名のない勇者
最初、それは冗談か何かかと思った。
人のことを揶揄する、本気ぎりぎりを低空飛行しているブラックジョークのような、性質の悪い冗談だと思っていた。
だけど、それがそういう類のものではないことを、それを言った張本人のお母さんの目が言っていた。これは、真実である。間違いない。
思えば僕が食事の席に着いた時から―もしくは僕が家の玄関に入ってきた瞬間から―お母さんは何だか背中がかゆいのかのようにもじもじしていた。ああ、そうか。それはこれの予兆だったのかな。
何かあるのかとは思ったけれど、まさかいきなりこんなことを言われるとは思ってもいなかった。
「―あのね隼人、実はあなたには弟がいるの」
「やっぱりさ、魔法とか呪文がないとつまんないよな」
隣を歩いているヒロが、素早く拳を突き出しながら言う。どうやらゲームの話をしているようだ。僕はその様子に苦笑する。
「ていうか、それはファンタジーの大前提の一つだよ」
「でも前のシリーズにはなかったんだよな。だからオレ、途中でやめちゃったよあれ」
この日、僕と親友のヒロとで、学校に登校しながら発売される新作のRPGゲームについて夢中で話し合っていた。その発売日は、なんといっても今日。そりゃあ、話さずにはいられないよね。
「で、おまえは親とかに買ってもらえそうなの?」
ヒロはその二重の大きなくりくりした目で僕を捉えながら訊く。こうして見ると、やっぱり彼はかっこいいんだな、と実感してしまう。事実、彼は女子によくモテるらしい。
「うーんわかんないけど、お母さんなら大丈夫かな」
お母さんならガードも甘いし。腕を組みながらそう考えていると、ヒロが大げさなくらい大きなため息を吐きだした。
「いいなぁお前の所はお母さんだけで。オレのところは父さんがいるからさ、説得面倒なんだよね、鉄壁の壁だもん」
がんばれ、ヒロ交渉人。苦笑しながらそう彼をからかう。
僕にお父さんはいない。いや、事実上はいるんだけれど、今はいない。つまり、僕はお母さんと現在二人暮らし。
別に事故で亡くなったとか、あれから行方をくらましているとか、そういうこととはまったく違う。
数年前、お父さんとお母さんは離婚し僕はお母さんに引き取られた、そうだ。それは僕が物心身に付く前の、本当に小さな時の出来事だったらしいから、僕はまったく覚えていない。
そのことがショックかといえば、僕は対してそうじゃない。そりゃ、笑い飛ばせるようなことではないだろうけれど、僕の記憶が始まった時には既にお母さんと二人きりだったから、なんというか辛いとか悲しいなどという感情はなかった。あるのは一つ、これが僕にとっての当たり前、ということ。だから、悲しくないし辛くない。
お父さんの顔は知ってる。古いアルバムを押し入れの中から引っ張り出してきた時、その思い出の中に、小さな僕をおんぶして笑っている推定、お父さんを見たからだ。どこにでもいそうな普通の顔だった。これがお父さんか、とその顔をまじまじと眺めてみても、どこか現実感がなかった。一度も会ったことがないから。少なくとも、物心つく前は。
「ねえねえ、ハヤト」
朝のホームルームが終わってからの短い休み時間、ヒロが僕の席にやってきた。ステップを踏むような軽い足取りで、下手したら今にも踊り出しそうだ。
「斎藤先生、昨日より身長伸びてなかった?人間って、あんなに急に成長するもんなんだなぁ」
俺も明日になったら身長伸びてるかな、と彼は期待に目を輝かせる。僕は思わずその場でずっこけそうになった。また、ヒロの天然現象が始まった。
