」
「ああ! すまないすまない、一人で盛り上がってしまっていたねぇ。これは良くない、実に良くないことだ……。さて、俺たちフェリがやっていることは実にシンプルだ。この世界に存在するあらゆるモノを用意し、それらをお客様に提供する。用意できるものは今日の夕飯から武器弾薬、装甲車、家、土地。怪しい噂の絶えない人気店の裏帳簿から――気になるあの娘の恋心まで……。お客様のあらゆる要望を聞き、そして解決策を提供する。それがこのフェリ――渡し屋フェリの実にシンプルで、クールで、ナイスな、仕事さ」
「は、はぁ……」
フェリの語りはとてもテンポが良く、うっかり聞き入ってしまうような楽しさのある演説だった。
しかしその内容がどうにも胡散臭く、アスターには彼が本当に信用に足る人物なのか、やはり怪しく思えてきてしまっていた。
「その顔はよく分かってないって顔だねぇ。素直なのは良いことだ。実に良い。そして初対面の人間をすぐに信用しないというのもまた良い。実に良い態度だ。うーん、気に入った。このメフッタのフェリ、アスター殿を気に入った!」
「そ、それはどうも」
何も言っていないし、何もしていないというに勝手に納得され、勝手に気に入られている。
前々から思っていたことだが、アスターの故郷に比べてこの世界の人々は随分と個性的な人が多いような気がする。
これが土地柄というやつなのだろうか。
しかし、このままでは彼のペースに飲まれていく一方だ。
このあたりで一度情報を整理するためにも、そして彼に主導権を取られすぎないようにするためにも質問をしようと決心した。
「ええと、つまりなんですが」
「うん?」
「フェリさんは何でも屋、のような商売をしていると考えればよろしいんですか? その、クレジットさえ積めばこちらの事情を深く聞いたりせずになんでも揃えてくれるような」
「ふむ、ふむ、ふむ。なるほどなるほど……」
アスターが聞いたのは、彼の職業を正しく把握したかったという理由だけではない。
彼の商売が、アスターにとって本当に都合がいいかどうかを確かめたかったのだ。
しかし、胡散臭い陽気な男の返答は少しだけ意外なものだった。
「その認識は間違っていないのかもしれない――そう、一般的に考えればね。だが、だがだよ、アスター殿。俺たちフェリは、何でも屋なんてちんけな生業で収まってるつもりは荒野の水源ほどもないんだよ、わかるかい? 俺たちフェリは渡し屋であり、商売人なんてみみっちい肩書を名乗ったつもりは――ない。世界中のあらゆるものと、あらゆるものを繋ぐ交渉人であり、中継者。世界を動かし、あらゆる流通によって世界を支配する、真の頂点にして影の存在。それが俺たち――渡し屋フェリだ」
そう宣言するフェリは、一切の身振りを交えず、ただ真っ直ぐに前だけを見ていた。
まるでこの信念だけが彼にとっての真実であり、今までの愉快軽快な喋りは全てがその生業のための演技であるかのように。
言っていることは無茶苦茶だとアスターは思った。
けれどそのあまりにも真剣すぎる姿勢はどんな交渉術よりも彼の胸をうち、なるほどエリカがクレイシアよりも信用できると言ったのはこういう事なのかもしれないと理解した。
「そうそう、それと言っておくが、俺たちがお客様に要求するのはクレジットだけとは限らない。お客様が信用に足る人物であることを証明してもらうこともあるだろうし、クレジットの代わりにちょっとした依頼を引き受けてもらうこともあるだろうよ。ま、クレジットなんて物は結局クレイシアが勝手に作った幻想の価値なんだ。それだけで俺たちの信用を得られるなんて思っちゃあいけないぜ、お客様よ」
「……なるほど、よくわかりました」
フェリのこの言葉で、アスターは確信した。
少なくとも、彼は自分が無知だからといって決して侮り、騙すような真似はしない。
