#012_そしてアスター・ルードベックは旅に出る
「アスター、こいつがあんたの取り分、二万クレジットだ。確認してくれ」
翌日、エリカと共に防衛室に呼び出されたので再び訪れると、主任が札束を渡してきた。
どうやらこれがこの世界のお金らしい。
紙の質はあまり良くなさそうで全体的に薄汚れてはいるが、印刷状況は決して悪くない。
きっと長い間取引に使われ続けているのだろう。
「いいんですか?」
まさか自分がお金を貰えるなんて思ってもみなかったアスターは手渡された束をじっと見つめながら、思わず聞き返してしまう。
「当然だろう。飛び入りとはいえアスターの坊主はきっちり仕事をしたんだ。誰も文句は言わねぇよ。ま、ちぃとばかし少ないかもしれんがそこは勘弁してくれ。こっちも色々厳しいんでな」
「……ありがとうございます」
少ないというこの金額が仕事に対して少ないのか、あるいは絶対量として少ないのかの判断がアスターには出来なかったが、貰えるのならと戸惑いながらも感謝を述べる。
すると彼はなぜだか驚いたような表情でアスターの顔を見返してきた。
何か礼儀のなってない受け取り方でもしてしまったのかなと、アスターは少し不安になってしまう。
だが彼が驚いていたのもほんの一瞬のことで、まあなんでもいいかと言った風に首を振り、すぐさま別の話題を口にし始めた。
その内容はアスターとは関係のないものだったので、多分そこまで気にすることもないだろうと、あまり深く考えないことにした。
「エリカの嬢ちゃんの報酬はまだ調整中だからもう少し待っててくれ。商隊の連中が高すぎるってんで払い渋ってるもんでな」
「ええ、わかったわ。良い返事を期待しておくわね」
「ま、最後には奴らも快く首を縦に振ってくれるさ」
怪しげな笑みを浮かべながら交わす二人の会話に、アスターは得体の知れない怖さを感じていた。
まるで無理矢理にでも承諾させてみせると言わんばかりの物言いは、たったいま受け取ってしまった物の汚さを裏付けるかのようだった。
「ああそうだ、アスターの坊主よ、もう一ついいか?」
「なんでしょうか?」
「あんたさえ良ければこの街で働かないか? 腕の良い整備士がちょうど欲しいと思っててな。エリカの嬢ちゃんに聞いたんだが、住むところが無いんだろう? 寝床はこっちで用意するし、あんたの腕なら稼ぎも期待できるはずだ」
「この街で……整備士として……?」
エリカの方を見やると、肩をすくめていた。
事情を話したのは間違いないが、そんな提案を彼がするとは思っていなかったらしい。
それでも特に口を挟むつもりはないらしく、この件についてはあなた自信が決めなさいと、その目で語っているようだった。
「この街もいつまでもエリカの嬢ちゃんに頼りきりではいられないからな。ヒト用の武器開発に整備、あとは戦闘型の一般ネーヴァの受け入れ態勢を整えることを考えると、整備士がいねえと話になんねえんだ。もちろん無理にとは言わねえ。あんたにゃあんたの事情ってもんがあるだろうしな」
「……考えておきます」
アスターには返事が出来なかった。
提案はおそらく、とても魅力的なものなのだろう。
故郷に帰るためには資金が必要だということは理解していた。
だから働く場所を与えてもらえるのなら、それは願ってもみないことだし、稼げる見込みがあるというのなら尚の事よい。
しかし彼の言い方からして、アスターに求められているのは長期間に渡ってこの街に貢献することだ。
すなわち、事実上この街への定住を要求されているのであり、それは受け入れがたいことだった。
そこまですぐに考えることが出来ていたのに、彼はなぜキッチリと断ることが出来なかったのか。
それは、今のアスターには自分が進むべき道が見えていなかったからである。
故郷には帰りたい。
けれどその手段がわからない。
この地で誰かの役に立てるならばそれでもよいのではないか。
そもそも皆戦っているのに、一人安全な地へ逃げ帰るようなことをしてよいのだろうか。
彼自身のこの意思の弱さが彼に迷いをもたらし、彼の進む道を覆い隠してしまっていたのだ。
「あの、聞きたいんだけど、この二万クレジットってどれくらいの価値があるの?」
寝泊まりしているエリカの小屋に戻る道すがら、アスターは気になっていたことを訊ねた。
またそんな事も知らないのと呆れられるかと思ったが、彼女は特に気にした風もなく淡々と答えてくれた。