「違うよ、先生、今日は靴を変えてきたって言ってたじゃない。多分底が厚い靴だから、背が伸びたように見えたんだよ」
僕の話を聞いて、彼はなんだよぉと呟きながら勢いよく肩を落とした。本当に外れてしまうのではないかと、無駄な心配をしたくらいだ。
「ねえ本田くん」
がっくりしているところに、女子二人が現れた。脇に算数の教科書と問題集を抱えている。 「算数でちょっとわからないことがあるから、教えてほしいんだけど…」
「お、いいよ。それじゃ、ハヤト。またね」
前にも言ったように、彼はその容姿から女子によくもてる。そして―少し天然が入っているけれど―、彼はすごく勉強ができた。テストで90点以下の点数を、僕は見たことがない。だから、彼は女子に勉強を見てもらうのをせがまれるのが多くて、大忙しだ。
そんなヒロを、僕は親友として誇りに思い、そしてちょっぴり羨ましいな、と思いもする。なんで、あいつは全部の手札を持っているのだろう。
ふとヒロのほうを振り向くと、彼は顔がばってんマークになりかけている女子に、分数がどうとか四角がどうとかと真剣に話していた。僕はそれを、一人机の上で盗み見ていた。
「ただいまぁ…」
音をたてないように、僕はひっそりと玄関から家に入る。
下校中に、作戦は決まっていた。今日発売のゲームを、どうやって買ってもらうか、だ。
最近のゲームは高額すぎて、とても僕らのお小遣い程度では手が届かない品物だった。唯一それをつかむことができるチャンスは、今の僕らにはこれしかない。
まず夕食中に普通の何でもない話題を振り、それからさりげなく『本題』のほうに入っていく。徐々にしみこませていくわけである。言葉で言うのは簡単だけれど、これがどれだけ大変か。正直僕はげんなりしていた。
そっと扉を開けてリビングに入ると、お母さんがちょうど僕に背を向けてテレビに見入っていた。そのまま、僕は抜け足差し足で自分の部屋に引っ込もうとする。別にスパイじゃないんだからこそこそする必要はないんだけれど、何となくこうしてないと僕の心の中が読まれそうだったから、一応念のため。
自分の部屋のドアノブにあと数センチで手が届くというところで、ふとお母さんがこちらを振り向いた。やばい、敵の将軍に見つかった。いや、別に見つかってもいいんだけど…。
「ああ、隼人。お帰り」
「あ、うん。ただいま―」
お母さんはそれだけ会釈を交わすと、さっさとテレビに視線を移した。
…変だな。いつもなら「またこそこそして。またゲームでも買ってもらおうとおもっているんでしょ?あんたはそういうときいつも何だかよそよそしくなるんだから―なんらかかんたら」と罵倒と怒涛の言葉の弾丸が僕に撃ち込まれてもいいはずなのに、今日はそれがない。おかしいな。
まあ、ばれなかったからいいか。今回は、彼女の読心術も役には立たなかったということだろう。僕はほっと一息ついてから自分の部屋の中に滑り込んだ。
それから僕は宿題を片付けてゲームをしながら機が熟すを待って―夕食まで待ち続けて―、入った時と同じようにひょっこりと部屋から顔を覗かせた。
すぐさまいい匂いが僕の鼻の中に入ってきた。やった、今日はカレーだ。
獲物を探すみたいにキョロキョロ周りを見渡すと、キッチンに野菜を刻んでいるらしきお母さんの背中を見つけた。何だか今日は、やっぱり変だ。包丁裁きに切れがない。どうしたんだろ。
とりあえずそれに気付かない振りをして、僕はそそくさとテーブルにつく。お母さんもそんな僕に気付いたらしく、ちらりとこちらを見た。
