妻vs夫 ~朝食味付け感想合戦~
結婚してから、気づけば二十五年が過ぎていた。
私たちに子どもは授からなかったから、今は夫婦二人で三十五年ローンの一戸建てに住んでいる。
長年、同じ屋根の下で暮らしていると、良いこともあれば、当然嫌なこともある。
新婚当初は毎日が新鮮で、朝食を作るのが何よりも楽しみだったのに、今ではもう、どうすれば時間短縮の料理ができるのかしか頭にない。
夫も私の料理に関心がなくなってきたのか、ご飯を作っても「美味しい」と言ってくれなくなった。
せめて感謝の一言でもあれば、作りがいがあってレパートリーも増えるのに。
夫には何でもいいから、私の料理に対してリアクションをしてほしくなった。無反応だと作る意欲がなくなってしまう。
そこで私は、ある作戦を決行することに決めたのだった……。
◇
ある日の朝。
夫はリビングで新聞を読んでいる。
私は、いつも通り朝食の準備をはじめた。今日のおかずは焼き鮭と煮物を中心とした和食料理である。
そこで私は、ちょっと細工をする。いつもなら鮭に塩を振るところだったけれど、代わりに砂糖を山ほどまぶしてみた。
それは意図的だった。
こうすれば、さすがの夫も私の料理に何かしらの反応を示してくれるだろう。
わざと普段と違う味を出しておいて、次の日にいつも通りのものを作れば、夫はきっと私の料理を「美味しい」と再認識してくれるはずだ。
そんなふうに私が目論んでいると、いつのまにか新聞をたたんだ夫は食卓についていた。
私は、慌てて朝食を出した。
夫は、無言で焼き鮭に箸を伸ばす。
眼鏡を指先で上げた夫は、何も言わずに口を動かしていた。
私の予想では、「何かこの鮭、甘過ぎないか?」とでも言うかと思ったのに、夫は一言も感想を述べない。
結局、夫は何も喋らずに朝食を完食した。
私の目論見はことごとく失敗する。
夫は会社へ出勤するため、いつも通りの表情で家を出ていった。
◇
次の日。
私は作戦を変えてみることにした。
その日の朝食は食パンとサラダだった。
冷蔵庫には『イチゴジャム』が常備されていたけれど、私はそれを取り出さなかった。
その代わりに、私はお手製の『一味ジャム』を作った。言葉の通り、一味がたくさん入ったジャムである。
完成した一味ジャムを夫に食べさせる前に、私は少し味見をしてみた。
ひぃ~。辛い。
想像以上の辛さだった。それでも私は、涙目になりながら大きく頷く。これなら、きっと辛さが苦手な夫もリアクションをするに違いない。
特製ジャムを塗った食パンを、夫は無言でかじっていた。
パンの表面は一面赤い。見ただけでもいつもとは違うとわかりそうなものだけれど、それでも夫は気づく様子はなかった。
「どう?」
味の感想を待ちわびていた私は、我慢できずに夫に訊いてみた。
「どうって、いつもと同じ食パンだけど」
夫は言った。その顔は、そんな当たり前な質問をなぜ訊くのだとでも言いたげな表情だった。
あれだけ辛くしたのに、夫は気づいてくれなかった。
どんだけ私の料理に興味がないのよ。
心の中で怒りの突っ込みをした。
でも、その怒りが逆に私の闘争心に火をつけることになってしまった。
◇
私は、意地になって朝食を作った。全ては夫のリアクションを見るためだった。
そこで私は、朝食を全部、和菓子で作ってみた。
目玉焼きも、ウインナーも、漬物も、納豆も、味噌汁も、全部が和菓子でできた偽物だった。もちろん、茶碗に入っている白米もだ。
これだけ作るのに時間はかかったけれど、これなら夫も反応を示すだろう。
いつも通り食卓についた夫は、私の料理を一口を食べた。
モグモグモグモグ……。
夫は、何も言わない。
「ん?」
しばらくすると、夫は何かに気づいたようだ。
「髪切ったのか?」
夫は、私を見て言った。
確かに私は数日前に美容院へ行った。
それでも今は、そのことに気づいてほしかったわけじゃない。
もっとすごい変化が、あなたの目の前で起きてるでしょうに。
あなたが今、口の中に入れているものは全て和菓子でできているのよ?甘いでしょ?柔らかいでしょ?驚かないの?