だが同時に、アスター自身も彼を試すようなことは――逆立ちしてもすることはないだろうが――絶対にしてはいけないということだ。
そして彼を信用し、彼の信用を勝ち取ることさえできれば、間違いなく故郷への道のりを現実的なものとして視界に収めることが出来るだろう、と。
「よーし、では早速ビジネスの話といこうじゃないか。立ち話もなんだ、こっちにかけてくれたまえよ。お客様の為にせっかくいい椅子を用意しているのに、このままじゃただのバリケードだ」
冗談めかしながら彼が案内してくれた椅子は、なるほど確かに上等な代物だった。
多少硬い気もするが、それでもこの世界水準では圧倒的に柔らかいと言って申し分ないクッションが詰め込まれた、ソファ。
座っているだけで疲れてしまう金属製の椅子とはまるで違うその感触に感動を覚えてしまったアスターは、自分が知らず知らずのうちにこの貧しい世界に慣れてきてしまっていることに気づき、これじゃ良くないなと少しだけ自分を叱咤しておくことにした。
アスターが座るのを確認すると、フェリは机の端に用意してあった鈴を二度、軽く鳴らした。
それが合図となっていたのか、奥の扉から誰かがワゴンを押して入ってくる。
誰かは、あの苦い記憶が真新しい、練り物屋の女性店員だった。
静かに近くまで寄ってくると、ソファの前に置かれたテーブルに皿とカップを並べていく。
「こいつはお客様に出している、俺からの餞別だ――ちなみにチョイスは彼女だよ。代価は要求しないから遠慮せず食べてくれ。ま、美味すぎてお客様たちの多くは帰りに外の店で追加で買っていっちまうんだけどなぁ」
言いながら、フェリは自分にも出された皿の上の黒光りする食べ物に手を付ける。
とても美味しそうに頬張る彼だが――アスターは苦笑いせずにはいられなかった。
ありがとうございますと、口では言っておいたものの、部屋を去っていくときにあの巨乳の女性がアスターの方を見て、明らかに笑っていたのを彼は見逃していなかった。
お茶菓子としてコレを選んだのは、間違いなく彼女の悪戯心によるものだろう。
ちなみにエリカは自分はお客様ではないからと最初はソファに座らず壁際に立っていたのだが、そのクロカマボコが自分の分も用意されていたと知るやいなや、音も出さずにソファに座り、口をつけていた。
動く姿が全く目に映らなかったのが何となく恐ろしい。
「さて、それでどんな相談かな? 首輪でも用意してほしいとかって話かい? それとも――情報かい?」
アスターが手を付けずにいられるものをぺろりと平らげると、満足げなジャケットの男は真剣な顔つきになり、静かな低音で問いかけてきた。
少しだけ緊張が抜けてきたところだったが、本題に入るんだということを実感してアスターは再び緊張感を覚え始める。
「はい、情報です。ある絵柄について調べて欲しい。どこかで同じものが見つかっていないかと」
「ほう、絵柄」
「絵柄の由来などもできれば知りたいですが、それはあまり優先しません。とにかく、それがこの世界のどこかにあるのならその場所が知りたいのです」
もしもあの紋章の意味が知れるのなら、それは知っておきたいとも思ってはいた。
けれどそれは二の次だ。
アスターにとって最も重要なことは、彼が無事自分の故郷に帰れること。
この世界から逃げ切ることが出来るということ、その一点のみである。
「ふーむ、そいつぁなかなか難しそうな相談だ」
「……駄目、ですかね」
「だがそれでこそ良いってもんだ。ああ、実に良い相談だとも。まさに渡し屋フェリにこそ相応しい案件だ」
「じゃあ!」
「良いだろう、その依頼、確かに引き受けよう。それで、その絵柄っていうのは?」
「あ……」
アスターは失念していた。
調べてもらおうというのに、その紋章の正確な模写を用意していなかったのである。
一応なんとなく形は覚えているが、調べてもらうのに十分な精度かどうかは怪しい。