悲しい目をしている―。振り向いた一瞬、お母さんはそんな目をして僕を見た。そしてすぐまな板の上の野菜に視線を戻す。
僕はキッチンの方向に首を向けたまま固まってしまっていた。―なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がした。
でも、やっぱりそれも見なかった振りをした。
しばらくしてお母さんが濃厚な香りがする大きな鍋を運んできた。蓋を開けると、閉じ込められていた湯気が一斉に飛び出す。
カレーをよそい終わり、お母さんも食事の席についたところで、僕はさっそく計画に移ることにした。
「お母さん、今日ヒロ凄かったんだよ」
カレーを口に運びながら無邪気な演技をする。心の中では計画がバレないかと汗ばむ手を握りしめていた。
「誰もわからなかった漢字、一人だけ読めたんだよ!先生だってびっくりしてたし!」
そう、とお母さんは笑う。けれどその笑顔には何処か力がなくて、何だかおかしい。どうしたんだろ、お母さん。今日は特別変だ。 そのまま会話も続かず、何故か気まずいムードのまま、僕はもくもくとカレーを口に運ぶ。ちらちらと横目でお母さんを盗み見た。いつもとなんら変わらない表情だったけれど、違う。何かを考えているように見えた。それが何かはわからないけど…。
どうしよう、もういっそ本題を持ち出してしまおうか。『ゲームがほしいんだけれど、お小遣いが足りないんだ』って。真剣な顔で頼めば、あるいは相談に乗ってもらえるかもしれない。
でもカモフラージュもなしにいきなりこれを持ち込むと、いつものように『お小遣いがたまるまで待ちなさい』って軽く一蹴される危険性がある。―けど、今の空気じゃ会話なんて弾みそうにないしなぁ。ええい、もういいや。言っちゃえ。
「あのね、お母さん―」
「隼人」
突然お母さんが顔をあげ、僕の言葉を遮った。一瞬目論みがばれたのかと驚いたが、そうじゃなかった。
お母さんは、泣いていたのだ。ぽろぽろと涙をこぼして。
「お母―さん?」
「ごめんね、隼人。実はあなたにずっと隠していたことがあるの。これを言ったらあなたはびっくりするかもしれないけれど、驚かないで聞いて」
え?え?何がどうなっているんだ?僕に隠していたこと?さっぱり話が見えてこなかった。けれどお母さんは、困惑する僕にゆっくりと口を開いた。
「―あのね隼人、実はあなたには弟がいるの」
……え?その時の僕の顔は、口をあんぐりとあけたままのひどく間の抜けた表情を浮かべていたと思う。
ジツハアナタニハオトウトガイルノ。
真白になった頭の中に、その言葉だけが何度も繰り返されていた。
そんな僕の人生を大きく揺さぶるような言葉を聞いたあとでも、平凡な明日は僕に手を振りながらゆっくりと歩いてきた。
「実はあなたには弟がいるの」
あの言葉を聞いたあとに布団にもぐった僕の心の中に、様々な感情が入り込んできた。
困惑、驚き、衝撃、少しの悲しみ、少しの嬉しさ、そして、怒り。
どうしてそのことを僕に黙っていたんだ。そんな大事なことを、何でずっと暮らしていた僕に黙っていたんだよ。今話されたって、僕、どうしたらいいんだよ。
目をつぶってから、朝起きても、ずっとそんな真黒な気持ちが、胸の中を渦巻いていた。イライラしているような、腹が立つような。
だから朝食はいらない、ってそれだけ言って家を出てきた。お母さんは心配そうに僕をちらりと横目で見ていたけれど、僕は今、彼女の顔を見たくなかった。
登校中も授業合間の休み時間も、ヒロが昨日発売のゲームのことをあれよこれよと話していたけれど、僕の頭はまだ見ぬ弟でいっぱいで、それは右耳から左耳へと流れていくだけだった。