私の心の声になど全く気づく様子のない夫は、満足そうに頷くだけだった。
もう私の惨敗だった。
これだけ頑張ったのに、何にも気づいてくれないなんて。夫の味覚がこんなにも鈍感だったとは今まで気づかなかった。
そんな夫の口から「美味しい」という言葉を引き出そうとしていた自分が急に情けなく感じる。
「いってきます」
朝食を食べ終えた夫は、私にそう伝えると、会社へ出かけていった。
◆
「いってきます」
妻にそう伝えて、自宅を後にした。
何だか最近、妻の様子がおかしい。特に朝食の時間になると、決まって妻は僕の顔をじっと見つめてくる。
まさか、ばれたのか?
嫌な予感がした。
実は、僕には一つだけ妻に秘密にしていることがあった。
それは僕の味覚が、他の人とは違うということだった。
僕の味覚がまるっきり変化したのは、結婚してから数ヶ月が過ぎた頃だった。
その頃の僕は、ある悩みの種を抱えていた。それは妻の作る料理が、想像をはるかに越えるくらい美味しくなかったことだ。
それだけなら僕が我慢して食べればいいだけなのかもしれないけれど、一番困ったのは、妻が料理の感想を求めてくることだった。
「美味しいよ」
僕は嘘の感想を述べてみるけれど、妻の目はごまかせなかった。
「私の料理が食べられないわけ?」
機嫌を悪くした妻は、僕に包丁を投げるような素振りを見せた。
まだ死にたくない僕は、頑張って妻の料理を完食する。
そうすると妻の機嫌は元通りになるのだった。
そんなことが毎日続くと、さすがに辛くなった。
それでも、妻は他の家事を完璧にこなす人だったことなどもあり、僕には別れるという選択肢はなかった。
なので僕は、最終手段に出たのだ。
後日、僕は友人のところへ出向いていた。
そいつは夢みたいなことでも、何でも叶えてくれる魔法使いみたいな男だった。
僕が妻のことで悩みを相談すると、そいつは、僕の舌に魔法をかければいいと言った。
友人が発明した薬で、僕の舌には魔法がかけられた。どんな食べ物を口に入れても、全く味覚を感じないようにしてもらったのだ。
その日から僕は、何を食べても一切味を感じなくなった。
これも全ては自分と妻のためだ。味を感じないから、僕は妻の料理を残すことなくたくさん食べられる。妻も、不味そうな顔をして食べる僕を見なくてすむ。
その代わり、外食をしても僕は一生味わうことはできなくなった。でも、それも妻の機嫌を悪くしないためだ。僕が我慢するしかない。
◇
「ただいま」
仕事が終わり、自宅へと帰宅した。
妻は夕飯を用意して待っていてくれていた。
食卓には、出前をとったのか豪勢な寿司があった。
何か良いことでもあったのか、妻は嬉しそうに微笑んでいた。
どうやら僕の秘密は、まだばれていないようだ。
一安心した僕はネクタイを外して食卓につく。
唯一、残念だったことは、その美味しそうな寿司を味わえないことだった。
「あなたには敵わないわ」
ふと、妻が呟いた。
何のことを言っているのかはわからなかったけれど、とりあえず妻の機嫌が良さそうなのでホッとする。
「いただきます」
妻が幸福そうな顔をしてマグロを頬張っていた。
その笑顔を守れるのならば、きっと僕はまだ秘密を抱えて生きていくのだろう。
まぁ、それでもいいか。
僕は玉子を頬張った。