「……安心しなさい。ちゃんと用意してあるわ」
毎度のことながら、頼りになるのはやはりエリカである。
アスターが忘れていたものを、一体いつの間にかは知らないが彼女が準備しておいてくれたらしい。
軽い嘆息が聞こえた気もするが、しかし頼まれたわけでもないのにやってくれているところを見るに、彼女も案外世話焼きなのかもしれない。
「フェリ、端末を用意してちょうだい。直接送るわ」
「合点承知。こいつに送ってくれ」
フェリがジャケットの内側から取り出した携帯用小型端末をエリカに手渡すと、彼女は自分の人差し指をその端末の下部、おそらく入力端子がある部分に差し込んだ。
とても自然な動作だったので一瞬見落としそうになったが、少ししてその光景の異様さに驚き、そしてまたさらに少ししてから、ああそうかと、アスターは納得した。
本当にすぐ忘れてしまいそうになるが、彼女はネーヴァ。機械なのだ。
きっと、あの時見た紋章の映像が彼女の記録領域にはきちんと破棄されずに保存してあって、それをああして直接端末に送信しているのだろう。
少しだけ、便利そうでいいなあとアスターは思ってしまった。
「終わったわ。確認してちょうだい」
そう言ってエリカは端末を投げて渡す。
フェリはそれを嬉しそうに器用に空中で受け取ると、端末を操作して画像を確認し始めた。
「ふむふむ、これは……紋章かい。俺の記憶にはピタリと一致するものがなさそうだが、ま、そうだな……十日以内にはきっちり見つけることを保証しよう」
「本当ですか!?」
予想以上に早く見つけられるという彼の言葉に、アスターは思わずソファから立ち上がり彼の目の前まで顔をぐいと近づけてしまった。
飄々としたフェリでも、このアスターの喜びようには少しだけ驚いたようだ。
ネクタイを締め直して落ち着きを取り戻そうとしている。
「あ、ああ、だが当然、アスター殿にもきっちり代価を支払ってもらうぜ? その辺の準備は問題ないかね?」
「そ、そうですよね。それで、一体どれくらい支払えば……?」
正直なところ、あまり法外な値段を吹っかけられてしまっては支払える見込みはなかった。
だから願わくば、提示された十日の間になんとか稼げるくらいの金額にはなってほしいところだった。
「そうだな……初の相談ってこともあるし、内容もそれほど危険の伴うものじゃあない。諸々の経費なんかも全て込みで……ざっと二千万クレジット相当、ってとこかね?」
「二、二千……万?」
彼の提示した金額のあまりの多さに、立ち上がっていたままだったアスターはストンとソファに腰から落ちてしまった。
それは、どう考えても十日程度では稼げそうもない、途方もない金額だった。
エリカを雇うのですら、一日五十万クレジット。その四十倍である。
しかもこの男の言い方ではこれでもだいぶ安い方だということである。
一体フェリとは、どれだけこの生業で稼いでいるのだろうか。
「その様子じゃあクレジットで支払うのは難しいって感じだな。ま、そういうこともあるだろう」
「すみません……」
なんとなく呆れたような様子の彼に、思わず頭を下げてしまう。
その姿を見せた途端、フェリから退屈そうな雰囲気が滲み出てきたようだった。
これはやってしまったかと、アスターは自身の行動を少しだけ後悔する。
こういうときこそエリカに助けてもらいたいところだったが……隣の彼女はあまり関心がなさそうで、アスターがまだ手を付けていないクロカマボコをじっと見つめていた。
なんとなく白け始めたような部屋の空気に、アスターは天井を見上げてふうと呼吸を整える。
今まで、自分は一体何をしてきたのだろう。
死地をなんとか生き延びて、辛い現実を目の当たりにして、それでも尚死なずにここまでやってきて。
戦いからは目をそらして、逃げるために立ち上がって、それでもエリカにずっと頼り続けて。