「おいハヤト、ハヤトってば」
帰りのホームルームが終わったあとも、彼は飽きもせずにすぐ僕の席に飛んできた。
「お前今朝から黙り込んじゃってるけど、どっか具合でも悪いのか?保健室行く?」
僕を心配して慌てるヒロ。いつもなら自分のことを思ってくれているんだな、と微笑ましく思えた。
けれど、今はそんな彼に対して癇癪を起していた。うるさいな。僕は今他のことで頭がいっぱいなんだって。ほっといてくれよ。目の前で騒ぐなよ。
「いや、大丈夫」
黒い感情をなんとか抑えて、僕は机から立ち上がりかけた。それでも、ヒロはまだオロオロしている。
「大丈夫じゃないだろ、顔色めっちゃ悪いぞ。一回保健室行って見てもらったほうがいいって」
「大丈夫だって言ってるだろ!?」
僕の中の黒い塊が暴走して、僕が意識する前にそう大声を出していた。帰ろうと教室の入り口に殺到していた生徒たちが、一斉に僕を見た。僕の頭の中は黒で支配されて、もう止まらなかった。
「ヒロはいっつもしつこいんだよ。大丈夫って言ってるのに余計心配したりしてさ。自分が頭よくてモテるからって、調子乗るなよ。馬鹿じゃない」
はっと我に帰った時はすでに全部吐き出してしまっていた。目の前に、口をあんぐりとあけているヒロがいた。
「…帰る」
僕はそのまま踵を返すと、駆け足で教室を飛び出した。生徒玄関の扉を蹴飛ばすように開けて、全速力で駆けだす。
あんなのは八つ当たりだ。ヒロは何にも悪くないのに、まるでヒロがすべての元凶のように当たり散らしてしまった。心にも思っていないことを、彼に叩きつけてしまった。
僕はあふれ出る涙を袖で拭いながら、振り返りもせずに逃げ出した。
途中、勢い余って何度も転び、家に着くころには僕は埃まみれになっていた。転んだ時に体をかばった手のひらは切れて、そこから血がにじみ出ていた。けれど、痛みは感じない。今度は、自分への嫌悪感で頭がいっぱいになっていたからだ。
リビングに入ると、ソファにいたお母さんがぎょっとして僕に駆け寄ってきた。
「どうしたの?傷だらけじゃない」
「…転んだ」
僕はぷいっとそっぽを向く。またお腹の中が煮えくりかえるような感覚が戻ってきた。そもそもの原因は彼女なのだ。
彼女は救急箱を持ってきて僕の掌に大げさなくらい包帯を巻くと、ほっとした反面再び悲しそうな顔になった。
「それで、昨日も話したあなたの弟のことなんだけれど―」
その言葉で、僕のお腹の中の黒い水が沸騰した。素早く顔をあげて彼女を睨む。
「やめてよ!そんなの聞きたくない!どうして早く言ってくれなかったんだよ!もっと早く教えてくれれば、こんなに悩まなかったのに!ヒロとも喧嘩しなかったのに!お母さんのせいで、僕の人生はめちゃくちゃだ!」
彼女はまるで頬を思い切りたたかれたように大きく怯んだ。わなわなとふるえ、目に涙を浮かべる。それを見て、僕に取り付いていた黒い塊は消え失せ、後に僕が残った。
そして僕は、また逃げ出した。自分の部屋に飛び込んで、鍵をかけた。
お母さんはなにも悪くないのに、ほら、君はまた八つ当たりしている。
僕の中にいる良心をもったもう一人の僕が、僕を指差してそう非難した。今の僕には、それを弁解できるような言葉も、勇気もなかった。
ご飯も食べないで部屋に閉じこもり、布団の中で僕が考えていたのは、この問題の解決法だった。
どうすれば、この黒い塊を誰かにぶちまけずに済む?どうすれば、誰かに苛立たずに済む?どうすれば、弟という存在を受け入れられる―?