「そうね、私だったら一日もかからず使い切ってしまうけれど、平均的なヒトの食事量なら五日くらいは食事に困らないと思うわよ。武装を揃えたいのなら中古なら並の品質のものが一式揃えられるかしらね。他には――」
彼女は随分と相場に詳しいらしく、スラスラと情報が唱えられていく。
その一つ一つをしっかり噛みしめ、この世界における物の価値というものを大まかにではあるがアスターは理解した。
そして、昨日のあの短時間で稼げる額としては二万クレジットというのはかなりよい収入であると結論づけた。
「ありがとう、大体わかったと思う。もう一つ聞きたいんだけど、いいかな?」
所持金が充分な額であることを知ったことで、アスターは自分の気持ちに余裕ができていることに気がついた。
その余裕が、彼に次の選択肢を与える。
「ええ、なにかしら」
「例えば、エリカさんを一日雇った場合、いくら位必要になるの?」
回答次第で、アスターにはやりたいと思うことがあった。
今後自分がどうするべきか考えるため、早めにやっておきたいことだ。
「そうね……内容にもよるけれど、護衛でついて回る程度なら安く見積もって五十万クレジットってところかしら」
絶句した。
五十万。
今の所持金の二十五倍で、三十日ほど昨日と同じような仕事を続けてやっと確保できるだろいうという金額。
そんなのは、無理だ。
都合よく仕事を見つけ続けられるかも分からないし、そもそもこんな場所で長期間暮らすのだって耐えられるかわからない。
「もしかして私を雇いたかったのかしら」
明らかに意気消沈したような彼の様子を見て、エリカが訊ねる。
「うん……でもとても手が出るような金額じゃないから」
アスターは彼女を護衛に雇い、とある場所の調査に赴きたいと考えていた。
それは、リリィを失い、エリカと出会ったあの廃墟。
転送されてきたあの隠された部屋。
帰るための手がかりがあるとすれば、あの地しか考えられないからだ。
けれどその希望もこの世界の現実はそう簡単に許してはくれないらしい。
諦め、アスターは足を自然と止めてしまう。
そんな時、思わぬ一言がエリカの口から飛び出してきた。
「それなら別に追加料金はいらないわよ。あなたからはもう代価を受け取っているのだし」
「……え?」
「とぼけないでよ。あの子の身体であなたは私を買っているのよ。まさか私が親切であなたに付き合ってるとでも思ってたの?」
「質問に答えてくれるってだけじゃなかったの……?」
「それってつまり私の時間をあなたに提供しているってことでしょう。護衛でその辺の廃墟についていくのと何も変わりはしないわよ」
その言葉が契約的な誠意から生まれたものなのか、あるいは彼女なりの親切心の表れなのかアスターには判断ができなかった。
しかしどちらにせよ、ありがたい提案には変わりがない。
ならばここは厚意として受け取り、良くしてくれる彼女のことを好きになりたいと彼は感じた。
「それじゃあ、お願いしてもいいかな……? あの廃墟にもう一度行きたいんだ」
「わかったわ」
三十分後、二人は再び出会いの地に足を踏み入れていた。
これだけ早くたどり着けたのは、装甲車のおかげだ。
アスターが歩いて行こうとしたところ、
『あなたの歩く速度に合わせていたら行って帰ってくるだけで一日が終わってしまうわ』
と言って、エリカが装甲車を借りてきたのだ。
もちろん運転も彼女である。
あまりそういうことは出来ないんじゃないかと、ろくに運転もできないアスターは疑っていたのだが、
『ネーヴァなら誰だって運転できるわ。同じ機械同士だもの』
と得意げに語っていた。
実際操縦技術は大したものだったので、彼女の言葉は本当にそのとおりなのだろう。
廃墟は相変わらず虚しい雰囲気に包まれていた。
生きるものはなく、ただそこにあるだけ。
けれどなぜだか、初めてこの地を見たときに感じたあの絶望感だけはそこには存在しなかった。
「周辺にミレスの気配はないわね。それで、何か探すものでもあるの?」
「うん、隠された地下室がないかなって」
「この廃墟に? そんなものないわよ」
「え? なんでわかるの?」
「だって街の周辺の廃墟は一通り調査済みだもの。人類の資源不足は昔から深刻なのよ。調べられる場所は徹底的に探索するわ。それに、もしも地下室が隠されているとして、入るにはきっと仕掛けか何かを動かさなければならないのでしょう?」
「うん、多分そうだけど……」