帰りたい、逃げたいとずっと願っているのに、結局自分では一体何をしてきたのだろう。
思い返してみても、自分がしたことなんてこれっぽっちも思い出すことが出来ない。
エリカは、どうして手助けをしてくれないのだろうか。
自分ではどうしようも出来ない局面に立たされた時、エリカはいつだって何も言わずとも助けてくれていた。
それがエリカにとっての契約だからと言わんばかりに、自分を助け続けてくれた。
その契約がまだ続いているのに彼女が助けてくれないということは、彼女は、自分ひとりでもなんとか出来る場面だと信じているのではないだろうか。
ふと、机の上のクロカマボコを見つめる。
あの女性店員は、アスターが苦手だと知っていてどうしてこれを用意したのだろう。
あの人は、少し話しただけでも分かるほどにはきっと優しい人で、気配りがすごく上手な人だと思う。
そんな彼女が、急なこととはいえ、用意するおもてなしを間違えるなんてことはありえない。
もちろん、これはアスターが勝手に都合よく解釈しているだけに過ぎない。
けれど、そういう風に解釈したほうが良いと。そう、実に良いことなのではないかと思い始めていた。
再び天井を見上げ、大きく息を吸う。
埃っぽさのない、妙に綺麗で吸いやすい空気だった。
きっと、この場を用意するにも相当な金額がかけられているのだろう。
それだけフェリはこの場に真剣で、アスターという一人の客に対して誠実に対応しようとしているということだ。
それに対して自分はどうだと、アスターは自分自身に問いかける。
所詮他人が勝手に決めただけの価値に惑わされて、最初から商談を諦めているのではないか?
そんな自分を、一体誰が信用するというのだろう。
アスターは大きく息を吐き出した。
そして、天井に向けていた視線を机の上に下ろし、意を決してクロカマボコに手をつける。
心臓の鼓動が早くなるのを感じたが、口に入れてみると、それは意外なほどにあっさりと大人しくなった。
甘くて苦い、この世界の味が口の中に広がっていくような感じがした。
アスターの変化に、フェリもエリカも何かを感じ取ったらしい。
エリカはクロカマボコを逃したことを残念がっていただけかもしれないが、彼の交渉相手に関して言えば、間違いなく退屈そうな雰囲気を霧散させていた。
鋭く細められた目が、アスターの真価をはかるかのように一挙一動を捉えて離さない。
「すみません、二千万クレジットを、お金で用意することは難しそうです」
「なら交渉はここで破談かい?」
まるで続きを待っているかのような彼の口ぶりに、やっぱりとアスターは確信する。
「いいえ、ここからが本当の商談といきませんか。僕が提供できるものは……僕という人間の、利用権です」
「ほう、アスター殿には二千万クレジットの価値が、あると?」
まるでアスターが考えていることを全て読み取っているかのように、彼は期待する言葉をアスターから引き出そうと楽しそうに問いかける。
やはり一筋縄ではいかなそうだと、素直に自身の勝利がないことを認め、アスターはゆっくりとエリカに目を向ける。
彼女は相変わらず何かが手に入れられなかったことを残念がっている顔をしていたが、しかしアスターに視線を向けられれば、彼の考えを支持するかのように、いつもの凛々しい無表情に切り替わった。
「いいえ……僕ができるのはせいぜい機械を直すくらいなものです。ですが、僕は今、ここにいるエリカさんを利用する権利を持っています。……言いたいことは、分かりますよね?」
静かに、挑戦するかのように叩きつけたアスターの言葉を聞いた商談相手は、その言葉をじっくりと噛みしめるかのように目を閉じて深く頷き、しばらく沈黙した。
そして数秒後、男はニッコリと笑いながら両手を広げた。
「オーケー、それじゃあ早速、俺からもアスター殿へ依頼させてもらおうじゃないか」