何もない平凡な僕の人生に、突如干渉してきた存在。それも、血が通った兄弟。まるで地球に移住してきた火星人のようだ。そんな彼を、どうやったら僕の人生に迎え入れることができるか。
その方法は、すぐに思いついた。小さい頃に読んだ、アルバムに写っていた僕をおんぶしている見慣れない人物―お父さん。彼に会うのだ。
おそらく、弟は彼の所にいるのだろう。お母さんたちが離婚したときに、僕らはきっと離れ離れになったんだろう。子供の僕でも、これくらいは予測できる。
いきなり弟に会うのは、僕にとって―たとえが悪いけれど―親の敵に遭うようなものだった。どうせ僕のことだから、また相手に黒い塊を投げつけて、罪悪感に苛まれるに決まっている。
だから、お父さんに会おう。お父さんと話をしよう。それで何もかもが解決するとは限らないけれど、僕に今残されている手は、それしかなかった。
翌日―土曜日の朝早く、僕は電話が置いてあるデスクの引き出しをひっくり返し、お父さんの携帯の電話番号を探り出した。
やはりお母さんは、お父さんを忘れることはできないのだろうか。そんなことをふと思う。だから電話番号がまだここにしまってあるんじゃないか。
僕はそのまま電話の受話器を手にして、震える指でその紙に書かれた電話番号を押す。途中、何度も怖じ気づきそうになったけれど、僕はやめなかった。
すべてのボタンを押し終えたあと、それを伝えるように呼び出し音がなった。プルルル、プルルル…。
「はい、三村です」
一生その音が鳴っているかと思っていると、突然呼び出し音が男の人の声に変わった。僕はあわてて、思わず受話器を落としそうになる。
まったく聞き覚えのない声だった。小さい頃、おそらく聞いていたんだろうけれど、どこかへ忘れ去ってしまった声。
「…お父さん」
僕は今にも飛び出してきそうな心臓を抑え込み、ゆっくりと相手に向かってそう言った。電話の向こうで、相手が息をのむのがわかった。一瞬だが、緊迫したムードが流れる。
「隼人か?」
僕のさっきの発音と同じように、その声も多少躊躇しながら受話器の中から流れてきた。僕は深呼吸してから、ゆっくりと口を開いた。
「うん、お父さん。僕だよ。隼人だ」
「本当に久しぶりというか―。あいつの声とよく似ている。若干君のほうが高いけれど」
あいつ、とは弟のことだろう。今は緊張に押し込められていて、黒い塊は出てこなかった。ほっと安心する。
「お父さん、僕お父さんに会いたい。会って話したいことがあるんだ。」
「ああ、いいよ。お父さんも会いたいと思っていたんだ」
お父さんはまったく嫌がる様子も見せずに即答してくれた。僕の心の中に、ほんわかと温かいものが、ほんの少し戻ってきた。
「僕、お父さんが住んでいる所を見てみたいんだ。だから、そっちで待ち合わせしようよ」
「でも、結構そっちからだと遠いよ。大丈夫かい?」
うん、僕もう赤ちゃんじゃないんだよ、と冗談交じりに言うと、向こうで父さんの笑う声が聞こえた。そうだったね。
「じゃあ、お父さんの家の近くに、大きな噴水がある公園があるから、そこで待ち合わせしよう」
お父さんはそう言って僕に詳しい場所を何度も口で教えてくれた。目印になるもの、バスで降りる場所。そのおかげで、僕は細かい地図を作図することができた。
「じゃあ、午後の一時に、そこで待ち合わせしよう。気をつけて来るんだよ」
お父さんとの会話は、そこで切れた。あとには、ぷーっ、ぷーっと電話の鳴き声が聞こえてくるだけだ。
それでも僕はお父さんの声をまだ聞いていたくて、そのまましばらく受話器に耳をあてていた。聞こえてくるのは、お父さんの声じゃなかったけれど。
数時間後、僕は座席に座り、バスの車窓におでこをもたれさせていた。プシューッと空気の抜けるような音がしてドアが閉まり、唸り声をあげたバスがゆっくりと歩行を始めた。