「なら、なおさら無いわね。生きている仕掛けがこの廃墟にはもうないから。私達ネーヴァにはそういうことがなんとなくわかるのよ」
到着早々、アスターは出鼻をくじかれてしまっていた。
そういう情報は出発する前に欲しかったと少し思ったが、目的を話していなかったのは彼なので、何も言えそうになかった。
それに、調べたかったのは廃墟の中だけじゃない。
気を取り直して、あの丘に向けて歩き始める。
「驚いたわ。まさかこんなところに階段があったなんて……なるほど、普段は岩で完全に偽装して、空間そのものを……」
廃墟からの移動中ずっと訝しげな顔をしていたエリカを、丘の上まで案内すると随分と驚いた様子だった。
どうやら廃墟は調査し尽くしていても、この何もない丘の上までは手が及んでいなかったらしい。
アスターが開いてから閉じずに放置していたので階段はあらわになっていたが、元々は岩で偽装して見つからないようにされていたようだ。
頷きながらエリカが開閉を繰り返し、その巧妙な隠蔽具合に感心している。
「あら、これは何かしら」
自分が調べにきたんだけどな、とアスターが若干困惑していると、エリカがなにかに気がついたようだった。
アスターにも見てほしそうな雰囲気を出し始めたので、近づいて一緒に見てみる。
「ねえ、見て。この部分。目立たないけど、何かの模様が彫られているみたいだわ」
彼女が指さした先には、確かに模様が彫り込まれていた。
ざっと眺めただけでは気付け無い、しかし注意してよく見れば見つけられる、絶妙な場所。
自然現象では絶対にできそうもない、意味を持っていそうな模様。
野ざらしにされていれば風化して消えてしまいそうなのに、ハッキリとその輪郭を残している模様。
「これは……」
「なにか知っているみたいね」
その模様は、紛れもなくあの紋章と全く同じものだった。
この地に降り立つきっかけになったあの機巧が示した紋章。
ルードベック家の倉庫に隠されていた、地下室の入り口に刻まれていた紋章。
「知っているというか、これを見つけたのがきっかけなんだ。僕がこの土地にきたのは」
アスターはそう言うと軽く息継ぎをして、自分がどういう経緯で転送されてきたのかをエリカに説明した。
彼女は語られる内容について興味ありげというわけではなさそうだったが、しかし興味が無いとも言わず、ただ黙って耳を傾けていた。
「それで、僕たちはこの廃墟にやってきたんだ。その後はエリカさんも知っての通り、リリィが僕を庇って死んで、僕は君に助けられた」
ひとしきり語り終えた時、アスターは自分が思ったよりも冷静でいられていることに驚いていた。
まるでたった一日か二日程度でこの世界の日常に慣れてしまったかのように、リリィがネーヴァであることを受け入れてしまったかのように、彼女の死のくだりを淡々と語っていた自分自身に強い怒りを覚えた。
「ふうん、じゃあこの紋章はきっと出入り口の目印なのね。これだけ完璧に偽装できているなら、目印がないとあとで困るもの」
しかし日常の中にいる彼女は、そんな彼の心情など全く察してくれてもいないようだった。
アスターが語った事実から必要な事柄だけを抜き出し、推測できる可能性を自身の考えも交えて提示した。
やっぱり彼女は機械なんだなと、アスターはぼんやりと感じてしまった。
もしも同じ血の通った人間なら、彼のことを慮り、それは辛かったわね、くらいの一言は投げかける場面だ。
それがないのだから、彼女から感じたあの生命の輝きはきっとこの世界が生み出した虚像でしかないのだろうし、今感じているこの表現しようのない虚しさもまた、彼が抱き始めた僅かな希望の残滓なのだろう。
「まあそういうものだって分かったならいいわ。中を調べましょう」
そんなことを思っている間にも、エリカの方はすでに紋章への興味は失っていたらしく、内部の探索を急かしてきた。
なぜ彼女が率先して動いているのか、真意は分からない。
だがきっと、早く終わらせないと日が暮れてしまうからとか、その程度の合理的な理由しか無いんだろうなとアスターはなんとなく考えた。
「結局見つかったのは入り口の紋章だけ、か……」
一、二時間程度くまなく内部を探索したものの結局それらしい手がかりは見つからず、アスターたちの調査は徒労に終わってしまった。
暗い太陽はもう間もなく傾こうとしており、荒野には闇が迫ろうとしていた。
「そうね。でも良かったじゃない。あの紋章について調べればいいっていうことが分かったのだから」
