#000_暗転する世界
「どうして……どうしてこんな……」
何もない廃墟の中心で、青年が地面にへたり込み、嘆きつぶやいている。
今にも泣き出してしまいそうな彼の瞳に映っているのは、その腕に抱えられた一人の女性の優しげな顔だけだ。
長い髪はどんな微かな光の中でもきらきらと煌めく美しいブロンド。一本一本がとても細く柔らかく、まさに絹糸のよう。
肌は陶磁のごとく透き通った白。赤子のような柔らかさすら感じさせるそれは、まさに天使のよう。
彼女の表情はとても温かな笑顔で彩られており、彼女のことを何一つとして知らない我々が見ても、きっと穏やかで陽だまりのような性格をした女性なのだろうということがうかがい知れるものだった。
そう、彼はこの世の男性の誰もが羨む権利を――見た目麗しく、性格は慈母の如き彼女をその腕に抱くことができるという権利を――手にしているのだ。
にもかかわらず、どうして彼はこんなにも悲しんでいるのか?
それは、彼女の瞳に光が映っていないからである。
青年が愛おしく思っていた、あの笑顔はもう戻ってこない。
たった二人で迷い込んでしまったこの場所で、彼女は他の誰にも知られること無くこの世を去ってしまったのだ。
――本当に、一体どうしてこんなことになってしまったんだろう。
――あの時、僕があんなことをしなければ……。
後悔ばかりが彼の胸の中を満たしていくが、しかしそれもすぐに終わるだろう。
がしゃり、がしゃり、がしゃりと音が近づいてくる。
それは、彼女の命を刈り取り、そして悲しみに暮れている青年の命もまた刈り取らんとする、死神が鳴らす滅びの足音だ。
――どうして、ああ、どうして僕がこんな目に合わなきゃいけないんだ。
――今すぐ逃げ出したい。
――今すぐ、あの温かくて幸せしかない僕の世界に帰りたい。
青年は這い寄る死の音を耳にしながらも、ただ嘆き悲しむことしかできなかった。
もう、身体は動いてくれそうもなかった。
ここまで逃げてくることができたのは、彼女が励ましてくれたからであり、あの死神の一撃を彼女がその身を投げ出して庇ってくれたからに他ならない。
もしも彼が強く勇敢な男だったのならきっと、彼女の想いを無駄にするまいと奮起し、立ち上がることができたのだろう。
けれど彼は、ただのか弱い青年でしかなかった。
平和な世界で、何に不自由することもなく、温かな光に包まれて育っただけの青年。
過酷な環境というものを何一つ知らず、悪意を知らず、一切の戦いを知らず。
そんな彼が、絶望を目の前にして立ち上がれる道理なんて一切なかったのだ。
彼はただひたすらに、「どうして、どうして」と、壊れたレコードプレイヤーのように同じ言葉だけをつぶやき続けている。
顔をあげず、立ち上がる足を持たず。
自身の選択を悔い責め続け、迫り来る運命に抗おうともしない。
彼はまだ死んではいない。
けれどもう、生きてはいなかった。
やがて死神の気配が彼の目の前で立ち止まる。
死を受け入れるしかない青年はこれ以上怖い思いをしたくなかったのだろう。
レコードプレイヤーは沈黙し、その世界は暗転した。