お母さんには内緒で出てきた。どうせ会うのを止められると思ったから。どのみち僕は、もう誰の許可がなくても行動ができるのだ。それくらいの頭脳くらい、子供の僕にはある。ただ、バス代はお小遣いから出費のため、結構痛手だけれど。
出かけるまでのあいだ、ずっと何を持っていこうかとまるで旅行に出かけるかのようにわくわくしながらしばらく悩んでいたが、結局持ってきたのはMDプレーヤーだけだった。
窓の外を流れる建物の森を眺めながら、さっそく僕はイヤホンを耳につけて再生ボタンを押した。
イヤホンから撫でるよな優しいギターの音が聞こえてきたあと、急に曲調がロック調になり、歌が始まる。
これを歌っている人の声は少し高くて、まるで子供のように甘い歌声だった。そして何もかもを包み込んでしまうかのように、やさしい。
このバンドの名前は知らない。ただ、僕はこの曲だけが好きだった。歌詞の内容が物語になっていて、しかもファンタジーなんだ。
誰も名前を知らないどこかの誰かが、勇者となって暗闇に包まれた世界を救う。そんなストーリーだった。何となくこの主人公の臆病な性格が僕と色々重なるところがあり、何度も聞いているうちに好きになってしまった。これなしじゃいられなくなった。
ああ 世界はなんて広いんだろう
小さく震えていた僕は この世界の一部にすぎなかった
暗闇を払って その足で地面を受けとめる
歩くのは怖い 怖いけど
僕を待っている人がいる
名のない勇者を待っている人がいる
彼は裸足でしっかりと大地を受けとめ、世界を救った。
だから僕も自分の足で前に進めれば、『名のない勇者』になれるのかな。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。バスは終点駅についていた。飛び起きて慌てて降りた。
それからお父さんに教えてもらって自作した地図を見ながら―若干観光気分も味わいながら―、少し迷って、公園に着いた時にはちょうどよく一時になっていた。
僕が想像していたの公園より十倍くらい広くて、噴水もまるで象のように水を噴出していた。僕より小さな子供たちがそこで気持ちよさそうに水浴びをしている。
公園の周りを散歩しているご老人夫婦、ベンチに座っている若い女の人と男の人、水浴びしている子供たちのお母さん。きょろきょろと見渡してもお父さんらしき人は見当たらなかったので、噴水の近くのベンチに腰かけた。ベンチの身長は意外と高く、足が届かずにぷらぷらとしていた。
「隼人」
足をぷらぷらしていると、頭の上から声が聞こえてきた。ゆっくりと顔を上げる。
そこには、アルバムで見た写真よりも若干年を取って、それに眼鏡を足した男の人が立っていた。―お父さんだ。
「お父さん!」
僕は心から嬉しさがこみあげてきて、思わずチンパンジーのようにお父さんに抱きついてしまった。お父さんはそんな僕に苦笑する。
「はは。大きくなったな、隼人。お父さんが見たころはこんなに小さかったのに」
僕の隣に座り、人差指と親指で寸法を表しながらお父さんが笑った。
「うそだぁ、そんなに小さくないよ」
あはははは。しばらく二人でお腹を抱えて笑い合った。久々の再会のぎこちなさもなく、僕とお父さんは普通の親子みたいに接することができた。それが、僕にはうれしかった。
「お母さん、げんきにしているか?」
うん、と頷く。
「…でも、喧嘩しちゃったんだ」
ひどくつらく当たってしまった。僕はまだあの時の自分が許せない。そんなしょんぼりしている僕の頭に、お父さんが手のひらを乗せる。
「喧嘩したってさ、仲直りすればいいんだよ。そうすれば、また仲良しなんだから。簡単だろ?」