意気消沈するアスターに対して、エリカは相変わらず淡々とした様子だ。
冷静沈着といえば聞こえは良いが、捉えようによっては無情とも言うことが出来る。
得られた手がかりについてだってそうだ。
アスターはたったこれだけしか手がかりがないと後ろ向きなのに対し、自分には関係がないからと気楽そうなエリカからしてみれば、方針が決まって良かったと、随分前向きな解釈だ。
「そうは言っても、どこをどう調べればいいのかが分からないよ。エリカさんは何か心当たりでもあるの?」
「私にはないわよ。あればちゃんと言っているわ」
「じゃあそんな無責任なこと言わないでよ……」
すっかり落胆したアスターは力が抜けきってしまったのか、ふらふらと近くの岩に腰を落としてしまう。
そんな彼の様子を見てもエリカはなお表情一つ変えず、はじめからそうすると決めていたかのように、ごく自然な動きで座り込むアスターに向けてゆっくりと歩み寄った。
「そうね。これはあなたの問題で、だから確かに私に責任はないもの。勝手に期待して勝手に落胆される方が心外だわ」
歩きながら紡がれる彼女の言葉はひどく辛辣だ。
傷つくアスターに更に追い打ちをかけるような口撃。
だが、更に一歩踏み出した彼女の口から流れ出したのは、冷たいだけの言葉ではなかった。
「けれど、私に紋章についての心当たりがなくとも、心当たりがありそうな人についてなら私は心当たりがあるわ」
下を向いていたアスターは、思いがけない彼女の言葉に驚き顔を上げる。
気付けば、エリカが手の届くところにまで近づいてきていた。
「選ぶのはあなたよ。リジーマで整備士になってこの土地の生活を受け入れるのか、僅かな希望にかけて私の手を取るか。自分の気持ちと故郷を捨てて楽になってしまうのか、困難な道になろうとも自分が行きたい場所に向かって旅立つのか」
彼女は手を差し出していた。
顔を見上げればやはりいつもどおりの無表情で、真っ直ぐにアスターを見つめていた。
優しく導くのではなく、かと言って憐れんで手を差し伸べているのではない。
ただ彼の選択だけを待ち、その選択を尊重しようとしているのだ。
その気持ちが伝わってきた時、アスターは動揺した。
「選ぶ……、僕が……?」
「そうよ。自分の道を選ぶのはいつだって自分自身。それが出来るから、私達は人間なのよ。諦めるのも、戦い続けるのも、人間にだけ許された権利なのよ」
彼女がなぜそんな風に言ったのか、ハッキリと理解できたわけではなかった。
けれど、エリカの考え方はあまりにも鮮烈で、眩しくて。
こんな台詞を、作り物の心が生み出せるはずがない。
そう感じた時、アスターは立ち上がっていた。
「もしもエリカさんが言うことが本当なんだったら……」
差し出された手を取り、立ち上がるのを手伝ってもらうのではなく。
「僕の行く道がただの逃げ道でしかないのだとしても……」
自分の心で、自分の足で。
「それこそが僕の選んだ道なら、エリカさんはそれを否定しないで、いてくれるのかな?」
彼の言葉は、決意表明でも何でもなかった。
自分の道を選ぶために、迷う理由を断ち切るために問いかける言葉。
過酷な日常を受け入れている彼女たちの生き方を拒絶するような自分自身の行動が、本当は間違っているのではないかという不安を捨て去るための問い。
アスターはどこまでも弱く、臆病だった。
確固たる意思がないから。
流されるままに生きてきたから。
他人のためという綺麗な言葉で自分を守ってきたから。
誰かに後ろ指をさされたくなかったから。
選ばないことで全てを保留にして、逃げたいという気持ちにすら蓋をしていた。
けれど。
「ええ、否定しないわ。私にとって生きることは戦うことだけれど、あなたにとってはそうじゃなかった。ただそれだけのことよ」
彼女は、アスターの気持ちをすべて認めてくれた。
赦すのではなく、ただ対等な価値観の一つとして、認めてくれた。
エリカはなおその手を差し出し続けている。
立ち上がるのを助けるためではなく、彼の選択を待つために。
「……決めたよ」
そう言って彼が握った手からは、人の温度が感じられた。
荒野に吹く風はまだ冷たい。
けれどその感触は、一歩踏み出した旅人を奮い立たせるかのように、この世界の息吹を彼に感じさせるものだった。
アスター・ルードベックは長い旅路の一歩を踏み出した。
故郷に帰るため、世界から逃げ出すために。