うん!僕は元気よく頷いた。お父さんの言葉には、まるで予言か神様の言葉のように何か信じられる温かさがあった。大丈夫、全部うまくいくよって。
でも、今日僕がここに来たのはこういうことをするためじゃなくて、どうしても訊きたいことがあったからだ。だから僕は、訊かなくちゃいけない。名のない勇者として。たとえ怖くても。
「ねえ、お父さん」
「ん?どうした」
お父さんはさっき二人で買ってきたソフトクリームを子供のように夢中に食べながらこちらを振り向く。これを訊いたらお父さんの笑顔を壊してしまいそうだけれど、僕は訊かなくちゃいけない。
「どうして、お母さんと結婚したの?」
僕の突然の質問に、お父さんはしばらく目が点になっていた。だけどそのあと急にまじめな顔になり、まっすぐに僕の目を見た。
「運命の出会いだと思ったからだよ」
運命の―出会い。なんだかまるで異世界の言葉みたいだった。ウンメイノデアイ。そんなもの、本当にこの世にあるの?剣や魔法と同じように。
「じゃあ、どうして離婚したの」
お父さんは、一瞬ひどく悲しい目になった。その瞳が、誰かに似ていた。
ああそうか。弟がいるって言った時のお母さんの目に、そっくりなんだ。
彼はしばらく戸惑うように下をうつむいたあと、やがてゆっくり口を開いた。
「運命の出会いじゃなかった、って気づいたからだよ」
遠くで鳩が飛び去っていくのを僕の横目が捉えた。その瞬間、噴水の音すら僕の耳には入らなくなった。
「僕の、僕のせいなの?」
僕が生まれたから、お父さんとお母さんの運命の出会いは、運命の出会いじゃなくなっちゃったの?どうなの、どうなの、お父さん。
「違う。それは違うよ、隼人」
まるで不治の病を患っているような辛い顔をした彼が、僕の肩に手を置いた。その手が少し震えているのに気づいた。
お父さんのせいなんだ。彼はそう言った。
「でもね、隼人はお父さんの自慢の息子だ。もちろん、君の弟もね」
その時僕の胸の中で、沸騰するのを感じた。怒り。憎しみが僕を支配する。
「そんなの、そんなの、大人のいいわけじゃないか!お父さんと離れ離れにされた、僕の気持を、どうして考えてくれなかったの?弟がいることを今さら教えられた僕の気持ちは?ひどいよそんなの。間違ってる!」
ああ、お前はそうやって、また八つ当たりする。
悪くない人に八つ当たりして、そうやっておまえは自分の不満をごまかそうとしている。
お前は小さな人間だ。勇者なんかじゃない。
名のない勇者なんかじゃない。
「ごめん、隼人」
どこかでお父さんが謝る声が聞こえてきた。いつの間にか、僕は自分の世界の奥深くに来てしまっていたようだ。
「お父さんたちが傷つけあっている姿を、君たちに見せたくなかったんだ。離婚するときだって、ほんとは君たちを離れ離れにしたくなかった。だけどお父さんたちのどちらか片方では、君たち二人を育てることは無理だったんだよ。だから、仕方なく離れ離れにするしかなかったんだ。君たちに今まで兄弟がいることを黙っていたのも、言いだす勇気がなかったからだ。お父さんには勇気がなかったんだよ」
でもな、お父さんたち、決めたんだ。彼はそう言って顔をあげた。僕は驚いた。だってその顔は、ある決意に満ちた、勇者の顔だったから。
「また、お母さんと一緒に住もうと思う。君たち兄弟を離れ離れにさせておくわけにはいかないから。たとえ運命の出会いじゃなくてもさ、お父さんは、それを運命の出会いに変えてみせる。だってお父さんはまだ、お母さんを愛しているからね」
たとえ傷つけ合っていたとしても。その言葉は、独り言のように小さくつぶやいた。
お父さんはやがて、ゆっくりと立ち上がった。自分の足で、しっかりと。
あ。その時僕はお父さんの姿を見て思った。
名のない勇者だ。世界の片隅の存在だけれど、確かにそこにいる、小さな勇者。
僕も、なれるかな。今から。こんな臆病な僕でも、なれるかな。
そして、僕もしっかり自分の足で地面を捉えた。コンクリートは、僕を優しくキャッチしてくれた。
何故だか涙が止まらなかった。頬っぺたを伝って次から次へと流れていく。あれ、僕、何で泣いているんだろう。
ああそうか。今まで僕がなんとも思っていなかったお父さんとお母さんが、こんなにも僕のことを考えていてくれたから、その気持ちに気づけたから、嬉しいんだ。喜びなんだ。
そして僕の心にも、一つの決心があった。光輝く勇者の証が。
「お父さん―」
僕はまっすぐお父さんの目を見た。もう、何も眩しくない。怖くない。
「―僕、弟に会うよ」
それから僕は、誰に頼ることなく自分の足で歩き始めた。
ひとまず休み明け、いつもの登校時の待ち合わせ場所で待っているヒロに「あの時つらく当ってほんとにごめん」と頭を下げて心から謝った。勇気を出すことが、こんなにも簡単だとは思わなかった。
けど、「え?なんのことだっけ?」とヒロが目を剥いたため、結局うやむやになっちゃったんだけれどね。何はともあれ、僕らの友情はこれからも続くってことだ。
そしてもちろん、お母さんにもちゃんと謝り、弟と会うという意思を伝えた。すると、お母さんったら大げさに泣いちゃって、子供をあやすより大変だった。
「何だか隼人ったら、急に大人になったみたい」とお母さんは言ってくれた。そうだよお母さん。僕、勇者になったんだ。これからは、お世話をかけないように頑張るよ。
とにかく、何もかもがうまくいき始めた。平凡でつまらない僕の人生は、今は七色に輝く虹のように、色鮮やかに光っている。そんな気がする。
そして、最後にやり残したことは、たったひとつ。
いよいよ、弟との対面の日になった。
彼はお父さんと一緒に僕の家にくるそうで、僕とお母さんは待つ間ずっとうろうろしていたりして、落ち付かなかった。
心臓が元の位置に収まらなくなるくらい暴れていた。緊張で、いくら水を飲んでものどがすぐからからになる。握った手の汗はいつまでも引かないし、じっとしていられない。
けれど、怖いという感情はなかった。そんなものは、きっとあの公園の噴水にぷかぷかと浮かんでいることだろう。
ロボットのようにかくかくと動き回っていると、やがてインターホンが鳴った。まず最初に、お母さんが飛び出す。僕はその後ろにくっつくようについて行った。
玄関には、嬉しそうに微笑んでいるお父さんの姿があった。だけど、肝心の彼の姿が見られない。
「あれ?…彼は?」
ああ、そうだったとお父さんは頭を掻くと、彼の名前を呼んだ。
「来斗、ほら、前に出て」
お父さんの後ろから、恥ずかしそうにうつむいた僕と同じくらいの背丈の男の子が出てきた。彼は少し躊躇していたけれど、ゆっくりと顔をあげた。
「あ!」
僕は思わず驚いた。その顔は、僕とまるで瓜二つだったからだ。彼も、自分と同じ僕の顔を見て尻もちをつくほど驚いていた。
そうか、双子だったのか。どおりで探しても弟の写真がないわけだ。だって顔がそっくりなんだもの。
僕は出来るだけやわらかにほほ笑むと、右手を彼に向かって差し出した。
来斗は恥ずかしそうにほっぺたを掻いて、それからにっこりと笑った。僕そっくりに。
「僕、隼人」
「僕、来斗」
僕らはお互いの掌の感触を確かめるように強く握手を交わした。
「よろしくね」
こうして僕らの名のない勇者たちとしての終わりのない旅が、始まった。
この物語は、親子の絆の大切さを伝えると同時に、少年隼人の心の成長を描いています。
これが処女作なので多少の表現の間違いなどはあるかもしれませんが、どうぞ皆さんお楽しみください。
この物語が、あなたの心の片端でもいいから、少しでもあなたの歩みの中に残りますように。そう願っています。